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比較競争のキリスト教 和の仏教
ですか? キリスト教→キリストが唯一、全知全能の神。教えにそむけば、避難バッシング。キリストにとって価値があるものは高く評価され、そういう人が特別な待遇をうけるため、比較、競争、独立精神を大切にしている。ゆえにそれに反するものは戦争でも起こして淘汰する。社会の為にこうありなさいという教えはない。 仏教→聖徳太子の考え方でも有名で、「和」を大切にする考え方。神様はいない。無駄な比較、競争を嫌う。とにかく慈悲、共生を大切にした考え方。戦争をおこすとういう考え方は考えられない。社会がよくなるよう、こういう風になりなさいという教えがある。
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仏教では、その昔「僧兵」というのがいたそうですけど。 神道はもっと過激でしたね。 キリスト教は詳しくは知りませんが、他の宗教の国を野蛮国後進国とみなす変なヤカラももいましたし十字軍ていうのもいましたが、アンリデュナンやナイチンゲールのような人もいました。 一概には言えないと思います。
- eroero1919
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相当間違っています・笑。仏教も、キリスト教も。 まずキリスト教ですが、一神教という点でユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じです。彼らのいう「神様」はみな同じ方なんですな。 神様に逆らうと恐ろしい目に遭うというのは、旧約聖書にあります。ソドムとゴモラという町が神様の怒りをかってメテオストーム攻撃を喰らい、死海の底に沈みました。ただし、ソドムとゴモラの町は超堕落した町だったそうです。飲む打つ買う。全部楽しめた町だったみたいですよ。 んでキリスト教というのは、画期的だったのは「愛」という言葉を使い出したことです。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ。上着を奪う者がいたら、下着も与えてやれ」と言い出したのです。 え、ぜんぜんいってることとやってることがちげーじゃねーかと思うけど、一応教えではそうなっています。文句はキリスト教徒にいってください。 一方、「和を大切に」というのは日本古来の考え方で、むしろ日本の仏教がそれに乗っかって独自の文化を築いてきました。インドの仏教は「和を大切に」という教えではありません。じゃあ仏教の哲学ってなんだとなるとすごーく奥が深いのですが(別にキリスト教やイスラム教が浅いわけではありません)、さすが悠久のインドが生んだ宗教だけあって割と「なんでもあり」です。教祖様の仏陀が神かというと、神じゃなくて仏陀とはつまり「目覚めた人」を指しているわけで、じゃああの大日如来とか観音様とか不動明王とかはなんなんだといわれると、ええと不動明王とかは密教でルーツはインドの神様でして、大日如来は太陽神みたいなもんでと結構ややこしいです。 それに、大乗仏教と小乗仏教では基本的思想からして違って、でもその割には見分けがつかないところもあり、キリスト教における「愛」みたいな解りやすいキーワードがないのが特徴ともいえます。同じ仏教でも、密教と禅宗では同じ宗教と思えないほど方向性が違いますからね。 くり返すけど、「和を大切に」は日本人の考え方で、その点でいえば仏教的というよりキリスト教的であります。ただし、私も含めてなんだけど、日本人は一神教というのを好まないんです。「この神様だけが正しくて、他は全部間違ってて異端だ」と考えるのは、仏教では日蓮宗だけがそうですね。日蓮さんは「俺だけが正しい。他はカス」とおっしゃってます(註・私は日蓮さんが好きじゃありません。家は日蓮宗の檀家なんですが)。
お礼
どうも貴方のは自分の都合のよい部分を、さもそれが全部の割合であるかのように言ってますね。 信用度は低いと思います。