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もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・
つぎの命題をめぐって考えるところを明らかにしてください。 もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・ ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。 聖徳太子批判としていちど尋ねましたが この命題そのものをめぐって みなさんのお考えが聞きたいと思います。 これでよいと思っているのですが さらにいろんな角度からのご見解をつのりたいと思います。
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私が理解しているかどうか定かではないですが、聖徳太子以前の、「元の和」、と言われているものの実在が、リアリティもって語られるならば、質問者さんの説も説得力を持ってくると思いました。聖徳太子以前というと、古墳時代、豪族の時代の話になるのでしょうか。
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- yuniko99
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私の素直な感想を書きますが、何も無理して和することもないと思います。 和というものは繕って無理して成すものではありません 例えば酒盛りで盛り上がって 和してる様に見えますが、果たしてみんな騒ぎたいのでしょうか? 盛り上がりに参加しないと取り残されるから 頑張って騒いでるのではないでしょうか? コント・レオナルドで「騒ぎたい人が騒いでるんだろう 俺は眠たい 寝よう」と思っていると 「あなた一人寝ようというのは我侭じゃないですか?」と言われる話がありました。 輪を持って尊し。「まあ騙されたと思って一本吸ってみろ」男性なら大概身に覚えがあるのではないでしょうか? 今では禁煙が普通になってますが 昔は強いタバコを半分無理やり勧めるのが当たり前でした あんなもの吸いたくないと思う人も多かったでしょうけど 何度も勧められるうちに仕方なく吸うようになります それが和なのでしょうか? 「俺の酒が飲めないというのか!」と言うのも和なのでしょうか?? もっと言えば自民党です。和を持って尊しと言わんばかりに集まって、兎に角多数を取って利益で政策を決めます。 本当の和とは調和することです。無理やり仲間に引き込んだり、徒党を組んで権力を握ることではありません。 お互いが理解し、合意して調和するのならいいでしょう。 しかし酒やタバコを共通項にして和したり、権力を握って徒党を組むことに本当の和はありません。 そういう悪習には僕も反対です。何か言いたくなります。「間違っているぞ~~~と言いたくなります」 和を乱すことは日本人には恐ろしことでもありますね。
お礼
★ 和を乱すことは日本人には恐ろしことでもありますね。 ☆ これではいけないということで この問題をあつかっています。 ゆにこ99さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そしてさらに言えば ヨコ一線の仲間内での和ではなく 社会の構造から見てタテの関係 における和が問題です。 一揆を起こすのか? あるいは 政治革命を起こすのかどうなのか? そういった問題です。 あるいはつまり もし ★ 酒やタバコを共通項にして和したり / 無理やり仲間に引き込んだり ☆ を通じて和を求めるというのは《悪習》だとおっしゃっています。 そのとき もしそのような悪習が 何もしないでも互いに庶民どうしであってもともと仲間であるはずなのに わざわざはびこってしまったとしたら どうなのか? と考えるなら ちょっと考え過ぎになるかも分かりませんが それは 世の中が 庶民の一階とえらいさん方の二階とに分かれてしまったことが影響しているのではないか? すなわち 一階の友とのあいだで あいつは 二階のどの党の人間〔と親しい〕かどうかなどなどをいちいち疑ってかからなければならない。となってしまったのではないか? もともと二階はありませんでした。一階だけの平屋建てでした 世の中は。ところが 二階建てに成った。ゆえに ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 何も無理して和することもないと思います。 和というものは繕って無理して成すものではありません ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということであるはずなのに―― 一階の人間どうしならそれで済むはずなのに―― いちいち無理にでも和する必要が生じた。あいつは 仲間であるのかを確かめなくてはならなくなった。 というような歴史的にして現在においても受け継がれて来ている社会としての問題があるのではないでしょうか?
こんにちは。 あ~~~。。。 すみません。 まだよくわかりませんね。。。 新しいマークの解説まで入れて頂いておきながら申し訳ありません。。。 再回答しようと思ったのですが、書いているうちに全然的を射てない感がして、質問やお礼コメントなどの理解が至っていないのを痛感。 やはり私にはまだハードルが高い様です。 マークの意味など解ったのに残念ですが一旦退きます。 また機会があったらよろしくお願いします(^^)
お礼
うけたまわりました。 時間をじゅうぶんたっぷりかけるに限ります。そういうときがあると思います。 ていねいに ご投稿とともに ありがとうございます。 ではまた。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
貧乏を知らなければ、富貴の有り難さも解らない。 不幸を知らなければ、幸福も解りません。 そういう意味の類いだと思われます。 和を以て尊しとする、というのは和が乱れた 時の惨禍を知っていたからでしょう。
お礼
へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 和を以て尊しとする、というのは和が乱れた / 時の惨禍を知っていたからでしょう。 ☆ あ_ほなさんのご回答ですとかでやり取りしましたが おっしゃる通りだと思います。 そうして 同時に ちょっぴり物言いをつけてこの質問をしています。 けっきょくこのように――和が乱れた時の惨禍を知っているがゆえにだとしても――和を以って貴しと為せ 逆らうこと無きを旨とせよと人に向けて言うというのは どこか上から目線が入っている。その点 いただけない。とは考えています。 和を乱したのは そのようにみことのりをのたまう人本人であり そのホンネは 権力はおれたちが握ったから もうおれたちの言うことには文句を言うなかれである。 こういう事情をも汲み取ってやらないと 人間観察をゆがめるのではないでしょうか。へんな言い方になりましたが。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
人から言われるまで何もしないと言うのも、自発性がない話です。それ「何となくばかばかしい」と動かない僕などよりはましでしょうけど。
お礼
えすぴーえす700さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.1お礼欄) 和を乱そうとしてなら これこれの批判的な思想や施策を提出することはなかった。 ☆ という行動についても億劫である。というご見解でしょうか。 そういう行動は ★ 人から言われるまで何もしないと言うのも、自発性がない話です。 ☆ という話よりはましなのだけれど と。 まぁ どうなんでしょう。高みの見物――ではないのでしょうけれど――からお尻を挙げて すわ一大事! と皆が叫ぶときが来ないとも限らない。――というのも おためごかしのオオカミ少年でしょうか。
- a_hona
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たぶん、和が無く乱れてた時勢ゆえに、和をもって尊しとなせ、という言葉が生まれたのでないかと思います。 太平の世でしたら、別に和をもって尊しとなせ、などと言う必要もないでしょうから、この言葉のある時には、世には不穏の相があったと見るのが妥当だと思います。 それとも、この質問は、盛んに議論し合うべきで、妥結を前提としたなあなあの寄り合いは御免だとか、そういう異なる次元の趣旨のご質問でしょうか。 意図がうまくくみとれませんで。
お礼
あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ たぶん、和が無く乱れてた時勢ゆえに、和をもって尊しとなせ、という言葉が生まれたのでないかと思います。 ☆ おっしゃるとおりなのですが しかももしその時代のことに触れて聖徳ウマヤドのミコを出すとしますと 話は少し違って来ます。 No.2でのやり取りでも触れましたが 聖徳ぼんくら太子は 蘇我氏とともに物部氏を殺し滅ぼしたあと この《和を以って・・・》を憲法として語っています。権力はおれたちが握った きさまら文句あっか みなおれたちの言うことに従えと悪びれずのたまわっておられます。 ★ それとも、この質問は、盛んに議論し合うべきで、妥結を前提としたなあなあの寄り合いは御免だとか、そういう異なる次元の趣旨のご質問でしょうか。 ☆ みなお友達のしゃんしゃん大会はたしかに御免こうむりたいですね。 この質問の趣旨は まづ: ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~ すなわち 問いとしての命題は 言いかえると: 和を乱そうとしてなら これこれの批判的な思想や施策を提出することはなかった。 と言おうとしています。そういう問題であると考えていますし それについてさらに広い見地からのご意見をつのりたい。こう思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なのですが さらに言いたいとすれば こうだと思います。すなわち: けっきょく《和を以って貴しと為せ》などと言うというのは あくまで上から目線である。 下の者までが 同じようなことを言って けんかの仲裁に入ることがあるようですが しばしばそれはやはり下の者までもが上から目線になることを意味しているのではないか? なぜなら もしお二階のエライサンたちに楯突くことをいま措いておいて 庶民たちのあいだでけんかをしたとすれば それはつねに和を元に戻すために或る者が異議をとなえてのことであって 放っておけばけりがつくはずです。ケンカをするほど仲が良いということのはずです。 それと同じように もしお二階の施政方針に楯突くという場合には すでにその上なる偉いお方たちがむしろそれまでの和を乱すやり方をやり始めたゆえであって――つまり元の和を取り戻すためであって―― けっして和を乱すためになのではない。例外はありましょうが このことをしっかりと 《対話型の社会を千年二千年と築いて来たやわからなる日本人》として ジョウシキとしたい。 これです。どうでしょう。
こんにちは。 お初に質問者さまの質問に回答を付けます(笑) とりあえず因にですが、聖書にはこうあります「私(イエス)が平和をもたらしに来たと思ってはならない。むしろ剣をもたらしに来たのである。親を子に、子を親に向かわせる。神よりも親を愛する者は私にふさわしくない。神よりも子を愛する者は私にふさわしくない」 ここでいう「私(イエス)にふさわしくない」というのは、意訳すると「天国に入れるに値しない」という事という解釈が一つの解釈として成立します。 聖徳太子ほどの人格者であれば「和をもって~」と言って大きく差し支えはないかもしれませんが、現代社会の一般的な人間がこれを言いだしたらそれこそイエスマン製造工場のライン作業という表現は実に言い得て妙でしょう。 つまり、同じ言葉でもそれを受け取る人、使う人の意識によって全く意味が異なるという事です。 「人のものを盗むな」という基本的な事でさえ、それを指摘すると気分を害する人はいます。 こんなのとも和を持てと?「和」は関わる人全ての働きかけによって成立しますし、逆に関わる全ての人を考慮しないと成立しません。 そのために必要なものはなんでしょう? 自分の至らない部分を指摘された時に、それを共同体と自分個人との幸せのバランスを考えて最適に保つために昇華させる、つまり変化を与える覚悟や勇気などです。 誰だって子供の頃におもちゃ屋の前でおもちゃを買ってもらうべくだだをこねる様な類いの経験をお持ち、もしくは理解できると思いますが、社会人になると当たり前にそのようなわがままを言わない程度には精神が昇華されています。 社会人になったらそれをしなくていい事は無い事を自覚するのは必須事項です。 この必須をわきまえないのであれば、そこに「和」はありえないでしょう。 自分に都合の悪い事であれ、それが正義であり真実であり守るべき価値のあるものだとしたら、自己犠牲の上それを受け入れるべきです。 ところが欲に支配されている欲の奴隷にはこれは絶対にできませんから、反発、つまり「和」を成立させません。 つまり「和をもって~」というのは有識者ではなく、有意識者の間でのみ正当な意味を持つと思います。
お礼
あぽっするさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 マタイによる福音(10章 34節以降)を挙げておられます。 ▲ (=これは わたしでもなく対話の相手でもなく第三者からの引用であることを示すシルシです) ~~~~~ 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 [・・・] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 昔からの神ないしその信仰(というよりはむしろ集団としてのシュウキョウ)が イエスの言葉を聞いて新たにたどって行くさまと過程があるので そのことについても触れているのかとわたしは考えるのですが いま保留とします。 なおまづ先にこの問いの命題は 次の聖句から発想をぜんぶぬすんで来ていることを明らかにしておきます。 ▼ (パウロ:ローマ書 7:7) ~~~~~~~~~~~~~ では、どういうことになるのか。 律法は罪であろうか。決してそうではない。 しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて: ★ 聖徳太子ほどの人格者であれば「和をもって~」と言って大きく差し支えはないかもしれませんが、現代社会の一般的な人間がこれを言いだしたらそれこそイエスマン製造工場のライン作業という表現は実に言い得て妙でしょう。 ☆ 賛同していただきありがとうございます。 そしてじつは――今回はあまり出さなかったのですが――その聖徳ウマヤドのミコの思想をこそ批判している内容になってはいるのです。 ☆☆ (シルシをふたつ重ねるのは 過去のものからの引用であることを意味します)(No.1お礼欄)~~~~ すなわち 問いとしての命題は 言いかえると: 和を乱そうとしてなら これこれの批判的な思想や施策を提出することはなかった。 と言おうとしています。そういう問題であると考えていますし それについてさらに広い見地からのご意見をつのりたい。こう思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり ひと言で言うと 聖徳ぼんくら太子は 蘇我氏とともに物部氏を殺しほろぼしたあと このフレーズを憲法としています。すなわち 権力はおれたちがにぎった おまえら文句あっか みなおれたちにしたがえという意味にしかなりません。ひとごろしをしてから このような《和》を言っているのです。 和にとって: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ [・・・]必要なものはなんでしょう? 自分の至らない部分を指摘された時に、それを共同体と自分個人との幸せのバランスを考えて最適に保つために昇華させる、つまり変化を与える覚悟や勇気などです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 外交官(アポステロス)さんは こちらの方面で受け取って解釈されています。そういうことだとわたしも思います。 少々きびしい調子でも言っておられます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分に都合の悪い事であれ、それが正義であり真実であり守るべき価値のあるものだとしたら、自己犠牲の上それを受け入れるべきです。 ところが欲に支配されている欲の奴隷にはこれは絶対にできませんから、反発、つまり「和」を成立させません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ きびしいですね。つまりあるいは 中身は おっしゃるとおりであると同時に その口調はきびしいですね。 というのも やはりパウロからパクるとすれば: ▼ (コリント前書 6:12) ~~~~~~~ 「わたしには、すべてのことが許されている。」 しかし、すべてのことが益になるわけではない。 「わたしには、すべてのことが許されている。」 しかし、わたしは何事にも支配されはしない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これもきびしいのですが 何と言いますか 律法のように禁止命令とは少し違うようにもひびきます。と思って出しました。どうですかねぇ。 つまり: ★ つまり「和をもって~」というのは有識者ではなく、有意識者の間でのみ正当な意味を持つと思います。 ☆ というように世界を狭く区切らないほうがよいのでは? とも思ったものですから。(行動するのにどこか窮屈に感じるのではないかと思ったものですから)。どうでしょうかねぇ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
お礼読んだよ。 判った判った。 あんたの今回の論理や意図、すなわち意思は正解だが、実在する妖精の捕まえ方の様な文学に翻訳できないと、猿回しすらままならないよ。 哲学者をもっと馬鹿にした方がいい。 判るのは私ぐらいだ。 私の回答の後をついで、意地っ張りが無駄な抵抗をするだろうがね。 君をいつものようにがっかりさせるだろう。 君に自らの考えを表現する機会を作る事が出来たのが、今回のささやかな私の親切だ。 やっと理解できたバカが、無駄な抵抗をする。
お礼
ご回答をありがとうございます。 それでは ちょっとタイムを取って このあとのご回答に応答したあとでまた戻って来ることにしましょう。 いまの時点での問題は 哲学カテにおいて話を《文学に翻訳する》ことが必要ではないかという見方になるかと。
補足
どうですかねぇ。 《ムダな抵抗》としての回答が多かった・・・とも言えないように思いますが。 コトはいいほうに向かっているのでは?
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
自分が和を乱しているかどうか疑いさえしなかったと言いたいのかね。 そんなことだと、先生全てが批判の対象だよ。 そして君自身が最も疑われる人物になる。 いい傾向だよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自分が和を乱しているかどうか疑いさえしなかったと言いたいのかね。 ☆ いえ それは承知しています。《和を乱すことになる》と承知しています。 しかもそれを敢えておこなうのは 《和を乱す》ことを目的としてはいないことが明らかだからだと言いたいわけです。 さらに付け加えるならば 初めに世の中に浸透させようとして実際すでに普及しているこの《和がとうとい》という和の精神は 間違っているとも言おうとしているものです。 なぜなら 《和を以って貴しと為せ》というのは 社会にとって誰もが納得する一般的な共生のあり方を言っているようでいて じつに実利としては《偉い人たち》に対しての批判を封じるかのようにしか働かない思想であるとまで言おうとしています。 イエスマンをつくることにしか役立たないと。 あるいはつまり 《万機公論に決すべし》という思想もありますが これなどは 互いに自由に批判をもする議論や政策をいくつか提出して互いによりよきものが得られるように競えと言っています。つまりこのことこそが 《和の精神》の実践である。 すなわち 問いとしての命題は 言いかえると: 和を乱そうとしてなら これこれの批判的な思想や施策を提出することはなかった。 と言おうとしています。そういう問題であると考えていますし それについてさらに広い見地からのご意見をつのりたい。こう思います。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖徳太子以前の、「元の和」、と言われているものの実在が、リアリティもって語られるならば、 ☆ ふたつの事例を挙げたいと考えます。 ひとつは 記紀神話における物語をめぐってです。 アマテラスオホミカミの主宰するタカ〔ア〕マノハラ(高天原)が この地上のスサノヲらの(実際には その子孫のオホクニヌシの世代における)イヅモの国に対して そのイヅモの地はおれたち(アマテラスら)の土地だからおれたちに服属せよと言って来たコトにすべてが始まるという問題だと考えます。上から目線が――常態として――始まったコトです。 もうひとつは これは外国の文献資料なのですが 例の魏志倭人伝にある記事を例証とし得ます。要するに邪馬台国連邦(?)ないし連合王国(?)は その女王の卑弥呼を《共立》したとあるところです。 この《共立》のナラハシも崩れて行きます。 すなわち 初めの――神話としての資料ではありますが――タカマノハラという上から目線(=お二階へのアマアガリ志向)が そこで人びとが共に担ぎ上げるそれとしての王=神であったのが 聖徳太子の憲法のときには 統一王=唯一神の体系となったということです。 (むろん 細かくは八百万の神々がいますが 実質的に共同自治の主宰者(≒その神)としてのただひとりの為政者なる存在に統一されたかたちになる)。 ですから 聖徳太子のときには 仏教が入って来て 崇仏派の蘇我氏と日本の神道に立ち排仏派の物部氏とに意見が分かれてこれを争ったということになっていますが 要は 統一アマテラス(為政者)に自分が成ることに命を懸けたタカマノハラびとがいたということになります。 すなわち そのときに――と言ってもこの全国制覇の大作戦なる動きは 400年ごろの応神ホムダワケの頃から始まっていると見ますが―― 元の・市民どうしのヨコ一線の社会なる和の状態から タテに上下のマナザシ関係が社会の仕組みとして形作られた世の中において(しかもクウキのごとき仕組みとして)人びとが右へ倣えして生活を共にするという国柄へと変わって行った。 つまり 唯一神のもとに統一主宰者アマテラスが立つというためには ヨコどうしの間に培われていた元の和を乱したのだと言わざるを得ませんし その後に醸し出された《あらたなる大和》は クウキ・マジックによって人びとが酔わせられていつも右へならえをする《それはそれはおだやかな世の中》であると考えられます。 こう捉えています。