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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子も死んだ)

戦国時代の武将の戦死と一族郎党の死

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の武将が戦死すると、一族郎党や妻子も同時に死んだという話があります。これは「十三塚考」によると伝えられています。
  • 十三塚は戦国時代に多くの戦乱の場となり、戦死者も出た地域で、武将の戦死に伴って一族郎党や妻子も死んだとされています。
  • ただし、具体的な史料でこのような事実が裏付けられているわけではありません。戦国時代には様々な事情によって一族郎党や妻子が生き残る場合もあったと考えられています。

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  • shirouuda
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回答No.4

浅井氏の娘達は生き残ってますよ。 うち、1人は二代将軍秀忠の正室。他は豊臣家と京極家です。 武田氏の場合は、領地は占領され、家臣達には裏切られまくり、敵軍に迫られ、「完全絶望」状態。こんなのは、レアケースでしょう。 遠くの戦場で夫が戦死したからって、領地はあるし、敵軍も遠く、跡継ぎもいる、こんな状態で誰が集団自殺するでしょうか? ウィキの「十三塚」も、柳田国男の書物を出典としながらも、集団自殺説など書いていません。怨霊説とは書いているので、マレな集団自殺の怨霊なのかも知れませんが。 井沢氏の怨霊や穢れは話1/3ぐらいに割り引いて読んでください。彼は、 (1)武家も公家も貴族だと知らない。 (2)公家の武装解除は江戸幕府の政策からだとは知らない。 なんですから。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 浅井氏の娘達は生き残っているのですね。 戦国時代のことは不勉強でよくわからないのですが 生き残った浅井氏の娘について調べてみると 彼女たちがなぜ殺されなかったのかがわかるかもしれませんね。 武田氏の場合はレアケースなんですか。 武田氏についても、これからいろいろ勉強してみることにします。 >遠くの戦場で夫が戦死したからって、領地はあるし、敵軍も遠く、跡継ぎもいる、こんな状態で誰が集団自殺するでしょうか? なるほど、これは筋がとおっているように思われます。 >ウィキの「十三塚」も、柳田国男の書物を出典としながらも、集団自殺説など書いていません。怨霊説とは書いているので、マレな集団自殺の怨霊なのかも知れませんが。 「十三塚考」、探して読んでみることにしますね。 >井沢氏の怨霊や穢れは話1/3ぐらいに割り引いて読んでください。彼は、 (1)武家も公家も貴族だと知らない。 (2)公家の武装解除は江戸幕府の政策からだとは知らない。 なんですから。 なるほど、そうなんですか。 勉強になりました。 具体的に井沢さんの怨霊や穢れについての説の、どこに信憑性があって、どこがデタラメだといえますか?

その他の回答 (4)

  • shirouuda
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回答No.5

井沢元彦氏の本により、 (1)平安時代に軍を解体した。 (2)武士に穢れる仕事をさせるようになった。 (3)武士は有力な開拓農民が武装したもの。 という説で回答する人があちこちの掲示板で絶えませんが、 平安時代に、農村から徴兵する軍は廃止しました。かと言って、軍備を全廃した訳ではありません。征服用の大規模な素人軍隊から、内乱や犯罪相手の小規模なプロ部隊に代えたのです。今日で言えば、イギリス陸軍を廃止するが、テロ対策のSASは残す、みたいな感じです。このプロ部隊が武士。武士と言っても官位を持った武家が中心です。武家だから貴族でもあります。 貴族は穢れを嫌って武士に丸投げしたのではなく、貴族が、公家と、武家に分かれたのです。ただし、公家も武力を捨てたわけではないし、武家も軍事一筋では無い。 武士は開拓農民が武装した、という在地領主論は40年前の論です。これは、もっと後の時代の武士です。今日では、国司に関係のある源や平などの軍事貴族が土着して私兵を集めた(国衙軍制論)、下級貴族や官人が武芸で朝廷に仕えた(職能武士論)が武士の起源とされています。 また、穢れどころか、初期の武芸達者な武士は、都の治安維持だけではなく、伝染病や呪いも打ち払うと信じられていました。 井沢氏は、穢れネタのからむ武士の起源論では、おおかた間違っています。古い+偏り なんです。

noname#190665
質問者

お礼

おおー、再回答ありがとうございます! (1)平安時代に軍を解体した。 (2)武士に穢れる仕事をさせるようになった。 (3)武士は有力な開拓農民が武装したもの。 ↑ こういうことを井沢さんがおっしゃってるんですね。 井沢さんの逆説の日本史、読んだのですがだいぶ前のことで 記憶に残ってるのが、聖徳太子が怨霊として恐れられた理由だけだったんですね~(汗) ご指摘の点を踏まえて読み直してみます。 >武士と言っても官位を持った武家が中心です。武家だから貴族でもあります。 平安時代以前には大伴氏が軍事氏族でしたよね。 だけど大伴氏は応天門の変で失脚して政治の表舞台から姿を消しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB 上記ウィキを調べてみたら「在地領主論」というのがありました。 井沢さんがおっしゃってるのは、これですかね。 これに対して「職能論」についても説明がありますね。 「武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。」(上記サイトより引用) >貴族は穢れを嫌って武士に丸投げしたのではなく、貴族が、公家と、武家に分かれたのです。 たしかに、おっしゃる通りと思います。 >武士は開拓農民が武装した、という在地領主論は40年前の論です。これは、もっと後の時代の武士です。今日では、国司に関係のある源や平などの軍事貴族が土着して私兵を集めた(国衙軍制論)、下級貴族や官人が武芸で朝廷に仕えた(職能武士論)が武士の起源とされています。 勉強になります~。 >また、穢れどころか、初期の武芸達者な武士は、都の治安維持だけではなく、伝染病や呪いも打ち払うと信じられていました。 あー、これは聞いたことがあります。 鵺退治をした源頼政とか、土蜘蛛退治をした源頼光なんかもこの類ですよね? ただ、江戸時代の穢多は別名を浄人(きよめ)ともいいました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A 都市清掃を行っていたから浄人というと上記には説明がありますが 私の考えはちょっとちがいます。 たとえば中世に畿内に存在していた非人は神人でもあったようです。 ハンセン病患者はその容姿から恐れられていながら、一方では文殊菩薩の化身だとして崇められもしています。 穢れたものと、清らかなるものは一体のものだと考えられていたのではないかと思われるふしがあります。 もしかしたらこれは陰陽道に関係する考え方なのかもしれません。 陰陽道では陰は極まると陽に転じると考えるようです。 怨霊として恐れられていた菅原道真が、人々にご利益を与えてくださる神に転じたのも、この考え方によるものではないかと思ったりします。 大変、勉強になりました。 ありがとうございました。

  • koiprin
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回答No.3

名のある武将や、勢力の大きい武将の場合は、基本的には一族郎党皆殺しというのが戦国時代では当たり前でした。 そのため、勝った側が負けた側のトップに、そちらの首を出せば一族郎党の命は助けてやる、というやり取り(恩を着せてその後の統治をしやすくする目的もあります)が起こったり、落ち武者と言われる人たちが存在します。 落ち武者がいるのは、敗者なのにまだ生きているから、殺してしまっても良い存在という扱いのためです。つまりは、皆殺しが原則、ということになります。 「残党狩り」というのもこの辺を端的に表した言葉です。 これは当然で、源頼朝の例にもれず、子孫を生き残らせると復讐されるからです。 「落ち武者」や「残党狩り」といった言葉も一級の資料になるかと思いますが、いかがでしょう。 また、井沢元彦さんも怨霊を恐れるのは貴族階級までで、武士階級はもともと貴族の嫌った穢れの仕事を請け負っているので、怨霊を恐れる文化はほとんどないと言っていた気がします。ただ武士階級も貴族化すると怨霊信仰にどっぷりはまるようですが。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >名のある武将や、勢力の大きい武将の場合は、基本的には一族郎党皆殺しというのが戦国時代では当たり前でした。 たとえばどのような武将の一族郎党皆殺しの例がありますか? >そのため、勝った側が負けた側のトップに、そちらの首を出せば一族郎党の命は助けてやる、というやり取り(恩を着せてその後の統治をしやすくする目的もあります)が起こったり、 どの戦国武将にこのような例がありますか? >落ち武者がいるのは、敗者なのにまだ生きているから、殺してしまっても良い存在という扱いのためです。つまりは、皆殺しが原則、ということになります。 「残党狩り」というのもこの辺を端的に表した言葉です。 なるほど~、それは女子供も含まれますか? 落ち武者とか残党狩りという言葉の響きからは、戦士は皆殺しにするというイメージは浮かびますが、女子供は含まれていないようにも思われます。 >源頼朝の例にもれず、子孫を生き残らせると復讐されるからです。 平家はなぜ頼朝を生かしておいたのでしょう。 かわいそうだと思った、ということもあるでしょうが ひとつには源義朝の供養をする人間が必要だと思ったとか そんなことはないでしょうか? というのは、もう少し古い時代には、為政者が謀反人を祀らせたのではないかと思われるケースがあるからです。 10代崇神天皇は大物主の祟りを鎮めるために、大物主の子のオオタタネコを探し出して大神神社の神官としています。 >また、井沢元彦さんも怨霊を恐れるのは貴族階級までで、武士階級はもともと貴族の嫌った穢れの仕事を請け負っているので、怨霊を恐れる文化はほとんどないと言っていた気がします。 そうでしたか。 逆説の日本史、読み直してみることにします。

回答No.2

「人は人、自分は自分」 結局、それだけの事です。 お家断絶で全員自害する場合もありますが、そうでない場合は生き残った事例もある。 小中学生の歴史の教科書に出てくる人物で調べてみては? 非常に分かりやすいです。 武田家ぐらいじゃないかな? 全員死んだのは。傍系までは知らんが。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「人は人、自分は自分」 結局、それだけの事です。 すいません、意味がよくわかりませんが、 お家断絶で全員自害する場合もありますが、そうでない場合は生き残った事例もある。 ということをおっしゃっているのでしょうか。 >小中学生の歴史の教科書に出てくる人物で調べてみては? 非常に分かりやすいです。 ああ、それはいい方法ですね。 >武田家ぐらいじゃないかな? 全員死んだのは。傍系までは知らんが。 柳田邦男はなぜ「十三塚考』にあんなこと書いたんでしょうかね。 神津神社の引用のとおりだとしたら、ちょっと問題があると思います。

noname#187945
noname#187945
回答No.1

おはようございます。 もちろんそういう例もあるでしょうが、武将が戦死したからと言って一族郎党も死んだという事はほとんど無いですよ 戦国時代は「家」がもっとも重視された時代です、主が死んだら次のものが家名を残して行かなければなりません。 今川義元だって桶狭間で死にましたが息子は家督を継ぎました。 浅井氏や豊臣氏のように家ごと攻められ家族みんなが死んだと言う事はありますが 1つの戦いで武将個人が戦死して家族全員もその場で…というのは稀な気がします 聖徳太子の子孫(山背大兄王一族)は蘇我氏に殺されたそうです。 でもちゃんと太子さんには子孫が居たそうですよ?

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >武将が戦死したからと言って一族郎党も死んだという事はほとんど無いですよ そうなんですか~。 柳田邦男は何を根拠にこんなことを言ったんでしょうかね? 「十三塚考」読んでみたいです。 >「夫戦国時代は「家」がもっとも重視された時代です、主が死んだら次のものが家名を残して行かなければなりません。 私もそうじゃないかと思います。 今川義元の子孫は死ななかったが、浅井氏や豊臣氏は家族全員死んだのですね。 柳田邦男は浅井氏や豊臣氏の例からそういう発言をしたんですかね。 しかし、柳田氏の発言は「いろんなケースがあった」というニュアンスが感じられず、神津神社の引用のとおりの記述だったとしたら ちょっと問題があるのでは、と思いました。 >でもちゃんと太子さんには子孫が居たそうですよ? そうなんですか~。 すごく興味があります。 上宮王家の血筋は絶えたんですよね。 斑鳩寺で自害した人は誰と誰でしょうか? 上宮王家に含まれない聖徳太子の子孫にはどういう人物がいるのでしょうか? (もちろん歴史に名前が残らなかった聖徳太子の子孫もいたかもしれません)

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