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《ねたむ神》は ただの表現の問題である。
1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。 2. ♪狭いながらも楽しい我が家とか ♪雪の降る夜はたのしいペチカといった表現の問題におなじい。 3. 楽しいのは わが家では必ずしもなく ペチカではない。そこにいる家族や友だちやである。ならば ねたむ神と言ったら 神のもとにあつまる人びとがねたむのである。 4. すべての場合に当てはまるとは見ませんが 基本的に見て そういう問題が聖書の表現にはある。これは 大きく重要問題として横たわっていると考えられます。 5. 聖書を文字通りに受け取るのは あまり生産的でも建設的でもありません。というお話ですが いかがでしょう? 6. すなわちその節には――というのは ふるい昔の旧約の時代には―― そういった表現をして神のことを人びとに知らせる必要があった。つまり いきなり神は愛であるというような表現では 人びとにとってはお呼びではなかった。と考えられるのではないだろうか。 7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。ですが このようにかたき討ちは わたしに任せておきなさいと神が言ったことを 現代の韓国人はまったく取り合わないと来ています。いかにネアンデルタール人よりも遅れていることか。 8. 表現の問題ではないか?
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- NemurinekoNya
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こんにちは。 この質問とは直接関係しないのですが、 新改訳聖書でしたか、「妬み」ということばが「熱心」や「情熱」になっているという話を聞いたことがあります。 「妬みの神」「妬む神」が「情熱の神」になっているなんて話を耳にはさんだ。 新改訳、共同訳ともに持っていないので、念のために検索をかけたところ ~~~~~~ これこそ、使徒パウロがIIコリント11:2に説明しているねたみです。「私は神のねたみをもって、あなたがたのためにねたんでいるからです・・・(訳注:日本語新改訳聖書には、『私は神の熱心をもって熱心にあなたがたのことを思っているからです』と訳されています)」 http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-jealous-God.html ~~~~~~ というものを見つけました。 「妬みはキリスト教の七つの大罪であるから、神に妬みというものはない」なんて考えから、妬みが情熱や熱心になったのではないか、 こんな話をちょっと聞いたことがありました。 妬みという言葉は神を形容するにふさわしくないと・・・。 「ではなく、神に人間のような感情があると仮定することがおかしいのではないか」と、私などは思うのですが、 ユダヤ教、キリスト教、イスラームでは、神に感情があること、神に顔や手足があることを守りつづけている。 聖書を神の書、無謬の書としていてので、そこに書かれている事は無批判に真実として受け入れなければならない、という建前は理解できるんですが、 「だったら、妬みを情熱や熱心と改訳するのはどうなのよ」と思ってしまいます。
- NemurinekoNya
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新約の『ユダの手紙』にも 「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時」と書いてありますから、 「最も非物質的であるはずの霊魂まで、彼らはどうしても肉体から切り離して考えることができなかった。」 というのは、イエス以後にも、結構、根強く残っていたのではないですか。 そうでないと、この記述を読み解けないように思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ (ユダ書 9) 御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時 ☆ これは 何のことですかねぇ。よく分からないのですが。 《モーセの遺体のことで悪魔と言い争った》というのは どういうことなんでしょう? 遺体という物体と 《非物質的であるはずの霊魂》とが一体であると思っていた。ということを この箇所から読み取るということですよね。 ちょっと分からないですね。 パウロは 《復活》ということにかんして述べるとき 《自然のからだがあれば 霊のからだもある》というふうな意味合いで語っていたと思います。 イザヤ書の未来社会についての記述は この世における生活として述べているように思います。 天の国だとかいうイメージはすくないですね。 すみません。分かりません。
- NemurinekoNya
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井筒俊彦が『イスラム思想史』で非常に示唆的な記述をしております。 長いのですが、引用します。 ~~~~~~~ かくして古代のアラビア人は著しく感覚的であり、従って物質主義者であり、個物的であった。最も非物質的であるはずの霊魂まで、彼らはどうしても肉体から切り離して考えることができなかった。というよりも寧ろ多くの人々は、明らかに霊魂と肉体を混同していた。 (中略) かつてイエスがユダヤの地に教えを弘め始めた頃、彼の周囲に集まった群集は多くはイエスの行う数々の不思議を見て心服した。しかしながら、イエスをして、「邪曲にして不義なる代は徴を求む」と慨嘆せしめた、この執拗な「徴」を求める心こそ、セム人種の本質的な精神なのではなかったろうか。「徴」とは奇蹟である。つまり神の力の眼に見える現われである。セム人は神でも何でも自分の眼に見えないものは信じることができなかったのである。奇蹟によって、その素晴らしい神力を眼に見えるように明示し得ないような神は神でなかった。このセム人の世界の中に生まれながら、イエスの天才はセム根性を完全に踏み越えた。 『イスラム思想史』から引用 ~~~~~~~ さらに ~~~~~~ 西欧の哲学に古くから問題となるessentiaとexistentiaとの二つの差違が根本的に異なる世界観の差となりうることをヨハネス・ヘッセンが『プラトン主義と予言主義』という著書の中で確立しようとしているが、もしそうだとすれば、古い砂漠のアラビア人は明らかにexistentia的であって、essentia的ではない。言い換えれば彼らの世界観はSoseinではなくDasein的である。彼が観るものは常にこの時、この場所という時空に制限された個々の物である。個物を超えた一般者には彼らは全然用がない。彼らは現に眼の前にある赤い物や白い物に対して驚くべき視力を見せるけれども、その見るものはあくまでそこにある赤い物であり白い物であって、赤そのもの、白そのものではない。眼の前にある大小様々な円を視ても、そこに個々の円を超えた円というものを視ようとしない。つまり物を「永遠の相の下に」視るなどということは彼らの思いもかけないところであった。彼らには事物の非合理的な面しか見ることができなかった。現実的な彼らはイデアの世界はかつて見たことがなかったのである。強烈な現実主義、徹底的な感覚主義と個物主義がそこにある。 『イスラム思想史』より引用 ~~~~~~ と書いております。 旧約聖書に基づくユダヤ教と、ヘレニズムの影響、つまり、ギリシア的知性の影響をうけた新約聖書、そしてキリスト教の違いを、その根本から説明している、非常におもしろい説だと思います。 スピノザが何故、ユダヤ教から破門宣告を受けたのかも、納得がいきます。 セム人は、ヤペテ人(ギリシア・ヨーロッパ人の祖先?)のように「永遠の相の下に」見たり、イデアの世界を夢見てはいけないんでしょう、きっと(ポリポリ)。 それはセム人に相応しくない物の見方であり、セム人であることを止めることであり、自身がセム人であるということを否定することですから。 旧約において、「義とは何か?」というギリシア的な話は出てこず、出てくるのは○○は義であるかという個別的な話ですから、 旧約はセム的なんでしょうね。 そして、旧約はセム的視点から読むべきであり、ギリシア的な視点から読むのは間違っているのかもしれないですね。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ▲ (井筒俊彦) このセム人の世界の中に生まれながら、イエスの天才はセム根性を完全に踏み越えた。 ☆ この《踏み越えた》という表現で セム人の《シルシを求める》という特徴を突き抜けて(または 掻い潜って)神を指し示すわざをおこなったということを意味するのなら そういうことをわたしは言おうとしています。 たとえば 信仰を与えられてからアブラハムは 神から必ず長子が授かるということを告げられていました。 或る日 アブラハムの天幕のある場所のマムレ(?)の木と言いましたかその木の蔭に 三人の旅の人たちがいるのが見えた。さっそくアブラハムは どうぞ休んで行ってくださいと食事に誘った。 そこで旅の者が言った。あくる年には サラに赤ん坊が生まれていますよと。 これを聞いてサラは もう百歳に近く月のものがなくなっているわたしにどうして子がうまれるのかしらと思って 笑ってしまった。 旅の者は サラに向かって いま笑いましたね? となじって言った。うんぬん。 ――というストーリがあります。 単純にバカみたいに アブラハムはけっきょく受け容れた。うたがいが全くないとかあるとか そういう問題ではなくて ともかく信じていた。 これは シルシの問題でしょうか? 奇蹟と採るなら シルシでしょうし そうではなく信じたことに何か目に見えるシルシがあったのか。 そういう問題だと思います。 ○ (ジャーヒリーヤの狩猟の詩) ~~~~~~~ 鳥もまだ巣に眠る夜明け前 たくましい野獣のかせに打ち乗って 私は館を出た その馬は私の意のままにすばやく進みたちまち退く その機敏なことは急流がまたたくうちに岩を押し流すよう 栗毛の背(せな)はよく肥えて鞍下も滑り落ちる なめらかな岩に降る雨がはじけ落ちるように 狩猟のあとの彼の激しい息づかい その躍動 その熱気 私は感じる 釜に煮えたぎる湯のような熱さを 私の馬は疲労困憊して足をひきずり 砂塵を立てたりはしない その速さに子供は鞍にとどまることができず 大人さえ衣服を飛ばされる程 ・・・ と 私たちの行く手に野牛の一群が現われる その雌牛の群れは ちょうど長い裳裾をひらめかせ カアバを廻る乙女たち 白黒ぶちの牛どもが逃げまどう有り様は 子供の首にかけられた色とりどりの宝石のよう 私たちは後方の群れには目もくれず ただ先頭の群れを追いつめる 愛馬は駆ける ひた駆ける 汗もかかず 休みもせず 疲れも知らずに 猟を終えて 料理人のある者は獲物の肉を釜でゆで またある者は焼くために並べている ・・・ (イムルウ・ル・カイス作――小笠原良治:『ジャーヒリーヤ詩の世界――イスラーム以前のアラビア――』1983 p.160f ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ジャーヒリーヤとは 《無知》の意味。ムハンマドが預言したイスラームより以前の時代をそう呼ぶらしい。 だいたい万葉集の時代と同じころか またはもう少し昔のことだと思われます。 実存が本質に先行しているように見られるのでしょうね。
- suzumenokox
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人間に過ぎない存在を神格化などするものではない、そんな無茶を要求するものではない、ということなのではないでしょうか。つまり寓意が込められた表現だと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえ。自分は神の子であり じつは父なる神とひとしいとまで言ったのは イエス本人です。 誰かがそのようにでっち上げようとしたのではなく。 ★ 無茶な要求 ☆ であることを イエス自身がやってのけたのです。つまり言ってみれば 大嘘をついたわけです。 ただし だからこそ 十字架じょうに去って行ったあと イエスがキリストであったと弟子たちを初めとして人びとに分かった。という物語の仕組みになっています。 虚構にかんしては ★ 寓意が込められた表現 ☆ ではなく 寓意でもなく 人類の歴史上でただ一度 神が肉となったというデタラメを言ってのけたのです イエスなる男は。 と考えます。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆ 1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。 ◇とは思いません。 少なくとも、古代のユダヤ人は神を喜怒哀楽などの感情を有するものとして考えていたであろうし、神をそのようなものととらえていた、と思います。 こうした古代ユダヤ人の考え方は、パウロの「ユダヤ人は徴(しるし)を求め、ギリシア人は知を探す」ということばに象徴されているのでしょう。 ユダヤ人は、この「しるしを求める」の「しるし」は、奇跡や神による賞罰という具体的なものであり、そのような具体的なものを発現させるものを通じてのみ、神の存在を認めるのでしょう。 こうした思考法・発想法を井筒俊彦は「セム的」と呼んでおりましたが、 井筒によれば、 セム人は抽象的な神を信じない、 手足を有し、しかも、感情を持っていないと神と認めない、 といった特徴があるそうです。 「神には手足がなく、顔も口がない」なんてことは絶対に認めない。 「神に顔がある」という記述を比喩的表現とは絶対に考えない。 徴を求める(古代)セム人は、手足、顔に口、耳、さらに感情を有していないものを神と認めない。 そして、奇跡を起こせないような軟弱な神は、神でないんですよ。 その最も極端で、最も純粋なセム的な神、宗教がアッラーでありイスラームです。 「《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。」 というのは、セム的な考え方ではなく、ギリシア的・西洋哲学的な発想ですよ。 そして、神を理性の枠内でとらえようとしていると思います。 ☆7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。 ◇旧約の神は復讐をしてくれる神です。 だから、神であり、神だと信じられたんですよ。 ネットで、欧米の人に「韓国人はアジアのユダヤ人」と揶揄されることが非常に多い。 ネアンデルタール人ではなく、 《恨み・ハン》の神に選ばれた選民です。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ こうした(ユダヤ人は徴(しるし)を求めるという)思考法・発想法を井筒俊彦は「セム的」と呼んでおりましたが、 井筒によれば、 セム人は抽象的な神を信じない、 手足を有し、しかも、感情を持っていないと神と認めない、 といった特徴があるそうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつの論点だと考えます。というより 神とは何かという初めの問いなる主題に直結しているとまで考えます。 わたしの考えは へブル人たちがどうであったかと 聖書記者〔もへブル人だったでしょうが〕の記事内容とは 別ではないですか? です。記事の意図と言いましょうか。要するに神の心を仮りに表現しようとする者の表現方法のことです。 ◇ 「神には手足がなく、顔も口がない」なんてことは絶対に認めない。 / 「神に顔がある」という記述を比喩的表現とは絶対に考えない。 ☆ すなわち この主題について例えば次の記事を例に出します。 ▲ (出エジプト記/ 33章 11節) 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。 ☆ このあと モーセは民をどのように率いて行くのかについて神と語り合っているところが記されています。ただし 同じ章の末尾あたりには 次のようにも神が語ったと述べられています。 ▲ (出エジプト記/ 33章 20節) また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 ☆ わたしは このように後者での語りが 聖書記者の意図であり 神は何であるかについてのひとつの答えであるとも考えます。ユダヤ人がいかにシルシを求めているかにかかわりなくです。 そうして イエス・キリストの場合も 同じくそうであった。生前には 自分が神の子であり父なる神とひとしいとはっきり言っていたのに 弟子たちを初めとして誰も そんなことは――耳で聞いていても――分からなかった。十字架じょうに去って行って初めて そのイエスは キリストであると弟子たちにはヒラメキが与えられた。顔は見えなかったが その後ろ姿が見えた。というかたちです。 ぢゃあ なぜその一方で 《主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた》と書かれているのか? 《顔と顔を合わせて語り合った》というその内容が 神でもなく神の言葉でも神の心でもないということ このことを語ろうとしているのだと考えます。 《顔を見ている》と記されたことが 神本体の仮りの現われだということを語っているのだと。どこまで行っても 神はその顔を表わすことはないということ。《あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである》ということ。 この理論ないし原則は つねに貫かれているはずです。 この理論のもとに 《ねたむ神》なる記述があります。 この理論は: ◇ そして、神を理性の枠内でとらえようとしていると思います。 ☆ たぶん こうでしょう。:すなわち 《神は理性や感性では捉えることができないということを 理性の枠内で伝えようとしている》のだと。 ◇ 旧約の神は復讐をしてくれる神です。 / だから、神であり、神だと信じられたんですよ。 ☆ ですから この《復讐するはわれにあり》なる表現も 神本体のことを述べているのではなく その仮象としての現象を言葉で表わして何とか神のことを伝えようとしている。そういう記事だと考えます。分かりやすい表現になっているのだという意味です。 そのような大ざっぱな信仰の説明でもよしとしたのでしょう 聖書記者は。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ネットで、欧米の人に「韓国人はアジアのユダヤ人」と揶揄されることが非常に多い。 ネアンデルタール人ではなく、 《恨み・ハン》の神に選ばれた選民です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは失礼しました。ネアンデルタール人にも失礼でしたね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 新改訳 ☆ はあいにく持っていません。 ▲ (1954年改訳 コリント後書 11:2) わたしの熱情をもって あなたがたを熱愛している。 ▲ (1978年共同訳 同上) あなたたちに対して 神がいだいておられる熱い思いをわたしも抱いています。 ☆ ただし 旧約のほうでは 《ねたむ》です。 ▲ (1955年〔55年で間違いなし〕改訳 出エジプト記 20:4) あなたの神 主であるわたしは ねたむ神であるから ▲ (共同訳の旧約は持っていません) いままだ詳しいことは分からないのですが この《ねたむ》にあたる語は どうも 神にのみ使うということらしいです。 ○ קַנָּא ( qanna' カンナー): jealous (only of God) http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H7067&t=KJV ▲ ( Exodus 20:5 ) I the LORD thy God am a jealous God http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Exo&c=20&t=KJV#s=t_conc_70005 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 妬みという言葉は神を形容するにふさわしくないと・・・。 「ではなく、神に人間のような感情があると仮定することがおかしいのではないか」と、私などは思うのですが、 ユダヤ教、キリスト教、イスラームでは、神に感情があること、神に顔や手足があることを守りつづけている。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いや もうこれは 初めから擬人化して《光あれ》とものを語る存在になっていますから。 そして イエスに言わせれば 《父ちゃん(アッバ)》と呼んで話ができるような《ひと》ですから。 仮りに表わすとすれば 分かりやすく親しみの湧くもののほうがいいぢゃないですか。そういうことだとは思うのですが。 △ (万葉集 一・18) ~~~~~ 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 明らかに雲が わが親しき三輪山を隠しているわけです。 その雲に向けて 《こころがあって欲しい》と言っています。これも明らかです。 ただし 《だにも》と言ったことで 《雲》のほかにも《心があって欲しい》対象がいる。とも語っているはずです。 《山を隠す雲》という表現で じつは《ふるさとを見限り捨てる誰々さん(天智天皇)》ということをほのめかしている。 《ねたむ神》という表現で じつは《心にねたみを持ちがちな誰だれさん(人びと一般)》のことを言おうとしているはずではないですか?