大名は、「1万石以上の将軍により領知を認められた所領を持ち、将軍に直接奉公を行う者
」と定義されています。ですから、将軍と大名の間には、1万石以上の所領を認められるという御恩と、直接将軍に奉公するということで、御恩と奉公の関係という封建的主従関係にあることになります。
ところで、加賀の前田家のように100万石を超える大名には、本多家のように5万石以上の所領を持っていような家臣もいますが、加賀藩の藩主に奉公しているのであって、将軍に直接奉公を行うわけではないので、大名ではないことになります。この場合、所領も藩主によって宛行(あてが)われるれるので、藩主から御恩を受け、藩主に奉公を行うという藩主と家臣間に、御恩と奉公の関係が成立していることになります。
さて、「1万石以上の将軍により領知を認められた所領」についてですが、これは一般に(領知)朱印状により領知を認められます(所領安堵)。詳しく言うと、10万石以上または四位以上の大名には、格式の高い(領知)判物(はんもつ)という将軍の花押のある書式で発給されます。それ以外の大名については、花押ではなく印判の押された書式である(領知)朱印状により領知を認められます。以下の説明は「領知朱印状」で統一します。
本家と分家、本藩と支藩との関係ですが、大名の領地を規準とすると、2つに分けられます。本家の領地と離れた場所に分家の領地がある場合を、領外分家といい、本家の領内に分家の領地がある場合を、領内分家といいます。領外分家は江戸初期の御三家・御家門などの徳川親藩大名や一部譜代大名にに多く、幕府が政権を確立する過程で、親藩・譜代大名の親族を新規に取り立てていったこととも関連します。これに対して、家綱の時代以降には新規取立てが減少し、親藩・譜代・外様にかかわらず、本藩領の分割(名目的分割を含め)による領内分家がほとんどになります。
また、本家と分家、本藩と支藩との朱印状における関係ですが、三種類もしくは四種類あったとされます。
1本家と分家、本藩と支藩がそれぞれ別に領知朱印状を拝領している分家を、別朱印分家(分知分家)と呼びます。
2これに対して、本家(本藩)の領知朱印状に、「○○万○○石、内○万○○石分家名字官途(松平内匠頭など)進退すべし」のように、本家に発給された一枚の領知朱印状に、分家(支藩主)の名と石高が併記された形式で、内分分家と呼びます。
@本藩の石高と支藩の石高が別記の形で記載される形式と、本藩の石高の内に支藩の石高が記載される形式の二種類があるとされます。
3同じ内分分家でも、本藩の領知朱印状にも記載されず、別の領知朱印状も発給されない分家もあります。
@新田をもとに分知された支藩を新田藩といいますが、新田は私墾田で、幕府の拝領高には含まれないために、本藩の領知石高に変化はなく、本藩の家格にも変化がありませんでした。この新田藩の多くは独立した藩運営・財政運営を行わず、本藩に依存した運営を行う藩が多く、独立した「家」を形成せず、部屋住の大名のようなので、部屋住格大名という言い方があります。新田藩に限らず、内分分家には独立した「家」を形成しない大名が存在します。本藩とこの大名の関係は、将軍と一橋・田安・清水の御三卿との関係と類似するといえます。
さて、新田藩などの内分分家の形態には次のようなものがあります。
a具体的な所領を指定して分知し、支藩は本藩から独立した陣屋を構え、独立した藩運営・財政運営をおこなう。
b一応所領は指定し、分与するが、藩運営・財政運営は本藩により行われ、支藩は本藩から蔵米を支給される。
c所領地は指定されず、石高に見合う廩米を本藩から支給される。藩運営・財政運営は本藩に依存する。居所も本藩の城内に設けられることが多い。
ところで、領知朱印状の発給は、基本的に将軍の代替わりにより発給されるので、途中に発給されることはないとされています(初期は例外あり)。では、支藩を作れるのは将軍代替わりだけかというと、当然のことながらそうではありません。支藩をつくる(新規大名取立て)には、幕府に申請し、将軍により認められて、新たな大名家(支藩)が成立します。将軍により認められての部分が大切で、将軍の主従的支配権・御恩と奉公の根幹をなし、将軍に見(まみ)えて、将軍より申し渡される(代弁でも)行為により成立します。日本の武士社会・封建制において、「お目見え」するという行為の持っている重要性がここに表されています。時には書付よりも重要となります。ただ、時代が下るにつれて、当人ではなく、代人による「お請け」が多くなる傾向があります。
さて、幕府に申請すれば認められるものではありません。これは本藩・本藩主に対する恩典であり、優遇です。そのために、事前に老中などに根回しをして、内諾を得た後に申請することになります。
領知朱印状の発給についても同じで、事前に発給の形式についても根回しをしておかないと、幕府は基本的には、本藩と支藩に別途領知朱印状を発給することになります。支藩側はそれを望むでしょうが、本藩側は事前に根回しをして、事情を説明し(この行為を嘆願・申請とみなしもしますが)、本家と分家が併記された領知朱印状の発給を望みます。このことに関しては、支藩も独自に事前根回し、事情説明を行うことができますので、領知朱印状の形式をめぐり、本家と分家(本藩と支藩)が権謀をめぐらすことがあります。この辺の事情は、山本博文著『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩』に詳しく記述されています。
城郭を構えるうえでの許可についてですが、城を持つことも家格の一種でした。上から、国主・準国主・城主・城主格・無城の5段階に分けられた内の一つでした。なお、城主以上は城持でした。また、幕府は豊臣氏を滅ぼした同年の元和元(1615)年に、居城以外の諸領内の城郭破却を命じる一国一城令を出し、その後の武家諸法度で、新規築城の禁止、城郭の修築許可制を武家諸法度で打ち出します。そのため、分家大名の取立てだけでなく、新規取立ての大名への城地が不足することになります。特に分家大名は石高の低いものが多い上に、基本的に本藩の所領内で立藩するために、一国一城令により城地は本藩使用の城地のみなので、無城であることがほとんどです。城主(城持)となることは、転封により城郭のある所領に移ることができた場合と、永年勤続の実績や、役職精勤に対する褒賞で、城主に準じる城主格の待遇を幕府により認められることでした。なお、大名のおおよそ1/3程度は無城の大名でした。幕府は転封も賞罰的にも用い、無城の大名を城郭のある所領に転封(家格を上げる)させたり、逆に城主格の大名を無城の所領に移す(家格を落とす)などをして、大名統制の一環として使ってもいました(譜代に多い)。
参勤交代についてですが、原則は分家大名といえども義務であったといえます。逆に、参勤交代しない大名は定府といって、領国へは帰らず江戸にとどまります。この定府大名には、水戸藩と、老中などの幕府役職者がいます。これに、新田藩を中心とした内分分家の大名の一部が入ってきます。新田藩については『江戸幕府大辞典』では、「新田支藩の場合は藩主の江戸定府が義務づけられ」としています。
ところで、奉公についてですが、大名の嫡子以外の庶子の中に、大名としての所領を有していないながら、将軍への御目見えを済ませ、部屋住みの庶子という立場で、将軍に奉公する者がおり、幕府の儀礼にも大名として扱われ、参加します。これを部屋住格大名ということがあります。その中から分知を受けて、正式な大名になる者も出るわけですが、本家大名側とすれば、幕府とのつながりを深めるとともに、嫡子以外の継承候補者をアピールできることにもなります。これは、分家・支藩を設ける目的の一つである血統の継承ということにも関係することです。また、本家の当主が幼少などの場合、本家の補佐・後見にあたることも期待されることがあります。
さて、本家と分家大名の関係ですが、一概には言えないということです。千差万別、大名の家庭の事情も反映されていて、複雑です。領知朱印状の区分で言えば、別朱印分家のほうが、内分分家に比べて、本家からの独立性が高いといわれます。ところが、内分分家、それも領知判物に分家の記載がないという形式の毛利家では、分家が本家に反抗的で、それがために幕府により分家が改易(当主は配流)に処せられた例があります。分家の領地は没収を免れ、本藩に還付され、本家は分家の子による分家再興を幕府に嘆願して、実現しますが、このような事例もあります。ただ、藩運営・財政運営を本藩が握り、分家が実質的な運営権を持たない場合などでは、分家は本家への従属を強めますが、本藩の当主への就任や、後見人として力を発揮するなどすると変化が現れることになります。
ただいえることは、本家は、幕府に対して本家届書を提出している(幕府の承認がある)ことが一般的で、この場合本家分家の関係ははっきりしてはいます。本家届書が承認されている場合、分家の官位昇進や一般事項について、本家の届出が必要になります。しかし、本家分家の関係があいまいであったりした場合などには本家届書が提出されない=幕府の承認が下りないこともあります。さらに、本家が改易・減封などにより家格を落とすなどで本家が変更になる場合や、庶長子や養嗣子の後に嫡子が誕生し、庶長子(伊達家など)や養嗣子(毛利家など)が別家する場合などには争いが起こりやすく、これを本家末家論争といいます。
長くなりましたが、以上、参考程度に。