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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人には認識能力がある。なぜ?)

人には認識能力がある。なぜ?

このQ&Aのポイント
  • 人には認識能力があります。
  • この認識能力は知識と意志の結果です。
  • 人間は感覚で世界を知覚した後、それを概念化して認識します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kohichiro
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回答No.10

NO・7です。 >さて このような世界についての認識とその積み重ねをおこなう能力は モノないし量子相互作用の自己運動の過程として得られたと捉えるのか? つまりそれだけのこととして認識能力は成り立っているのか? ――これが 質問のねらいです。早い話が 物理学はこの《なぜ》に答えることができるか?  まだご質問の趣旨を捉え切っていないのかもですが、私なりの補足をさせていただきます。 以前生命が発生したメカニズムのなぞが問題になったことがありましたが、その問題に比べれば、人間の知能が動物的知能から現在の抽象能力の獲得までの進歩がなぜ達成されたかということはなぞというよりも論理の積み重ねで導かれ得ることだろうと私は思います。いぬねこさるの知能と我々の哲学との間にはさほどの激しい越えられない狭き門はないと思います。どこが問題なのかを質問者様は特定して補足するべきです。 おそれながらw。

bragelonne
質問者

お礼

 そう言われると まぁ けっきょく分からないというのが 正直なところです。  無機物から有機物へと言ってよいのかどうかさえ知らないのですが おっしゃるように  ★ 生命が発生したメカニズムのなぞ[・・・]の問題  ☆ だと思います。まさに。  たぶん 進化論と並行してと言いますか あるいはもっとすでにあたかも一体となったかたちで 生命の問題をとらえる視点が必要なのではないかと思います。  それについて:  ★ どこが問題なのかを質問者様は特定して補足するべきです。  ☆ これは じつに分からないまま質問していますと 告白しなければならないと思います。  ただし 焦点とするねらいはひとつあります。それは ちょうど直前の回答に見られるように 量子論からの一見解が 生命存在における認識の能力についてそれらは無に還元されるのだから もはや問題にならないと言うふうに言うとすれば それはどういう意味になるのか? これです。  これについてさらに いまの段階にも 問い求めておくことが出来るかと考えます。といった事情にはなっています。

その他の回答 (9)

回答No.9

「なぜ認識はあるのか?」という問いの前に、その認識とは何であ るかを明確にしなければ、存在とは何であるかを明らかにせずに 「なぜ存在するのか?」と問うのと同じ、日常的観念を先入化 した素朴唯物論に陥る。 物理学は、対象を分析しているようで、実は同時に認識手段も 分析している事でもある。 そして、対象は「超弦=量子定常波」、認識は「感受表面での 量子相互作用」として、量子性に還元される。 その量子が、仮説的時空への無の射影=認識の無への還元と して得られる時、もはや「なぜ認識はあるのか?」という問いは 意味を持たない。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め 込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば(プランク 定数hの収束の時系列化=物体の収縮=宇宙の膨張)、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン) の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識 するのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 いちばんの問題は こうです。――こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  [・・・]その量子が、仮説的時空への無の射影=認識の無への還元と  して得られる時、もはや「なぜ認識はあるのか?」という問いは  意味を持たない。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というひとつの認識(判断でもある)をいま現におこなっている。はずだ。そのおこないは 時間過程に属している。はずだ。それがある(おこなわれる)のは なぜか?   つまり  ★ [・・・]もはや「なぜ認識はあるのか?」という問いは 意味を持たない。  ☆ という世界像がもしほんとうの《本質》であるとすれば その本質といまの時間的行為との関係は いかに? です。  すべてみな無に還元されると言っても そのように認識し判断する時間行為がつねにあります。生きているかぎり おこなわれます。このいま・ここなるわたしの生きる時空間は ではなぜ とまっているとされるのか? なぜ止まっていると見るのか?  なぜなら 止まっているのではないと言うのなら 何がしかの時間的な知解および意志の行為が やはりつねにおこなわれている。その行為の一環として一時点において 《無に還元される。ゆえに 認識はあるのかという問いは意味を持たない》と言っているはずだ。  認識は意味を持たないとすれば そういま言っている認識ないし判断がある。つねにある。限りなくその押し問答は繰り返される。  《なぜ認識があるのか》という問いは 日常的観念を先入化しているに過ぎないと言うのならば 《認識はもはや意味を持たない》という答えは 非日常的観念を先入化しているに過ぎない。となりましょう。  それとも そうではないと主張しつづけ主張し切るあなたは その《無の世界からの使者》ででもあるのですか? それでも 時間的な行為として その主張を表現しているからには あなたも時間の関数の中にいることになります。  ★ 無限に詰め込むと  ☆ と言っても だれが・何が 無限に詰め込まれるのですか? いつ・どこで?  いや そうぢゃない それは思惟としての認識の世界で起きていることだと答えるのなら その認識は そのいま時間的におこなわれています。

noname#205946
noname#205946
回答No.8

≧(´▽`)≦アハハハ まっ どうぞお好きに(#^.^#) 知らない人は 知るまで 待つしか無い・・・ じゃ ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.7

ご質問者様の意図を完全には認識できていないと思いますが、私見では、生物が生きて繁栄するための様々な能力は長い時間をかけて試行錯誤を繰り返し、生き残るということで「進化」という達成を積み重ねてきたのが今の状況だろうと思います。人間だって生物の進化した一形態ですから、そこいらのいぬねこやさるなどと極端に異なったものではない(はずだ)と考えるのが常識です。つまり認識、記憶、意思、判断、行動などの人間のふるまいは他の生物にすべて原型があるし、どこか異なっていてもその違いに本質的なものはないと考えるのが自然でしょう。 仰る認識能力というのは言葉の意味から考えれば人間では5感というセンサーから取り込む外界の状況についての情報収集能力だろうと思われます。それを記憶に取り込み、妥当な判断をしてリアクションするということです。もちろん情報を直接反応動作へ結びつける原始的なシステムも人間にはまだ残っています。 >なぜ人間には 世界を――感官で知覚したあとこれを概念化して――認識するという知解能力があるのか? 首記の概括を前提にしてご質問を考えた場合、人間の特殊性は世界の情報の取り込みからそれらを記憶野へ収納する部分で極端に他生物とは異なっって仕舞ったように思えます。どこが極端なのかというと、その記憶量の多さにおいてです。自身の生物的な記憶素子自体が半端ではなく膨大ですし、歴史時代になると自分の内部記憶装置だけではない外部にも多くの記憶を蓄えることを思いついてそれらにもアクセスできるようになった。それらの外部記憶は個人だけでなく多数の個体と共有できるようにもなった(言葉、文字、書物などの発明によって)ということです。 私は、人間の特殊性はそういうところにあるのではないかと思います。精神的なもの、自我のめざめなどはすでに犬や猿などにもありますし、彼らの知能は人間と本質的には変わりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 生物が生きて繁栄するための様々な能力は長い時間をかけて試行錯誤を繰り返し、生き残るということで「進化」という達成を積み重ねてきた  ☆ のでしょうね。そういう進化が見られた。と同時に それは《生物》として やや・またはかなり抽象化してしまうことになりますが《生命》として あたかも自己運動のごとく展開されて来たかとも思われます。  こういちろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 人間だって生物の進化した一形態ですから、そこいらのいぬねこやさるなどと極端に異なったものではない(はずだ)と考えるのが常識です。つまり認識、記憶、意思、判断、行動などの人間のふるまいは他の生物にすべて原型があるし、どこか異なっていてもその違いに本質的なものはないと考えるのが自然でしょう。  ☆ 生物として 外界ないし環境の知覚をとおしてものごとを――自己の生存にとって敵か味方かを――識別する。動物は たぶんその自覚がないかのように本能として振る舞っていつつそうしているのではないでしょうか。  人間は さらにその上に世界を認識するようです。草や茸が毒かどうかを動物が身で見分けるというその行動を離れたかのように こんどは認識した成果としての知識で世界を知り分けようとする。  こういちろうさんは 《本能》と呼ばれる感覚的反応が人間にも残っていると見ておられるようですね。  ★ 仰る認識能力というのは言葉の意味から考えれば人間では5感というセンサーから取り込む外界の状況についての情報収集能力だろうと思われます。それを記憶に取り込み、妥当な判断をしてリアクションするということです。もちろん情報を直接反応動作へ結びつける原始的なシステムも人間にはまだ残っています。  ☆ 否定するのではありませんが わたしは ほとんど残っていないのではないか。もしくは 本能がゆがめられたかたちで残っている。というふうに見ています。これはそれほど違いはないのでしょう。    ★ 人間の特殊性は世界の情報の取り込みからそれらを記憶野へ収納する部分で極端に他生物とは異なっって仕舞ったように思えます。どこが極端なのかというと、その記憶量の多さにおいてです。  ☆ そうでしょうね。一般に言われているように 動物には歴史がないようです。自分の祖先だとか子孫だとかに思いを馳せることは 動物にどれだけあるか。といった問題にもつながっているかと考えます。  そのように考えると 次のご指摘は少しわたしは割り引いて捉えていると申し上げることになるかとは思います。  ★ 精神的なもの、自我のめざめなどはすでに犬や猿などにもありますし、彼らの知能は人間と本質的には変わりません。  ☆ たぶん 程度問題でもあると思われるので 引っ張らないこととします。  身としての《内部記憶装置》だけではなく  ★ 外部記憶は個人だけでなく多数の個体と共有できるようにもなった(言葉、文字、書物などの発明によって)ということです。  ☆ さて このような世界についての認識とその積み重ねをおこなう能力は モノないし量子相互作用の自己運動の過程として得られたと捉えるのか? つまりそれだけのこととして認識能力は成り立っているのか? ――これが 質問のねらいです。  早い話が 物理学はこの《なぜ》に答えることができるか? です。  答えが出るかどうか分かりませんが いちど問うておくべきだと考えた結果です。  

noname#205946
noname#205946
回答No.6

命は命 神は神 猪木はプロレスラーです・・ あなたが間違ってるだけ・・ 神は 神の事を考える人よりも 他人の事を考える人の方を「善」とするのです・・ なので 神を語るよりも 神は 一つでも ポイ捨て空き缶を拾って 地球環境を良くする方に着くのですよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 主観の中では 何を思っても考えても自由です。その思いを発表することも 自由です。  ただし その主観が共有されるかどうかは 別の話になります。  神についての発言はみな そういう制約があります。  間違っているかどうかが 人間には分からないというふうに表現しておくと 互いにその見解を同じくすることが出来るでしょう。  こんどは どのように説得するかを考えるとよいでしょう。  自分だけが納得行ったとしても まだ半分の哲学ですから。  ご回答をありがとうございます。

noname#205946
noname#205946
回答No.5

考える必要なんてありませんよ・・・ 過去は変えれないだけなのだから・・・ それよりも 未来に向けて 地球環境を少しでも良くして 次世代に渡しましょうよ・・ まずは 身近のポイ捨てゴミの掃除から・・・ 次世代の人達に させずに 現代人がする事です・・・ 誰かがやらないといけない事なのです・・・

bragelonne
質問者

お礼

 全体観に立って と言いますかあるいは むしろ相手の言い分をしっかりと受け留めて ものを発言するようにするとよいでしょう。  生命とは 神のことですよ。じつは。  ご回答をありがとうございます。

noname#205946
noname#205946
回答No.4

認識能力が何処から来てるのかを解く為には 有神論で無いと駄目だって事です・・ 有神論なら 神自体が持ってた「認識能力」を人間が継承してるだけ‥って事です・・・ 進化論で考えると それが出来ないって事・・・

bragelonne
質問者

お礼

 だからその神というのは 生命のことでしょう? っていう問い返しです。  神と言ったって 何のことだか分からないのではないですか?  人間の認識能力を ただ神にあてがっただけだと切りかえされておしまいではないですか?  進化論には 種の進化としての情況証拠がありますね。  生命は モノではないですから。しかも モノに付きものなのでしょう。(モノが 生命に付きものと言うべきでしょうか)。  いづれにしましても モノないし量子がどうして認識能力による認識行為といったことにまで到ったか? これが知りたいと言いますか。あるいはつまり 量子論による物理学にもとづく世界観をとなえている人たちに その人たちはどう考えているのかが知りたい。と考えます。  ご回答をありがとうございます。

noname#205946
noname#205946
回答No.3

イイですか!?・・・ 親子とは血液だけで無く性格も そして顔や黒子の位置まで相続してる人も居ます・・・継承とは こういったものです・・ それならば 祖先を辿ると 人間の祖先に当たる者も 同じ・・と言う結論に至ります・・・ さて 此処からが難問です・・ 進化論と有神論・・ この 2つの内 どちらを取るかに拠り この現象(相続継承)が何故起こるか になります・・ 有神論を取った場合 神は 自分の姿に似せて 人間を創造した・・と なってる事から 神自体が 男であり 女である と結論着けれるが 進化論の場合は 全てに於いて 辻褄が合わなくなるのです・・

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですか。  その神っていうのは いわゆる生命のことではないのですか?  生命はナゾだが 生物の進化は モノとしての情況証拠がある。両方を視野に容れてもよいのではないか。  遺伝の現象がなぜ起こるかではないですよ。認識能力が どうしてモノから出て来たのかです。  ご回答をありがとうございます。

noname#205946
noname#205946
回答No.2

「人には認識能力がある」←よく考えてみましょう・・人で無くても 全てのものに認識能力があるのが解かる筈です・・・ 動物は 親を理解し オスメスも見分け そして種別までも見分けるから子孫が出来る・・ 植物だって同じ・・同種の受粉をしないと実がならない・・ あなたは 当たり前の事を 難しくしてるだけ・・ それで よく哲学なんて言えるね(笑) 全てDNAに組み込まれてる事・・さして そのDNAを持った存在が居るだけですよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ですから その知覚による識別〔に始まる悟性としての概念化なる認識〕は なぜそう成ったのか? はどうでしょう。  なぜ DNAという仕組みになっていましょうか?   あるいは DNAの問題だけなのでしょうか?    からめる531さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  答えが出るかどうか分かりませんが 問うてみておいてもよいと考えました。  モノあるいは量子がなぜ このような認識能力を持つに到るのか? だと思います。

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22063)
回答No.1

脳の発達がすごいからでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。それは そうでしょうね。  つまり 発達の少ない種とくらべてそういうことが言える。  ところで そこまでの発達は どのようにして成ったのでしょうか。  身をつくるモノの自己運動がそうさせたのか。それとも 何が何だか分からないナゾである生命としてそのような能力を持ち得たというものでしょうか。  アゲハチョウを見慣れましたあおきいさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

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