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中国大返し
早すぎた進軍に光秀は亡びたようです、昔の交通は車両無いのに 、マラソンが得意だったのでしょうか、宜しくお願いします。
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当時の交通事情を考えると 事前準備無しにあの日数での大返しは無理です (それ故 本能寺の黒幕が秀吉では?と言われる事にもなるのですが) 当時の馬は今のサラブレットではなく ポニーみたいな小さい馬です この馬が全力で駆けてもそんなに早くないです それに走れる距離も短い 秀吉は20キロぐらい走っては馬を乗り換えて姫路まで戻ったそうですよ 備中高松から姫路までは自分の領地なので馬の調達は容易だったでしょう
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- eroero4649
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>虐殺を繰り返していた悪人を退治したので、英雄とならないのが不思議、なぜか悪人扱いでかわいそう その秀吉は明智光秀を倒して天下人への道を歩み始めたのですから、明智光秀は悪人じゃないと困ります。「信長公の無念を晴らしたのは秀吉」と宣伝するためにもね。 また江戸時代になればそりゃ謀反人は悪人にしておかないとこれまた為政者である徳川家としては困ります。 三代将軍家光の乳母として知られる春日局は、明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘です。天下の謀反人の家老の娘が将軍の乳母になっています。もし本当に光秀が大悪人だと徳川家が思っていれば、そんな人事はあり得ません。 家康、秀忠、家光の三代に重鎮として仕えた天海和尚。その出自は不明ですが、その天海と春日局が会ったとき、春日局は天海と初めて会うはずなのに「おひさしゅうございます」と声をかけたという説があります。天海=光秀説というのもありますね(私はこれを信じたいですが、年齢がかなり合わないそうです)。 明智光秀は悪人ということになってもらわないと困る人たちが大勢いるんですよ。きっと朝廷あたりにね。
お礼
ありがとうございます。
- jkpawapuro
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シミュレーションをしてみるとどうやってもあの短期間では移動不可能なので、武器を置き去りにさせて兵だけ移動したのか、現在に伝わってる内容が間違いかどちらかだろうと考えられていますね。 兵だけ移動させたとなると、あらかじめ別働隊に姫路から摂津まで武器を運ばせた等現地で用意したことになります。 また全力移動後の兵は使い物にならないという見解がありますが、当時の秀吉は速やかに攝津に移動して、逃亡減少中の織田信孝・丹羽長秀勢と攝津の現地勢力を吸収する必要があるので、クタクタだろうと役立たずだろうと速やかに攝津に入り自分のプレゼンスを発揮する必要があります。 秀吉はこの移動中にも「信長様無事到着、速やかに我が傘下に入られたし」としきりに偽情報を含んだ文書を各武将に送り多数派工作に勤めています。(細かい文面は忘れました)
お礼
ありがとうございます。
- fujic-1990
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まさに質問者さんご自身が書いておられるように、中国大返しは「速かった」のではなく(もちろんそれもありますが)、「早かった」のです。「早すぎた」のです。 自動車がなかったとか、マラソンが得意だったとか、馬で駆けたとかいうのは「速度」の話。「速かった」という文字になります。 互角の毛利と戦うのだから、決着が付くまで時間がかかるだろう。兵力の大半が使い物にならなくなってもいるし、負傷兵を抱えて、いつもよりゆっくりとした「速度」で帰ってくるだろう。だから、朝廷や土豪などに対する説得などの準備をする時間はタップリあるだろう、と思ってゆっくり対処していたのに、もどってくるのが早すぎたのです。 で、準備が間に合わなかった。 速かったという点については、どうやって速度を速くしたかは、小説家の腕の見せ所で、ある小説家は、家臣を先行させ、村々にゼニを配って、道々に水や「塩むすび」などを大量に用意させ、兵には食べながら歩かせたというストーリーにしています。同時に、武具などは荷車などに積み、あとでゆっくり(平常速度で)来るようにさせた、とか。 ちなみに、昼夜なく歩き続けた兵は戦力になりませんから、姫路で1日2日、蔵の米や酒を全部使って飲み食いさせて、兵の体を休めたことになっています。 休んだというのはもっともな話なので、納得なのですが、しかし休んだとすれば、「平均速度」は驚くほどでは無くなっていたと考えられます。 やはり、毛利と和睦して大返しを始めたのが「早すぎた」のであって、移動速度が驚くほど「速かった」=速すぎたというわけではないと思われます。
お礼
虐殺を繰り返していた悪人を退治したので、英雄とならないのが 不思議、なぜか悪人扱いでかわいそう、ありがとうございます。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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馬も結構速いですよ。 歩兵などは地元で雇うので、ほぼ騎馬の移動でしょうね。 と言うより、秀吉軍の早すぎる進軍ではなくて、光秀に味方がいなかった・・・というのが亡びた原因だったのではないかと。 娘(ガラシャ)が嫁いだ細川家がついてくれなかったのが痛かったかと。 それに数少ない味方は東の方を警戒して派遣してしまったし、関西方面にいた武将達もこぞって秀吉方についてしまったのです。 実は秀吉よりも早く信長死亡の報を得た武将がすぐ近くの大阪・堺にいたのですが、パニックで兵が逃亡し光秀を討つことが出来なかったそうな・・・ 秀吉がいち早くという訳では無かったのです。
お礼
武田の騎馬隊というのが有名でした、秀吉軍の隊員も馬に乗れた んですね、ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。