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《ねたむ神》とは 表現の問題だ
たとえば: ♪ 雪の降る夜は たのしいペチカ ♪ 狭いながらも たのしい我が家 と言います。――つまり この《たのしい》のは ペチカや我が家なのか? という表現の問題に入る。のではないか。 あるいは 《そのとき教室が笑った》と言えば 教師のもとに集まっている場に何か微笑ましいことが起きたとか あるいは その先生がいつも生徒たちからバカにされていることを示唆しているとかだと思われます。 ――つまり 《笑う》のは 教室か? という問いに置きかえられましょう。という表現の問題になるのではないか。 言うまでもなく ペチカを囲む人びと あるいは 我が家に生活するわれわれ 教室にいる生徒たち人間が たのしいのだし また 笑うのである。 だとしたら 《ねたむ神 怒る神 あわれむ神》というのは 必ずしも神がそうするのではなく 単純に言って 神のもとにある人びとが ねたみ・怒り・あわれみ・・・といったことをおこなうのだ。 ――という表現のからくりであるとなりますまいか? しかも 神をめぐって 《神ならぬ人間が自分たちの持った言葉で表現する》という問題のからくりではないか? かんたんに言えば 神のからくりでは?
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- kurinal
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B様、こんにちは。 >「♪ 狭いながらも たのしい我が家」 これは、法的には、「警察権力でも、礼状無しでは捜査出来ない」ということです、か。 (人権を侵害しないように心掛けましょう)
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
豆知識だ。 今度自分で一発やるかもしれない。 人間知性と神との関係だけど、神話時代を経て人の歴史が始まるのは何かと人類を考えるうえで共通項だ。 神とは人間が作り出したという話なら、もっと分かりやすく言えば、神とは古代の人間の幻想であるという話だ。 例えばその方向で神を否定する論理を形成すると人類史を塗り替える新たなる神話解釈をすることになるが、面白いからどんなサル踊りをするか見物したいところだ。 君の言う「無い神」をわかり易くする神のいない神話でしかない。 神を滅ぼしたというならイエスが最も重大な被告人だ。
お礼
いや やっぱりこの問いは ただの確認のためです。 神のからくりにまで進むとすれば 《人にとって人びとが神話から抜け出ている状態における〈無い神〉》の問題になります。 イエスの役割りについて触れているけれど そういう内容に行き着くはずだ。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
> かんたんに言えば 神のからくりでは? 今回はここで終わらせたのがいけないね。 人間が人間を自覚する知性的資質を語るに神は切っても切れない。 この恩寵を踏まえて語るとよかっただろう。 人の語る言葉は同時に神に対して語る言葉であり、正直や誠実といった美徳は、全知全能で、なにもかもお見通しの神に対しても恥じることのない言葉を差す。 真実や真理の取り組むのは案外簡単だろう。 それ以外の知性はなるほど痴性だ。
お礼
ぎゃくに言えば ☆☆ 神のからくり ☆ にまで触れてしまったのがよくなかったかも知れない。 表現の問題にとどめておいたほうが 簡潔な話であったかも知れない。 この問いは 確認のための問いですね。 ご回答をありがとうございます。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>《ねたむ神 怒る神 あわれむ神》というのは 必ずしも神がそうするのではなく 単純に言って 神のもとにある人びとが ねたみ・怒り・あわれみ・・・といったことをおこなうのだ。 >――という表現のからくりであるとなりますまいか? そんなからくりには全くなりません。 質問者様は大きな勘違いをしておられる様ですが、 >♪ 雪の降る夜は たのしいペチカ >♪ 狭いながらも たのしい我が家 >と言います。――つまり この《たのしい》のは ペチカや我が家なのか? という問いの答えは 「その通り、《たのしい》のは人間ではなく、ペチカや我が家の方です」 というものになります。 まず「たのしいペチカ」や「たのしい我が家」の「たのしい」は形容詞である事を見落としてはいけません。 「白い家」の「白い」や「暖かいペチカ」の「暖かい」と同様に、「たのしい」はペチカや我が家が持っている性質の事なのであり、「人々を楽しませる事が出来る性質を持った」ペチカや我が家という意味であって、「楽しい人間」(他人を楽しませる事が得意な人間)がいる訳ではないのです。 一方、「ねたむ神」、「怒る神」、「あわれむ神」において「神」の前に付いている「ねたむ」、「怒る」、「あわれむ」は何れも動詞であり、「神」が行っている行為を表している言葉です。 「神がねたむ」、「神が怒る」、「神があわれむ」のであって、「人間がねたむ」、「人間が怒る」、「人間があわれむ」のではありません。
お礼
★ 「たのしい」はペチカや我が家が持っている性質の事なのであり、「人々を楽しませる事が出来る性質を持った」ペチカや我が家という意味であって、「楽しい人間」(他人を楽しませる事が得意な人間)がいる訳ではないのです。 ☆ そうですよね。――とでもお応えするしかないでしょうか。 ご回答をありがとうございます。
- shiren2
- ベストアンサー率47% (139/295)
初心者がやりがちなのが、聖書を字句通りに解釈したり、自分独自に解釈したりすることです。 それをやると同じ文でも十人十色の答えになるので、 真理が一つであるなら、9割方は間違えた答えを出します。 こういった迷走を避ける為に、特にカトリックでは信者が勝手に聖書を解釈することを戒めているわけです。 質問の問いに答えると、 それはあなたの勝手な解釈であり、正しい解釈とは認められないだろう、 が答えになります。 ネットの慣用句で言えば「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というやつです。 それでいいなら別にその解釈でも構いません。 それだけの話です。
お礼
根拠・理由ならびに例証を出して説明すること。 さもなければ 小学生のただの絵日記の感想文でしょう。 おあいにくさまでした。 ご回答をありがとうございます。
- hhyuy
- ベストアンサー率0% (0/2)
ペチカや我が家は物 神は物では無い・・意思がある者と 意思を持たない物質とを混同する事が間違い・・ 《ねたむ神 怒る神 あわれむ神》を《ねたむ人 怒る人 あわれむ人》に変えるだけで 理解出来るのでは?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 《ねたむ神 怒る神 あわれむ神》を《ねたむ人 怒る人 あわれむ人》に変えるだけで 理解出来るのでは? ☆ そうはならないと思うのですが。 つまり 《ねたむ人》と言った場合 その人のもとにいるほかの人びとが 実際には《ねたむ》のだということには ならないでしょう。 言って言えないことでもないでしょうが 同じ《人》が 片やまとめる立ち場にいて 片やそこにつどう人びとであるというのでは この場合の表現の妙がほとんど薄れてしまうようです。 ★ ペチカや我が家は物 ☆ そのとおりですが その《物》のまわりに・あるいはそのもとに人びとが集まるという構図は 神の場合と同じようですね。 したがって たとえとしての表現の問題になると考えます。
お礼
くりなるさん こんにちは。 そこまでの――法律にかんする問題になるところまでの――話ではありません。 ご回答をありがとう。