- 締切済み
神による人と世界とのデザイン
1. ≪場≫が生まれる。(あるいは 元からある)。時空間として動いている。 2. 場が揺らぎ コトとしてある。 3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。 4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノとから成るようになった。 5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから分かれているモノのほうに≪有るか無いか≫の存在を見ようとする。 6. 人間は 場についても その知性を当てはめてそのモノとコトから成る世界を捉える。 7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 初めの場や世界を ≪記憶≫と呼ぶ。 8. 記憶なる精神が精神するとき そこに≪知解≫が生じていると見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。 9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて ≪意志≫が発出する。知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。 10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。 11. 光のタトヘとして言って ≪光源≫が 記憶である。記憶が記憶するとき ≪発耀≫としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて ≪明るさや温かさ≫としての意志が現われ出る。 11-1. 意志行為には プラスとマイナスとがある。そういう自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされる。 12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立法である。意志が 行政にあたる。 13. この三つの事項の一体性が ≪神のデザイン≫である。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。 14. 神としての三位一体は 時間を超えているので ≪父なる神≫と≪子なる神≫とその両者から発する≪聖霊なる神≫とは 絶対の同一である。それぞれの個はほかの個と・そして全体とも それぞれひとしい。時間的な変化はない。 15. 人間の精神における≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫なる一体は・そして国家としての≪司法 ‐ 立法 ‐ 行政≫の分立=協働も それぞれ時間差をともなった一体性である。 15-1. 行政のおこなったことが 司法によって≪あとから≫その合法性いかんがあらそわれる。わが意志行為も あとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。 16. 人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえ あり得る。悪貨が良貨を駆逐し 表現のあやとして言って 巨悪はほろびず生き延び得る。 17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えない。それは 時間的な意志行為には ズレがあり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。 17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の≪意志による知解≫としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。(神が勝ったのかどうかは 分からない)。 18. ≪ plan → do → see ≫のサイクルは ≪知解→意志→記憶(秩序作用)≫または≪立法→行政→司法≫のそれとして捉えられる。 19. これらのことをいにしへの聖書記者は 次のようにタトへにおいて記した。 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 20. 以上が 神のデザインについて曲がりなりにも哲学として考えようとした議論です。添削をどうぞ。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
17までは神を否定する感じ。17-1から神を肯定する感じ。結局筆者の主張が有耶無耶。むずかしいところなんだろうな。あるいはに2つの意味がある。元からある場にぽこぽこ場が生まれてくるような多世界解釈も楽しそうで好きですが、同類の物事のうち、どれか一つであるとしました。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/7651/meaning/m0u/ ・いろいろな場合がある。 ・同類の物事のうち、どれか一つである。 神による人間と世界のデザイン--もくじ 場はほかの言葉で言うと存在 人間は 神は人間と世界をデザインする 一体性は破られ得る 神が勝ったとすれば 聖書記者は 場はほかの言葉で言うと存在 場が生まれる、または、場は元からあるのいづれかである。場は時空間として動いている。場の揺らぎはコトである。場の揺らぎが過剰になると、場と、場の揺らぎとは別の部分的な場が生じる。場と、場の揺らぎとは別の部分的な場はモノとして分かれる。コトを起こしている場は元の場とそこから分かれたモノとから成るようになった。場はほかの言葉で言うと存在である 人間は 人間は場の上でコトから分かれているモノのほうに有るか無いかの存在を見ようとする。人間は場について人間の知性を当てはめて場のモノとコトから成る世界を捉える。場が揺らぐ。場が場する。世界が世界する。というとき初めの場や世界を記憶と呼ぶ。 記憶なる精神が精神するときそこに知解が生じていると見る。納められた情報が倉庫から出て顕在化する。記憶と知解との突き合わせをつうじて意志が発出する。知解は自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。 モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。光のタトヘとして言って光源が記憶である。記憶が記憶するとき発耀としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて明るさや温かさとしての意志が現われ出る。意志行為には プラスとマイナスとがある。そういう自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされる。 神は人間と世界をデザインする 社会形態としては、記憶は司法に、知解は立法に、意志が行政にあたる。この三つの事項の一体性が神のデザインである。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。神としての三位一体は時間を超えているので父なる神と子なる神とその両者から発する聖霊なる神とは絶対の同一である。それぞれの個はほかの個と・そして全体ともそれぞれひとしい。時間的な変化はない。人間の精神における記憶 ‐ 知解 ‐ 意志なる一体は、そして国家としての司法 ‐ 立法 ‐ 行政の分立=協働もそれぞれ時間差をともなった一体性である。行政のおこなったことが司法によってあとからその合法性いかんがあらそわれる。 一体性は破られ得る わが意志行為もあとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。人の一生のあいだには意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえあり得る。悪貨が良貨を駆逐し表現のあやとして言って巨悪はほろびず生き延び得る。因果応報説が現実につねに当てはまるとは言えない。それは時間的な意志行為にはズレがありかなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。 神が勝ったとすれば 相対世界における或る人の意志行為に絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味する。そのような認識と判断はあくまで相対世界における人間の意志による知解としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。神が勝ったのかどうかは分からない。 聖書記者は plan → do → see のサイクルは知解→意志→記憶(秩序作用)または立法→行政→司法のそれとして捉えられる。これらのことをいにしへの聖書記者は次のようにタトへにおいて記した。(創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 最近、「やっちゃった・・・」ことが、ありまして。 これは・・・「神」が存在するなら、「神」のせい。 そんなふうに、思いました。 (おそらくは、私の「過失」なんですけどね)
お礼
Kさま こんにちは。 それでいいのではないですか。 甘えてよいのではないでしょうか。 その上で その≪やっちゃった≫ことは 自分がやったことだとしっかりと思っていれば 言うことなし。 ★ (おそらくは、私の「過失」なんですけどね) ☆ という添えられたひと言が効いて来るのではないですか。
頑張ってね・・其処からなら 後100年くらい経たないと理解出来ないから・・ 神を考えるには理屈は要らない・・ もっと簡単な事なのに・・
お礼
すなぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。 ☆ これについては おしえていただいた≪多世界解釈≫のサイトでまなんだところによると ≪デコヒーレンス(干渉性の喪失≫ と言うんでしょうか。 その結果 場がそれ自体の中でモノとして分かれた状態は ≪"branches"(分岐)状態≫ と言うんでしょうか。(もしそうだとすれば 素人のわたしが 怪我の功名のごとくそのように表現していたみたいなのですが)。 ▼ エンタングルメント(からみあい・量子もつれ) ☆ は どういうことを言うのでしょう? もともと≪場≫は おそらくそのそれぞれの部分のユラギとして成り立っている。そのユラギを おそらく≪量子作用≫と言うんでしょうか? 場が コトかつモノとして成り立っている。部分も コトでありモノである。(素人が勝手に言っているだけですが)。 ★ 17までは神を否定する感じ。17-1から神を肯定する感じ。 ☆ そうですか。たぶん そうなのでしょうね。 つまり ひとが神について≪有る≫と言おうが≪無い≫と言おうが それは 想定としての神を≪肯定している≫ことだとは考えています。 早く言えば 神を肯定しようが否定しようが 絶対としての神は――その想定のかぎりで――まったく揺るぎません。という大前提に立って 話をしています。 ですが ≪17≫までは 神はいない(つまり≪無い神≫派)の見方に片向いてしゃべっていて やっと≪17-1≫で≪有る神≫派の感じを出していると確かにわたしも思います。 ☆ 次のようにおっしゃるところは 以上のような事情がかかわっているのではないかと思いました。 ★ 結局筆者の主張が有耶無耶。むずかしいところなんだろうな。 つまり 神については 絶対(または 非知)なる神を想定する。 神とわれとの関係は 信仰と呼ばれる。 信仰には 有神論と無神論とがある。互いにまったく同等である。≪絶対≫なのだから。 のように捉えています。つまり このように対立するような二者(有る神派と無い神派)が両立するという含みを持った≪ひとつ≫の理論です。 さらに添削がありましたら よろしくお願いします。 次の趣旨説明にひとことつけ添えます。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~ 17. ・・・時間的な意志行為には ズレがあり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。 17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の≪意志による知解≫としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。(神が勝ったのかどうかは 分からない)。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようだからと言っても ≪神が負けた≫わけではない。かも知れない。 それは ≪良心ないしそれとしてのヒラメキ(インスピレーション)≫が 神と人間たるわれとをあたかもつないでいるかも知れないから。