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われらがあたらしい哲学へ
- 近代人と中世人との対比ではなく、古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。
- 哲学は科学をどのように取り扱うかを問い求め続ける。
- 西欧の哲学は「S-A連関」の全体を扱わない傾向がある。
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以前、TVで、トラックの運ちゃんが、道について哲学的な事を話しているVTRがありました。内容は忘れましたが、生きた言葉としてとてもユーモアがあったように記憶しています。そんな風に、一生活シーンからこぼれ出てくる一種普遍性をともなった人生の金言は、聴いた人を笑顔にすると思います。 ともすれば人々を悩ませがちな学術としての哲学とは違った表情があり、私は好ましく感じました。 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。 学術言語は形式を重んじ、生活言語は自由を重んじる。それぞれは違いだけがあって優劣の存する間柄ではないのでは無いか、私はそのように考えました。 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。
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- barabarakon
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aru ni kimatte ru yo ne http://www.freidok.uni-freiburg.de/volltexte/5973/pdf/Husserl_Ideen_zu_einer_reinen_Phaenomenologie_1.pdf aaa sore dee annta nan sai? atarashii no?
お礼
▲ EDMUND HUSSERL: Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie Erstes Buch: Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie ☆ あぁ。これだ。たぶん これだ。読みづらくて 途中でほかったのは。しかも翻訳。 でも 解説がすごくうまく書いていた。ほとんど内容としては覚えていないが。 こんな内容 どこをどう読めば解釈できるのか? と思ったことも覚えている。 ドイツ語だけでお手上げなのに 読みづらい文字が入っているぢゃん。せっかくだが またの機会にします。せめて ふつうの文字のものを。そして 参考に挙げるそのチチェローネなら 案内を二言三言 書いておくもんだ。 あんた 自分の歳をどうしても伝えたいっていう意味? 勝手にしてちょ。 まさか ななにす婆ぢゃないだろうな。
- barabarakon
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<>おわりのうつけ <>おれはいいせんいってる はああ あなたはそのままストレートに、「す」で、ばかなんでしょ(笑)。 おわり と いう県はないですし、うつけというのは本来的意味で当てはまったているだけですね。 イメージづくりに躍起になり、必死なようですが。あなたは、じんせいがおわっていて、あたらしくないです。 イタいという言葉はほかの人の文章からも出ていますが、 ではどこが新しいのですか? 古事記? 聖書? あんたは、友達のいない精神のコジキ。ぼこぼこに殴られてて、敗残兵の死骸よりたちの悪い負け負け。 手も足も出ないはりつけ爺というのは、共通点かな。反論してみてください。論点は一つなんでしょ。 フッサールよんで出直してくれば? (これでもまだ古さはぬぐいきれませんが) ここから出てけっていわれてんでしょ。すなおにでてけ! 一週間に何回風呂に入っているか自白してもっと清潔にしろ! 家の壁1cm削って除染しても匂いの残る不潔年金泥棒さんへ(笑・くせえんだよ)。
お礼
★ ここから出てけっていわれてんでしょ。すなおにでてけ! ☆ ここだけ違う。それとも わたしが知らないだけ? バカだといまごろ知ったの? おくれているぞ。 ★ イメージづくりに躍起になり ☆ これは 《尾張のうつけ者》と名乗ったから そう言われても仕方がない。 ★ うつけというのは本来的意味で ☆ も 内来的・外来的意味でも 末来的意味でも当てはまっています。 ★ ぼこぼこに殴られてて ☆ フルボッコで批判して欲しいという質問を挙げたけれど すべて返り討ちになってしまった。 フッサール 読んだことあんの? ご回答をありがとうございます。
- barabarakon
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ふるいと あたらしいの区別さえつかない あなた。 そういうあなたは、哲学に向いていません。才能がないんですよ。 <>単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みる・・・・・ ありゃりゃ 中卒OKwaveのにほんご こく語のお勉強が必要ですね。 文章は最低限推敲してから提出するように
お礼
ご回答をありがとうございます。 さて どうこたえればよいでしょう。 というより どう理解すればよいのか。 《才能がないんですよ》と言われる割りには いい線行っているでしょう? アラシでも 文章を読んでくれたのだから よしとせねばいけないという人がいます。 でも それでは アラシを消極的に擁護しているかに映ります。まいか? それとも 知能の状態が ただちにはどうにもならないのだから 放っておくしかない。のか? 《推敲》という言葉を知っているんですね。 根拠を――つまりは ご自分の考えの過程を――示すようにしましょう。ね。 遅すぎることはありません。 (少しはこたえたかなぁ)。 (おぼえているかぎりでは 二度目のご投稿ですね)。 (文章が バラバラにならないようにね)。へっへっ。 相手と同じようになりました。
- asisai888
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>ちょっぴり省みられてもよいはずだ。といったことになりますが どうでしょう? すいません分かりませんでした 理性の崇拝を問題視してるようですが、なぜそれが問題なのかの記述が抜けてると思います 質問の仕方を変えます、省みることでどんな哲学的成果が期待できるのですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 たとえば 近代人としては 《われ考える ゆえにわれあり》です。 ところが これは 古代人であるアウグスティヌスが 《われあやまつならば われあり( Si fallor, sum. )》と言って打ち出した命題です。その二番煎じです。 アウグスティヌスの場合には 人間の存在が《あやまつ(または あざむかれる)》といった人格の全体の行為にかかわって捉えられています。あやまちに気づいたとき われに還る。ゆえに われあり。と言っています。 けれども デカルトとかいうおっさんは あやまちに気づいたそのとき われはなぜ・どこで誤まったのか? 何を考えていたのか? と問うことになるそのときの《コギト(われ考える)》という部分的な要素にのみ注目して その部分的な要因――理性ないし思考――こそが わが存在の存在たる所以である。と言ってしまった。 なぜか この《あやまち》が 人びとの採用するところとなった。 理性は大事ですが 感性も知性もとうとく 人は大いに用いなければなりませんが だからと言って 理性が万能であったり全知全能であるわけはない。このことは もうつとに指摘されて来ていますが その反省の際に ひとつの見方として じつは中世人はどうであれその以前の古代人は 決してそのような要素分析的な視点を〔だけ〕持っていたのではない。そのような部分観に片寄ったわけではない。 といった歴史事実が われわれの前に示されえますし それは 歴史をつうじてわれわれの持ち前の能力であろうと考えられます。全体観から逸れないことも 大事でしょう。 おそらくこのように古代人の人間観を省みることで 哲学にとってもよい成果が期待できると考えています。
- asisai888
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>ご指摘の問題は ちょうどNo.1でねむねこさんとのやり取りで扱っています 古代人の持った人間観を省みることがなぜ必要なのかNo6のお礼欄を見てもNo1でのやり取りを 見ても書いてないように見えるのですが・・ bragelonneさん自身は古代人の人間観を省みる必要性があると考えているのですよね? 考えているのでしたらその必要だと考える理由は何ですか? それとも必要だと考える理由はひとまず置いて、必要であると前提しての質問なんでしょうか? 私の理解力が足りないばかりに論旨がつかめずすいません
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。情況証拠よりはチカラがあるとは思う議論ではないか。とは思うんですが。 ルネサンスは 中世人がアマテラス倫理規範なる人格語を――神への信仰を言いながら そのようなオシエとしての・つまりは信じるではなく考えることにもとづく普遍人格語を―― 人びとの守るべきものとしたとすれば 〔ルネサンスは〕 その中世をさかのぼり突き抜けて 古典古代へと目を向けた。 古代ギリシャです。このギリシャの栄光は 必ずしも《ふつうの人》の生活哲学ではなかったかも知れませんが 中世人のように《アマテラス人格語》による模範的な人間像をつくるのとは やや違っていた。ハダカの人間をあつかった。 ですから この一点として 《スサノヲ人間語 - アマテラス人格語》のどちらかの一辺倒には成らず 全体観を重んじた。と言えるのではないか? すなわちそれには 古代人の人間観が少なからず寄与した。 あるいは 同じくルネサンスは 初めは 世界ないし宇宙を探究するとき それは――中世からの延長でしょうか――神の摂理のもとにあるのだという前提で研究をした。やがて 必ずしも神の秩序がマチガイなくこの世界を支配していたかと言えば そうでもなかった。モノゴトは それぞれが自己運動をしている。 そのような経過からでしょうか やがて人びとは 世界について認識するとき人間の理性によることでよいというように考えるようになった。しまいには その理性によって世界を支配し操作することも出来る。自分たちの思うように出来ると考えるようになった。 すなわち 《 S 語 - A 語 》の連関構造から 《アマテラス普遍科学語》が単独分立するようになった。それでよいのだと考えるようになった。理性の崇拝です。科学主義としてのアマテラス語普遍教なるシュウキョウの誕生。 古代ギリシャ人が 万物の根源としてのアルケーを探究したとしても その《科学語ないし理性》を・それのみを 単独で重んじることも少なかったのではないか? まして アマテラス理性を崇拝することまでには到らなかった。 その一点において やはり古代人の人間観が いちいち持ち出さなくてもよいかも知れませんが ちょっぴり省みられてもよいはずだ。といったことになりますが どうでしょう? 全体として 《古代人の人間観を省みて欲しい》というのは 話の導入としてつけ添えています。そして 何がしかの内容もあるかと思っています。 そんな事情です。
- a_hona
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もののあはれ、ですか。いいですね。確かにそのような集約の仕方なら、その事象にともなう心の動きを損ねていないと思います。 あはれ、のような言葉が日本語には他にも多くありそうですね。 類例や論点は、浅学の私にはあまり示せそうもありませんが、面白いとおもいました。おそれ、などもそうかもしれません。現代で言うと、イタいとかいう言葉も、哲学とまではいかないかもしれないが、微妙なニュアンスを含んでいそうです。 言葉に歴史を見て、そこから抽象を導き出すという観点は良い試みだと思いました。
お礼
ご回答を・ご賛同をありがとうございます。 《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。 ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。 ▲ フッサールおよび現象学においては、 エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。 すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。 ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。 世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。 もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。 これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。 ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1 フッサールは、 哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、 意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。 そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。 この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 (Wesensschau)》と言うのだそうです。 《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。 フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。 ▼ (フッサールの方法とその諸問題) http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも そちらから出してもらった《おそれ》をひとは覚えるでしょうね。《きよらかなおそれ》。 しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。 おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。 一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。 俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。
- asisai888
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>古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか なぜですか? >もう少し別様の説明としてのべます その別様の説明は古代人の持った人間観を省みることの必要性と どう関連してるのですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ご指摘の問題は ちょうどNo.1でねむねこさんとのやり取りで扱っています。 たとえば ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ 1. 〔* 古代ギリシャにおける〕《英雄》の物語(それが 必ずしもアマテラス普遍人格語でもないようなのですが)や哲学としてはすでに初めから――アルケーを探究したとするなら―― アマテラス普遍語で語ろうとしていたかも分かりません。 2. ただしコジツケとしてでも反論すれば 《英雄》や《普遍科学》を究めようとするなら おそらくその裏で そうではないところの《ふつうの人》についても浮き彫りにすることが出来た。とも見られます。 3. いえ。それは詭弁すぎるとしても けっきょく――むろん何らかのシュウキョウはあったのでしょうが―― 割り合い英雄の描写にしても 倫理規範や模範の像を追い求めるというのでもない。のではないか。ただ単にひとりや二人の美女をめぐって 人殺しをともなう戦争を起こすのですから。 4. つまりは 〔* ギリシャの古典古代に還ろうという〕ルネサンスの運動がみづから証明しているように ハダカの人間を見ようとしていたし その意味では《 S 語 - A 語 》の連関し複合した人間の像を捉えようとしていた。と見てもよい一面があるのではないか? ・・・・ ただし ソクラテスにしても ダイモーン(神の霊?)を語って 神学にも首を突っ込んでいるようです。プラトンのイデアは まさしく神学です。(あまりにも観念論すぎると思いますが)。 つまりは 〔* 近代人の〕普遍科学の単一の論理で突き進むのではなく その色合い一色に塗りつぶすのでもない。と言えるのではないでしょうか。 そういう意味では 中世の宗教人と近代の理性人とを 後ろ向きに総合したような人間像に近い生き方をしていたのではないか? ちょっと弱いですかね。 ・・・・ じっさい ルネサンスが その初めにはまだ《神の摂理》のようなものを前提として 人間語および科学語を究めようとしたのが どこかから誰かから すでに科学語の一辺倒に落ち入って行くという《 A 語単独分立》へと軌道を逸れて行きました。そしてそれが 極端に走ったときには――《 アマテラス普遍語の帝国主義》なる様相をも呈したときには―― 単純に言ってその反動が現われました。 《主体》論から 《無主体》論――構造主義など――という対極へと振り子は 振り切りました。 つまり この《主体》は 素朴にでも 古代人は持っていた。理性やその論理だけではなく人間の全体を捉えたかたちで ふつうに社会生活を生きる主体であろうとした。(身分制などの制約がありましたが。つまり 制約があったにもかかわらずとも言い得ます)。決して 古代人の人間観ないし生活観をバカにしたものではありません。(我が国では 《イリ歴史知性》!!)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょうか。
- barabarakon
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そのまえに、古臭いのをどうかしなさい。まずは、老害処理から始めましょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ そのまえに、古臭いのをどうかしなさい。 ☆ たとえば どこが《古臭い》でしょうか? ★ まずは、老害処理から始めましょう。 ☆ 尾張のうつけ者として あなたよりは若いはずですよ。 なに? ぜんぶふるくさいですか? それは 失礼しました。あなたはスルーしてください。
- a_hona
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もし、自由な生活言語による哲学を理論化して普遍化すると、何か大事なものが、息吹と言ったようなものが、失われる気がします。 例えば、日本では毎年桜が咲きます。昨年の桜と今年の桜は同じ桜ですが、年年の趣としては、異なる桜であるはずです。それをわずかの期間堪能して、桜はまた散ってゆくのですが、この桜の花を押し花にして年月を超えるべく保存しても、桜の魅力は保存できないでしょう。 同じように、自由な生活言語による哲学は生きているのであり、それを理論化し普遍化してしまうと、死んでしまう恐れは無いだろうか、というのが一つの懸念です。 しかしながら、歴史という人類の長大な営みを季節に例えるならば、この時代にはこういう生活言語による哲学が花開いた、あの時代には、こんな哲学が花開いたと、類例を集めることは可能なように思います。 民族や時代性によって規定されてきた哲学も存在すると考えられ、それを集めて提起することは、歴史哲学や、民族哲学と呼ぶことができるかもしれません。 ただ、トラックの運ちゃんの話に戻りますが、私の見たトラックの運ちゃんの哲学は個性的なものであり、それはロシア民族(その運ちゃんはロシアの人でした)特有の哲学でも、現代という特有の時代の哲学でもありませんでした。この生活言語の持つ特性として、個性というものがあげられるなら、それを普遍化することはその本質と矛盾する恐れが出てきます。 このようなことを考えました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 昨年の桜と今年の桜は同じ桜ですが、年年の趣としては、異なる桜であるはずです。それをわずかの期間堪能して、桜はまた散ってゆくのですが、この桜の花を押し花にして年月を超えるべく保存しても、桜の魅力は保存できないでしょう。 ☆ 便利なことばがあります。《もののあはれを知る》です。 《あは! Ah ! Oh! 》という感嘆の言葉に抽象させたわけです。 《〔ものの〕あはれ: the Ah-ness (of things )》 これなら いくら年月が経っても 色褪せないでしょう。そういった抽象化=一般化による理論化もありうると思うのです。 ★ 民族や時代性によって規定されてきた哲学も存在すると考えられ、それを集めて提起することは、歴史哲学や、民族哲学と呼ぶことができるかもしれません。 ☆ ぜひここへ舞い戻って ひとつの出発点としていただきたいものです。 たとえば――またまた親鸞ですが―― 《悪人正機》の説はよく考えると 善人と悪人とを問わず《正機》だと言ったほうがよいように思うのですが 《義無きをもって義とす》は なかなか味わい深い思想であると考えます。じつは 《日本的霊性》と呼べるのではないかとさえ考えています。 ★ ただ、トラックの運ちゃんの話に戻りますが、私の見たトラックの運ちゃんの哲学は個性的なものであり、それはロシア民族(その運ちゃんはロシアの人でした)特有の哲学でも、現代という特有の時代の哲学でもありませんでした。 ☆ なるほど。具体的なお話をお聞きしたい気持ちになりましたが そういう意味での思想はありそうに思えます。その応用は まったく職業が違った場合にも 同じようにではなく何かの拍子に自分のやり方といったことを出せるようになる そういうかたちで出来るのかも知れません。 この際 この質問は主題のおさめる幅が広いので 哲学・思想のおもしろい問題やこれこれの論点はどうかなどといった話題でもありましたら どうぞみなさんのためにもご披露いただくということもよいかと思いますが。・・・
- NemurinekoNya
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NO1の補足。 《哲学で語られる人》→《哲学で語られる人の姿》 の方がいいのでしょうかね。 哲学において語られる《人の姿》は、頭でっかち(理性的?)で歪な、萎縮した人間の姿でありましょうから。
お礼
うけたまわりました。 家康は 織田家に人質になっていたあと 今川義元のもとで人質生活をおくることになり 成人して義元の縁戚から嫁をもらっている。 桶狭間で義元の首が挙げられたあと 家康は 駿府に行ってその領土をうばう選択肢もあった。けれども 岡崎の城主にあらためて就きそこにとどまる道をえらんだ。(嫁を見棄てた。また 家臣の者たちの妻子たちも人質となっていたのを 見棄てた)。 むつかしいのでしょうが トヨタは 豊田の町に土着して事業をつづける限りで 伸び代があり また安定成長をのぞめるのではないでしょうか。 スサノヲイズムまたインタスサノヲイズムをとなえる所以です。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。 ☆ という見方が出来るなら その見方もあたらしいのだと思われますが その哲学の内容は すばらしいものであるはずです。 そんなものは無いではないかと疑うのではなく さりとて すでにこれこれこういうもの(思想でしょうか)があって それは 歴史的にあれそれの流れの中にある。安心出来ますよ じゅうぶんですよ。とまでは まだ言えないのではないか? 思想は 生活態度だと捉えていますし この思想について いろんな場合の可能性を加味しその上で広く理論化すれば りっぱな哲学である。とも考えます。考えますが まだない。かまたは すでにあっても 見つかってはいない。――のではないでしょうか。 ということは あたらしい哲学を模索してかたちづくって行くときにも せいぜいこれまでの歴史の中から そういった生活哲学――《自由な生活言語による哲学》――を拾い上げて行きたいというふうに感じます。 ★ 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。 ☆ 微妙な違いを それでも述べることをおゆるしください。 学術言語は これは 学問としてなら そのままで十分ですが 哲学としては・つまりあたらしい哲学としては それだけでは やはり普遍性のある要素のみで構成した理論にとどまっていますから 不十分だと見ています。 生活言語は いま上で捉えて来たようにすでに一般性のある思想となっていてそこに幅広い可能性の問題を加味して理論化すれば それだけで さほど困ることもない。とは考えます。 でも一般には 普遍化は ほとんどしていない。そういう状態にある言語だと見られます。 ですから――次のように総合して哲学を形成するのは おかしいのかをおしえて欲しいのですが―― やはり両方をまとめて基礎としつつその成果ともしつつ 打ち出していくかたち。これに成るのではないかとは思っています。 《生活言語 - 学術言語》の総合的な基礎に立つ理論 といったところでしょうか。 ツッコミをよろしくどうぞ。