- ベストアンサー
秀吉の若いとき
豊臣秀吉は低い身分から自分の力で頂点まで登りつめた人物の代表だと思いますが、若いとき、信長のぞうりとりがきっかけでやとってもらったと聞いた気がしますが、身分の低いものが一城主に会うことはできるんですか?? それともきっかけは別にあったんですか・ あと、兵をひきいる身分になるまでは、どうやって出世していったんですか? 戦闘は強いと聞いたことがないので、生き残れたのがすごいと思うのですが・・。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
まず下働きでも何でも雇ってもらわないと、ぞうりを温めることもできなかったと思うので、ぞうりの話は「気が利く奴」と、取り立ててもらったきっかけだと思います。その後も伝説が多いと思いますが、炭薪奉行や台所奉行等のそろばん系で成果を挙げ、墨俣築城を名乗り出たというのが一般的かと思います。 >戦闘は強いと聞いたことがないので、 自分自身の武芸で出世したわけではないのは確かでしょうね。
その他の回答 (4)
- tyouei
- ベストアンサー率32% (17/53)
#1の方と同意見です。それに信長は若い頃、うつけ者のふりをして遊びまわっていたのですから、あるいは有能な人物を発掘しようとしていたのかもしれません。又、単に戦闘に強くないといっただけで身分が上がらない国はすぐに滅びてしまうのではないでしょうか?身を守るにはそれを得てとする人を雇えばいいのですから。
- ryutora
- ベストアンサー率43% (32/74)
武功夜話では信長が豪族の生駒の娘のところへ通っているとき、秀吉が生駒家で雇われていたので知り合い、信長の家来となったとあります。このころは信長は城主ではありません。生駒の娘は出戻りですが、信長は大変愛して子供を3人作ったくらいですからきっかけはたくさんあったでしょう。 なにしろ秀吉は積極的ですから。 生駒の家の近くには蜂須賀彦右衛門正勝(小六)がいましたので、秀吉も知り合っています。 出世に関しては他の方が書かれている通り気配り、おだて、情報入手、話術があげられるでしょう。 しかし信長に仕えるには並大抵の努力だけではなかったでしょう。 個人単位での戦闘では武勲をたてていなかったのですが、尾張兵は弱いことで有名だったので、すぐ逃げてもそれほど問題にされなかったと思います。信長も一番槍や一番乗りが最高の殊勲とは思わない合理主義者で、兵隊の人数を常に確保するため兵農分離していますから。
- zero-fighter
- ベストアンサー率30% (155/507)
秀吉の若い頃の話は、物語での伝聞が多いのでよくわかりません。 歴史小説などではいろいろと出会いの場を工夫していますが、それが正しいのかどうかもわかりません。 一時期、駿河の松下家に仕えていたという記録ぐらいしか、歴史上は明らかになっていないと記憶しています。 また、普通は身分の低い人が城主に気軽にあえることはないとは思います(ちなみに「ぞうりとり」はすでに部下です。第3者がぞうりとりはしません)。 また、出世に関しては、情報入手と気働きとアイディアで出世したと、小説には書かれています。 例えば、墨俣一夜城(事前に城を作る木材を加工しておいた)、 稲葉山城攻略(裏道を利用した)etcなどは、どの小説にも書かれています。
- yui-fujibayasi
- ベストアンサー率37% (34/91)
信長の時代は、後の江戸時代なんかよりももっとオープンだったようですね。城主が数人の供を連れただけで気軽に出歩いたり・・・ だから、身分の低い者でも、目にとまるチャンスはいっぱいあるわけで、秀吉が信長の目にふれてもおかしくはないようです。 秀吉が実際にぞうり取りをしていたかどうかはわかりませんが(あくまで逸話なので)、信長の人柄や性格を熱心に研究し、できるだけ信長の目にとまり、なおかつ気に入られるようにせっせと働いたことでしょう。 そして、さまざまな奉行職を命じられるようになっていったのだと思います。 秀吉が敵の首を挙げて出世していったような記録はありませんので、戦闘力よりは、まめな働きと頭脳による出世だったと思われます。 また、兵を率いるようになってからは、戦闘力という面では蜂須賀彦右衛門正勝が主に活躍したようです。