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明治の県令の権力
大河ドラマで現在群馬県令の楫取素彦が出ていますが、地元の名士で飛脚業を営む産業課長悪沢にいじめられているシーンがよく描かれています。 ここで疑問なのですが、明治時代の県令というのはどの程度の権力を持っているのでしょうか? 中央集権化をしている明治時代に中央から役人が送り込まれるのだから現代の県知事よりはるかに偉いのではないのでしょうか?
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>中央集権化をしている明治時代に 各県が勝手に税金を取り軍事力・警察力を持っていた 江戸時代が250年続いた後 欧米列強の侵略に対抗すべく明治政府が出来て、 まだ20年も経たない頃です。 中央集権化は現代よりも進んでいませんでした。 >中央から役人が送り込まれるのだから >現代の県知事よりはるかに偉いのではないのでしょうか? 県知事は県民の選挙で選ばれます。 明治初期はあえてその地に縁のない人物が県令に選ばれました。 住民からすれば、どこの馬の骨、です。 >中央政府の権威と圧力に支えられて >県令が送り込まれるのでしょうから、 >命令には逆らえない絶対的な存在ではなかったのだろうか? 県令の主な役割は中央政府が決めたことの実施と 治安維持であって、県令が主体的に治めることできる権限は皆無でしょう。 何せ県令の自由になるお金がない。県庁の建設費や学校の建設費すら 民間の寄付でやっとのことできた、と言う話です↓↓ 楫取素彦は第2次群馬県の初代県令となった。当初県庁は高崎に置かれることになったため、楫取素彦は高崎町民に協力を求めたが得られなかった。そこで下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名は、師範学校の建設や衛生局の設立などに私財を投じ、物心両面から楫取の県政を支える決意を示した。楫取素彦はその熱意に感動し、県庁を前橋に移す決心を固めた。1881年(明治14年)に県庁が前橋に置かれることになり街の繁栄の基礎が築かれた[1]。 県庁移転費用調達の協議会では、下村善太郎が「一万両出すから」と口火を切り、ある富豪に「三千両出してもらえないか」と持ちかけたところ、「二十両でも出せない」と嫌がったため、怒った勝山宗三郎がこの富豪の頭を二つ殴り、「一打ちが千両として、二つ打ったから二千両増して(私の分と合わせ)三千両出しましょう」と言ったので、目標金額の三万両は即座に集まったという ^ 『広報まえばし』(前橋市、2014年1月1日号)4頁。特別寄稿文化国際課手島仁 ^ 『手島仁の「群馬学」講座』第54回(東京新聞群馬版)
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- MURAI YASUSHI(@yasudeyasu)
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250年続いた江戸時代、 それぞれの国にお殿様がいて 川を渡れば別の国、言葉も違いました。 また、人々の生活は農業で支えられていました。 土地や水源を抑えていた地主さんが偉かったわけです。 地元の名士>>>政府からある日突然派遣されてきたお役人です。 反発こそあれど、尊敬の意はありませんでした。
お礼
尊敬は無いでしょうが、いわば中央政府の権威と圧力に支えられて県令が送り込まれるのでしょうから、命令には逆らえない絶対的な存在ではなかったのだろうか?という疑問です。ご回答ありがとうございました。
- ithi
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jkpawapuro さん、こんばんは。 そうですね。県令は勅任官ですから、高等官に過ぎない県の課長とは地位がべらぼうに違います。だけど、県令は数年で移動してしまう官です。それに比べて、県の課長はもっと長くそのポストに居座り続ける可能性があります。たぶん、ちゃんとした採用試験で任命された管理ではないのでしょう。だから、他に事業を行っているので、既得権が生じてしまうのでしょう。ただ、こういうことは明治の最初の20年間の混乱期に起きることで、あとは明治26年に文官任用令ができ、ちゃんとした官吏に切り替えられます。
お礼
ご回答ありがとうございます。
お礼
てっきり国税がきっちり取られてそこから県庁に予算が割り振られているのかと思っていました。 予算をいちいち寄付を募って運営していたとなると地元有力者に頭があがりませんね。ご回答ありがとうございました。