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(旧約聖書)復讐を肯定?否定?

関根正雄訳 ヨブ記第16章 第18節 大地よ、わが血を蔽うな、 わが叫びは墓に下るな。 注釈には「血の復讐の考え方が背後にある。殺された者の血は地下から神に向かってその復讐を叫ぶ。」とありましたが、これをどう読むのかが分かりませんでした。ユダヤ教の教理では復讐が肯定されていますか、否定されていますか。神による復讐でなく、人による復讐です。 1 http://park10.wakwak.com/~ebible/bsrch/index.html において 1) 検索窓には「復讐」を入れる。 2) ANDとORはどちらも可。 3) 「最初に一致した節から連続」のチェックを外す。 4) 「旧約」にチェックを入れる。 5) 「新共同訳」にチェックを入れる。 6) 「表示開始行」に「1」を入れる。 これで検索したところ38件ヒットしましたが「復讐」を教理として肯定しているのか、否定しているのか判断できませんでした。 教理として肯定している場合は >> 3 レビ記 19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 これの意味を解説して下さいませ。 また、否定している場合は >>5 民数記 35:19 血の復讐をする者は、自分でその殺害者を殺すことができる。彼と出会うとき、自分で殺すことができる。 これの意味を解説して下さいませ。 2 肯定しているにせよ否定しているにせよ、それが背景にあって起きたと考えられる著名な出来事を、第二次大戦以後のイスラエル政府の対応の中に見出す事ができますか。 1だけでも結構です。よろしくお願いします。

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  • Big-Baby
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回答No.4

日本語での検索にだけ頼るのはおやめになった方がいいと思います。ユダヤ教、キリスト教などについての日本語のWikiと英語版Wikiを比べれば後者の方が常にはるかに詳しく正確です。  さて、旧約における復讐といえばやはり「目には目を」の限定的報復の原理でしょう。片目をつぶされたら相手の片目を、腕を一本へし折られたら相手の腕を一本・・・  「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出エジプト記24-25)   これはもともと古代バビロニアのハムラビ法典にある言葉で、古代オリエントでは常識になっていたと思われます。この原理はユダヤ教徒だけではなくイスラム教徒にも受け継がれています。つぎのサイトを覗いてみてください、現代でもこの規定が実行されている国があるようです。 http://amor1029.exblog.jp/1871825/  1発殴られたら1発殴り返せ、というのは、一発殴られたら10発殴り返せというよりは人間的な感じがします。今のイスラエルもハマスからのロケット攻撃があればそれを我慢せずに必ずハマスの基地をさがしてミサイルで報復していますね。原理的には「目には目を」の原理は今も生きているように思います。  旧約のこの「目には目を」の規定については英語版Wikiをよく読んでください。日本語版にはなにも書いてありません。 http://en.wikipedia.org/wiki/An_eye_for_an_eye 旧約のこの規定に対してイエスが「右のほおをなぐられたら左のほおを差し出せ」と教えていますが、キリスト教徒でイエスのこの高貴な教えを守っている者はひとりもいません。

sono-higurashi
質問者

お礼

「目には目を」は、こういうことでしょうか。 1 加害者の償い方の心得を述べたもの・・・・・理念 (というのか、建前というのか、奇麗ごとというのか) 2 被害者の報復の限界を述べたもの・・・・・・現実論(報復の拡大再生産の防止) 1、2以外に 3 「目には目と鼻と口と耳とその他全部を」・・被害者になったときの本音(こういう軍事力信奉国が幾つもありそうです) 経典の文言がどうあれ、立場によって「復讐」の肯定とも否定とも、如何様にも変幻自在に説明できそうです。結局教団とは利害関係のない人間が実態を観察して結論づけるしかなさそうです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (3)

  • dddluiddd
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回答No.3

質問すべてにお答えするわけではありませんが一言。 まず注釈に関してですが、『創世記』4:10を参考にしてみてください。 そこでは「お前の弟の血の声が土からわたしに向かって叫んでいる」とあります。 つまり、大地に流された血は、土によって覆われない限り、 復讐を訴えて神に向かって叫び続けるとされているのです。 さて、 「大地よ、わたしの血を覆い隠すな、 わたしの叫びに(休息を与える)場所を用意するな」 という『ヨブ記』16:18は、ヨブの弁論です。 つまり、友人達がヨブを諭そうとすることに対して、 ヨブは私の叫びを押さえつけるな、と言っているのです。 従って、この箇所は、 自分の意図することに沿う句を『創世記』から引用しているのであって、 「復讐」そのものの是非が問題となっているわけではないとした方が自然です。 さて、「復讐」そのものについてですが、 日本語で「復讐」「報復」と言うと、たいていは 敵意を伴った仕返しという意味で用いられるかと思いますが、 このような理解で聖書に描かれる「復讐」を読み解くと、かならず誤解が生じてしまいす。 少なくとも「血の復讐」「報復」「報い」を分けて考えなければなりません。 ちなみに挙げられている『民数記』の句は、 『民数記』35章すべてを読めば理解できると思います。 イスラエル政府の対応に関しては、 少々「復讐」からはずれるので割愛させていただきます。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 ヨブ記第16章 第18節の正しい読み方は分かった積もりです。 2 『民数記』35章はざっと読んでおきました。正しく読めたとは申しません。「血の復讐」の「血の」に特別な意味があるのかないのか、確信がもてないので読後感が鮮明になり難いです。 民数記 35:19は「被害者へ報いる方法の基本的な考え方」を述べたものでしょうか。「復讐」という単語の当否は措くとして、現代の標準的で普通程度に健全な日本人の考え方に一致している、と読みました。 このお礼文に看過できない点があれば、ご返事を下さいませ。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • kigurumi
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回答No.2

今まで何度か、関根正雄訳に基づく聖書の内容について質問されてきましたよね。 毎回、出された文節の訳の内容が、私が持っている聖書と違っていた。 で、この人は古代のレビ人が使っていた古代ヘブライ語を習得して、翻訳しなおしたのか? だとしたら、それが本当の意味となる、、、でも、どうなのだろう? 意訳だろうか? と思って眺めていました。 で、調べました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E9%9B%84 『従来の聖書訳とは異なる、岩波文庫版の読みやすい旧約聖書の翻訳を提供した。』 現代に伝わる旧約聖書は、ギリシャ語に意訳された内容だと思うんですね。 口伝で伝えられていたものを文章化する必要にせまられ、やがて、ヘブライ語を知らないユダヤ人に聞かせるために、ギリシャ語に翻訳され、ローマ帝国により神殿が破壊され、その際に図書館も燃えてしまい、ヘブライ語の原本が消失してしまい、ギリシャ語に翻訳されたものが、ギリシャや他の地方に渡っており、それを旧約聖書の内容だとしている と 私 は思うんですね。 で、死海文書が2000年の長い眠りから目覚め解読され、キリスト教は現在伝わる旧約聖書の内容とさほど食い違いが無いとして、胸をなでおろしたそうです。 (死海文書のほとんどはヘブライ語で書かれていた。) でも、本当に食い違いが大きくないのかは、よくわかりません。 何故なら七十人訳聖書も、実は翻訳した人によって意味が違っていたにも関わらず、全員が同じ訳をしたと嘘をついて、七十人訳聖書の正当性を主張したという過去がありますから。 旧約聖書の掟は、内容を変えてはならない なんですね。 それは他の言語に翻訳してもいけない という意味だと思います。 どうしてかというと、ヘブライ語にあって他の言語に無いものが多数あり、それじゃ翻訳できませんので、それに近いものに翻訳をするしかないわけです。 ここで内容が歪むわけです。 もう、ニセモノになってしまうわけです。 だから、絶対に他の言語に変えることも許されなかったのだと思います。 ところが、実際は変えて翻訳してしまい、その歪んだ内容が今日に伝わる聖書で、それを現代の人は何千年も前と内容が同じだと思い込んでいるわけです。 だから、まず言いたいのは、関根氏の訳にしろ、現代の主流の聖書にしろ、正確に内容を表していない ということ。 正確に表しているものがあるとすれば、それは書物じゃなく人。 伝統を継承して、暗記し、次の世代 次の世代と継承をしてきた人々がいれば、その人たちの口伝が、本当の意味を語っているのだと思います。 で、失礼ながらめんどくさいので、私が持っている聖書で、その箇所がどのように翻訳されているのか確認はしませんが、ここに書かれている文章を読んで思い出したものがあります。 4 8 15 16 23 42 ドラマ ロストを思い出しました。 さて、アベルは兄弟のカインに殺されました。 それを神が知ったという描写を私は思い出しました。 アベルは地からカインに復讐のために叫んだのか? カインには聞えず、神にアベルの叫びが聞え、カインがアベルを殺したことを全知全能の神はやっと知ったわけです。 アベルが地の中から叫ばなければ、全知全能の神といえども知ることは無かったので、アベルは復讐心からカインが神から罰せられるように願って、地の中から叫んだのか? イエスの描写ではイエスが槍で疲れるシーンがあります。 大地に地を流すことで、魂は母なる大地に戻り、また復活すると信じられていた時代。 エホバの証人で、地をとってはならない という教えがあります。 どうしてかというと、古代エジプトでは地の中に魂があると信じられていたから。 だから、弱った王の力を復活させるために、地抜きして大地に地を流し、復活を願った。 王の再降臨を願っていた。 だからユダヤ教では今でも動物を食べる前に血抜きしてお祓いしているんですね。 血を取ってしまったら、大地に還元されず、生命が再び地上に戻ってこれないという考えに基づく。 そういう古代の認識を情報として、再度 その文章を読んでみたらどうなるでしょう? アベルは血に下ったので、再度地上に戻ってくると信じられていたと思えます。 地に下り、力を復活させ戻ってくるという思想はギリシャではアドニスとして伝えられている。 アネモネもそれに関係していたと思います。 エホバというものも、子音だけのヘブライ語にアイオンという母音をつけると、エホバとなるんじゃなかったでしたっけ? で、結局は死んで大地に戻っても、魂は存在しつづけるという考えが常識だった時代に、創世記は作られた。 で、大地よ 我が地を覆うな は、死にたくない という意味だと思います。 わが叫びも、アベルのように、殺され魂が地にくだらないように つまり やはり 死にたくない って意味だと思うのですが、、、、  

sono-higurashi
質問者

お礼

前半はよく分かった積もりです(ドラマ ロストの登場より前)。傾聴に値するし賛同もできます。文章の伝え得る限界といったことは、よく考えさせられます。 それはそれとして、何方様の訳であろうとなかろうと、ヨブ記第16章 第18節を添付しようとしまいと、この質問は成立するのではないでしょうか。 ヨブ記第16章 第18節の読み方の示唆については承知しました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

回答No.1

レビ記の17~26章は「神聖法典」と呼ばれ、 捕囚後にバビロンで編集されたと言われています。 共同体崩壊の危機の中で、 イスラエルは他の民と区別された「聖なる民」 であることが強調されています。 特に19章は宗教的・倫理的な戒めが集められています。 十戒と同じように断言法で言われ、罰則の規程がありません。 そして「私は主である」という結びの句によって、 これらの戒めが特に重要であることが強調されています。 イエス・キリストも「どの掟が最も重要か」という問いに対して、 「隣人を自分のように愛しなさい」という部分を引用しています。 「復讐するはわれにあり」 復讐は主なる神が行うことであり、人は復讐してはならないのです。 とは言え、イスラエルも古代社会の1つであり、 血の復讐は当然行われたでしょう。法律による規定もありました。 いわゆる「モーセ五書」は現実の社会の規範としても機能しました。 しかし、バビロン捕囚がこれらを大きく変えました。 元祭司たちは、古い伝承に新しく倫理的な教えを見出しました。 尊い神殿を壊し、自分たちの国を奪った憎いバビロンに対し、 イスラエルの民は復讐することが出来ませんでした。 そんな時「民に代わって必ず主が復讐してくださる」という信仰が、 希望へつながり、国を立て直す力となったのです。 残念ながら新しいイスラエルはまたも見棄てられ、 かつてのイスラエルの民(ユダヤ人)は離散しました。 第二次大戦後に出来たイスラエルは、 帝国主義者が中東に打ち込んだ楔です。 英米を味方につけ、核兵器を含む強大な軍事力を持つ彼らは、 大国の狭間でおびえていたかつてのイスラエルとは違います。 我々がナチスに痛めつけられていたとき、主はいずこにいたもう? 彼らは神による復讐を待たず、自らの手で復讐することを学びました。 「やられたら、やりかえす」 悲しむべきことに、血の掟はよみがえったのです。

sono-higurashi
質問者

お礼

レビ記の17~26章は通読しておきました。分かった訳ではありませんが読まないよりは、ずっとまし程度には理解が深まりました。カナンの地に入るに当たっての契約で、彼らにとっては根源に属す話でもあろうか、との読後感です。 復讐については理念としては否定、とはいえ現実には現実として対応せざるを得ないといったところでしょうか。こう言ってしまえば当たり前過ぎて、わざわざ質問したり答えたりしなくても予想がつきますが、といって制約のある、こうしたシステム下では深入りできないのも当然です。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。