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幕藩体制下における裁きの中央と地方の役割分担
幕藩体制下では、裁きの中央と地方の役割分担はどうなっていたのでしょうか。 大河ドラマの草燃ゆでは、密航を企てた松陰が一旦は江戸に送られて裁きを受け、その後地元に帰って地元の牢獄に繋がれています。国禁に対する裁きは江戸でするものの、未遂等の事件は地元で閉じ込めておけ、という扱いなのでしょうか。
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「国禁に対する裁きは江戸でするものの、未遂等の事件は地元で閉じ込めておけ、という扱いなのでしょうか。」 これは、地元(正確には大名家)に閉じ込めておくのは、「預(あずけ)」という刑罰です。預にも二種類あって、一つは未決囚の拘禁で、裁判中で、軽罪の場合、牢に入れず、居住の町の町役人に身柄を預け勾留する町預、公事宿(現代の弁護士事務所兼宿泊所)に預ける宿預、居住の村の村役人に預ける村預、親族に預けるなどがありますが、これは刑罰ではありません。現在の被告人勾留にあたり、それを、町や村などに実施させることです。ただし、逃げられないように監禁し、手鎖をしたとされます。勾留する場所は、被告人の自宅や、公事宿、自身番屋、名主などの町・村役人の自宅などで、そのため公事宿の中には、座敷牢類似の勾留・拘禁施設を設けているものもあったとされます。 今一種類は刑罰としての預けで、現在の拘留・禁錮・懲役刑に当たります。本来は受刑者を牢獄などの施設に拘置し、行動の自由を奪う自由刑の一種です。現在であれば、牢獄などの刑事施設が整っているのでそこに拘置することになっていますが、江戸時代にはそのような施設が不十分であったことや、別身分のものを同一の施設に拘置することは、身分制度上好ましくないと考えられていたため、上記のような町・公事宿・村預・親族に預けられました。武士の場合、親族に預けることも多く、*陪臣の場合にはその主君に預けることも多く行われました。当然、他の旗本・大名に預けることも行われ、お目見え以上、500石以上の者については、大名に預けることが原則でした。また、国事犯や大名で罪を犯した者も大名に預けられることが原則でした。大名に預ける場合でも、親族・縁戚関係の大名に預けられることも多くありました。つまり、多くは受刑者、被告が所属する社会集団に預け、その責任で勾留・拘留するということでした。 ただ、預にも強弱があり、入口・窓等を板で閉鎖し、日の光も入らず、食事や、品物も制限されたり、その日常について幕府・藩などに報告し、待遇について承認を求めるほど拘束が厳しいものから、ある一定の範囲、たとえば城郭内は行動できるなど、対応に差があったようです。 *陪臣=又者とも言い、家来の家来(又家来)のことです。たとえば毛利氏は将軍の家来ですが、吉田松陰は毛利氏の家来であり、将軍から見て松陰は、家来の家来=陪臣ということになります。 密航を企てた吉田松陰のような国事犯(政治犯)は、死罪とならなくとも、刑罰である預になることは多くありました。松蔭の場合、死罪との話もあったようですが、それを免れ、預という刑罰を受け、所属する社会集団である毛利家に預けられたということになります。長州では松蔭を野山獄に拘留したのは、松蔭が一度脱藩し、士籍剥奪の処分を受けていたことによるものだと思います。野山獄を出された後に、実家である杉家に幽閉されたとされるのは、長州藩が松蔭の属する杉氏という社会集団に預けたことを意味します。ですから、放免されたのではありません。 『預』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90_(%E5%88%91%E7%BD%B0) 「幕藩体制下では、裁きの中央と地方の役割分担はどうなっていたのでしょうか」 中央を幕府、地方を大名・知行地を持つ旗本(領地を私領といいます)と置き換えると、幕領・私領の内部でおける訴訟は、原則個別の領主の責任で処理されます(自分仕置)。幕府の場合もは、郡代・代官・遠国奉行などの支配地ごとに分担して裁判を担当しており、裁判及び行政の面では、郡代・代官・遠国奉行などの支配地は、私領と同じような扱いをされます。ところが、複数の所領(幕領各支配地・私領)にまたがる件、全国に共通する件については原則幕府が担当しました。 ただ、江戸時代も進み、裁判の種類により、原則が緩和される場合もありました。裁判については、おおよそ現代の民事事案に相当する「出入筋」と、刑事事案に相当する「吟味筋」に分かれますが、幕府は出入筋については、複数の所領にまたがる案件についても、双方の領主・幕府代官などが相談して処理するように求め、それで解決しない場合には、幕府に案件をあげるように命じています。 これに対して吟味筋に関しては、元禄年間に出された自分仕置令に、主殺・親殺などの目上に対する殺害・傷害事案である逆罪や、火付、当時重罪であった生類の疵付のような重罪についても、事件関係者が所領内の者だけである場合は、領主の自分仕置きを認めている反面、複数の所領に関係者が存在する場合には、幕府に案件をあげるように命じています。これは、現在の刑事事案に相当する吟味筋は、国家統治や社会の安定にかかわるためでした。 さて、吉田松陰の海外渡航未遂事件は、鎖国に関連して渡航の禁止という国禁(国法上の禁止)を犯す行為でした。当時としては大罪で、一藩で裁ける案件ではありませんでした。当然当時の裁判の原則により、幕府が裁くべき案件でした。さらに、松蔭自身が幕府の下田奉行所に自訴しています。ですから、幕府により断罪されたわけです。 さらに、安政の大獄に連座して、新たに幕府により判決を下され、斬首されたのも、日米修好通商条約の勅許問題にからみ、倒幕・老中暗殺などを公言したことにあり、これも国事犯ですので、幕府が判断する案件だといえます。 以上、参考まで。
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- fujic-1990
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今年の大河は見ていないのでどう描かれたか知らないのですが、江戸時代は、基本的に家中取り締まりは「家中の責任」だったはずです。 江戸町奉行の支配は、町人と浪人までですね。虚無僧は寺社奉行の管轄で、江戸町奉行は口だし無用。医者も、どこかの藩から藩お抱えの身分を与えられると奉行所支配から除外となっていたようです。 松陰が幕府の裁きを受けたとしたら、本来の裁きではなく、実際に密航を企てて実践したのかどうか、身分(士かどうか、士ならどこの家中か)などの認定が行われたのではないでしょうか。未遂だから、軽罪だから、藩が処罰を担当したということではないと思います。 事実関係が確定されれば、直接幕府の手で処罰されるのではなく、家中の殿様が国法に照らして処断し、それが幕府の気持ちに合わなければ殿様や重臣が責任をとらされるという順番だったと思います。 赤穂浪士などは、浪人なので幕府の手で処罰まで行きましたが、あれも自分(幕府)の命令で切腹はさせたくなかったでしょうね。21世紀のこん日まで叩かれる原因になってしまいました。 松陰の場合、あれだけ公然と塾を開けたということは、「適当に処罰しておけばよし」という幕府の内意は出ていたのか、長州藩には幕府に従う気がなかったのか。理由はともあれ、決定は長州藩がしたことでしょう。 西郷隆盛も、名前を忘れましたがどこかの島に赴任させられ、幕府には「死んだ」と届けがでていたはずです。
お礼
ご回答をありがとうございました。 ドラマの描写に疑問が残りました。 西郷は、奄美大島だったと思います。
お礼
詳しいご教示をありがとうございました。 これならば、大河ドラマでの成り行きが納得できます。たとえ未遂でも、国禁を破る大罪ですから、中央政府たる幕府が裁くのが自然です。ただし、その刑の執行は地方政府や、さらにその下に担わせる「預け」という制度があったために、地元にまた返されたのだと理解できました。未遂だからではないですね。