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哲学とは何か、哲学の役目とは何か
哲学とは何か、哲学の役目とは何か、今一度考察してみました。 1. 社会のあるべき姿について語ること 2. 経済のあるべき姿について語ること 3. 法律や司法のあるべき姿について語ること 4. 国家間の紛争解決や政治のあるべき姿について語ること 5. 医療や生命倫理のあるべき姿について語ること 6. 科学の正しい方法論について語ること 7. 上記した現実の問題には一切関わらず、落語としてエンタテイメントに徹すること 哲学とは何か、哲学の役目とは何か。 該当するものはあるのでしょうか。
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- lpcd1955
- ベストアンサー率0% (0/2)
俺は哲学とは 間違った道に居る時に、使いがちな袋小路みたいなものだと思うね。 釈迦の言葉をここで用いるのは適切ではないんだよ。 善をなすのを急ぎなさい。 善をなすのにのろのろしていたら、 心は悪を楽しむようになります 私はこの言葉の意味がよく分かるんですよ。 善とか心が悪を、というのは噛み砕いて考えていますが 今一番大切に思うことがあって、それが何らかの事情で為せていない、 この状況が続くとそれを大切には思わなくなってしまいます。 それ以上に時間が経てば経つほど、叶えにくくなると考えています。 希望通りにならなかったことはいくら哲学で考えようと答えは出ません。 希望通りにすることでしか、満たされないから。 こういう使われ方をされるものということで、信頼性は薄いですね。 考えるという行為は時間を無駄にする行為です。 テストの時に考えている時間がないのと同じで、考えることは 正しい行動ではない気がします。 答えというのは、始めから分かっていなければならないのです。 語らったり、落語をするというのは分かっていないからするんですよ。 哲学は不要。必要なのはすぐにでも『善をなす』こと 哲学は答えを出していないのではなく、出せないんだよ?
- yuniko99
- ベストアンサー率15% (31/204)
哲学は基本的には知を愛する事 考えて知る事ですから 学問に拘らなくても 漁師の哲学が在っても 女性の哲学があっても良いと思うのですが 昔は哲学が学問の元祖で(占いもですが)そこからいろんな学問が派生して行ったのです 社会学や経済学、法学や医学倫理は哲学とは考えられてないようです 私の知る限りでは 哲学は「己を知り世界を知る事」人生観と世界観が主になた様です その為に他の学問の知識も使いますが 目的はその二つです。 哲学は十人十色でなかなか意見の一致を見ませんが 哲学は人生や政治や宗教 理想実現に寄与しなければなりません 人々に幸せを実現する知識を配らなければなりません 未来に「永遠への存在」を実現する為に 人間の営為を調整しなければなりません それは分かっているのですが それが出来ないのも 哲学が十人十色だからなのです。 残念ですが。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
哲学って西洋哲学のことですね。 哲学は神の秘密を探求するために 発達してきたものです。 だから、キリスト教の信者でない者は 本当の意味で哲学は理解できないと いう人もいます。 事実、日本では哲学をやり過ぎて狂死 した、なんて人は聞きません。 世界中を敵にまわしても、我が道を行く という哲学者も出ませんでした。 だから,1~7は総て見当違いです。
- osakajapan2001
- ベストアンサー率16% (236/1442)
再度御礼を頂戴致しました 貴方のご指摘は正しい しかし哲学者たる者自らその究極的意思決定に対して 行動を取ろうとする場合には 自らそれを実行するか 又は実行しようと他者へ訴える事の両方がその行動です 必ず本人がそれを実行しなければならないとは限らない それを説く事も又非常に重要である したがって命題に従う事はなんらの変化も伴わない ※では貴方の思考が洗練されるように祈ります
お礼
>必ず本人がそれを実行しなければならないとは限らない >それを説く事も又非常に重要である 哲学がそれを他者に説くのであれば、その説くべきものが何であるのか、哲学自身が答えを持っていなければ説くことはできないのではないか。 哲学はその命題が存在すること、そしてその命題が何なのか示すことではないのか。 でなければ話は始まらない、何も語れない。
- osakajapan2001
- ベストアンサー率16% (236/1442)
お礼を頂きました 有難う御座います この質問が自己の見解の表明や 個人的意見への同意のみを求めるものでははない事を祈っております ご存知の様に西欧では学者は即ち哲学者です いろいろな化学的考察の根本には哲学的命題が常に伴っています 科学の発展はこの哲学的根本命題により方向付けがされているという事実を申し上げています ※回答者を学校の生徒宜しく採点等する輩が居ますが不見識ですからあえて申し上げておきます
お礼
>いろいろな化学的考察の根本には哲学的命題が常に伴っています >科学の発展はこの哲学的根本命題により方向付けがされているという事実を申し上げています 科学的考察の根本に哲学的命題があるのであれば、哲学者が第1に行うべきこととしてはその命題について深く探求しなければならないはずである。 哲学はその命題が何か分かったのかな。 それについて何か答えを導き出したのかな。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
中世以前、宗教が哲学(世界観)であり科学(存在論) でした。 人々の環境に対する認識の深まりにおいて、科学が 独立した知的作業分野となり、次いでその科学の発達 において得られる世界像の深まりにおいて、宗教は 日常の即物的実感から遊離した、独自の世界観となり、 独立したものになったのです。 つまり哲学とは、総体的な世界全般について日常実感 の奥に向かって洞察する事であり、そこの中から特定の 対象についての「洞察」が、たとえば生物は生物学、 化合物は化学、星は天文学といった具合に独立した、 残りが哲学なのです。 (このサイトにもそれぞれの分野に対応したスレッドが ありますので、それに該当する質問をここで行うのは 違反です) この世界を構成する情報は、生物学・化学・物理学と いった具合に分断して存在する訳ではなく、そうして 独立した分野になるのは、それを扱う我々の側の 処理能力の限界によるのです。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
人の道も第26代にして漸く哲学を理解し始めたようだね。 勿論7番が哲学のレゾン・デートルじゃよ。 だって、考えてもごらんよ、哲学とか落語を語っても聴いてくれる人が居らなかったら賃金も貰えへんやろ。 落語家も、哲学者も、話を聞く人(=多分暇を持て余している人)に対して、興味を湧かせ、一時の時間潰しをしたうえ、なにか得るもの(Take Away)を与えにゃあいかんのよ。 7番が出来ている限りにおいて、話題は宇宙の神秘でも、社会の進む方向でも、八っつぁんと熊さんのやり取りでも、何でも選択してよいのです。 個人的には、落語や哲学が自然科学の領域を扱うのは控えた方が無難だと思いますね。 ときどき、自然科学の問いに認知科学の回答をだすような「笑える」落語をしている人がおりますが、自然科学は自然科学に任せて、認知科学や、社会科学、それに八っつぁんと熊さんのやり取りに集中したほうが、ええよ。 最後に、ひとつ問題提起させてもらいたいのです。 国民の血税から給与貰って哲学やっている公務員がおるらしいが、国民の血税から給与貰って落語をやる公務員がおらんのはなぜだろう? ひょっとして血税の使い道を決めるお代官様や偉いお侍さんが、”哲学は民の為になり、落語は民の為にならない”、なんて狭い料簡で公務員を選んでいるんじゃあんめいよな?
お礼
26代目人の道として、ここら辺りで真面目に答えてみたい。 確かに落語としての哲学はあるかも知れない。 そして哲学の現在の状況はまさしくこの落語なのかもしれない。 しかし落語としての哲学以外に、本来の哲学ゆーものがあるんではないのかな。 本来の哲学とは諸学問の水先案内人としての哲学であります。 本来の哲学とは全ての科学や学問の1段上位にあって、それらのあるべき姿を示すもの、言わば学問の舵取り役であり、学問の中の学問なのであります。 例えば、医学を例にすれば現代医学は進歩しているとは言えず、実は間違った方向に進んでいるかもしれないのです。 物理とて同じであって、現代物理学は本来あるべき姿からずれた方向に進んでいるかもしれないのです。 物理学者は物理学を極めるうちに多くの物理現象を支配する一つの哲学を見出すとゆー。 本来の哲学者はそこに注目すべきなのである。 このよーに考えると、文明の質を決めるのは哲学なのであり、本来哲学ほど重要なものはないのであるが長いあいだ認識論とかゆー道草を食っている内にいつの間にか落語になってしまった。 これがこれまで約2千年歩んできた哲学の現状なのではないかな。
- osakajapan2001
- ベストアンサー率16% (236/1442)
設定の中から選択すれば(6)がそれです
お礼
それで哲学は科学の正しい方法論について一体何を語ったのかな。
- cowstep
- ベストアンサー率36% (756/2081)
7番目の「上記した現実の問題には一切関わらず、落語としてエンタテイメントに徹すること」は、面白い発想ですが、哲学と無縁です。 1から6番は、いずれも哲学の対象となります。 哲学とは、一言で言えば、事物の本質を探究することです。7番目も「エンタテインメントのあるべき姿について語ること」に変えれば、それも哲学の対象となります。芸能哲学とでも言うのでしょう。
お礼
>1から6番は、いずれも哲学の対象となります。 では訊ねたい。 哲学は1.社会のあるべき姿について一体何を語ったのか 哲学は2.経済のあるべき姿について一体何を語ったのか 哲学は3.法律や司法のあるべき姿について一体何を語ったのか 哲学は4.国家間の紛争解決や政治のあるべき姿について一体何を語ったのか 哲学は5.医療や生命倫理のあるべき姿について一体何を語ったのか 哲学は6.科学の正しい方法論について一体何を語ったのか これらの事柄について哲学は何か語ったのか。 これらの事柄について哲学は何か答えらしきものを導いたのか。 何も語らず何らの答えも導いていないのではないのか。 この2千年の間ただ単に認識論に漬かっていただけではないのか。
補足
>7番目の「上記した現実の問題には一切関わらず、落語としてエンタテイメントに徹すること」は、面白い発想ですが、哲学と無縁です。 もちろん本当に哲学は落語でよいのかと問うておる訳でありまして・・・
お礼
>だから、キリスト教の信者でない者は >本当の意味で哲学は理解できないと >いう人もいます。 となると、 哲学は目的を失い、行き場を失った迷路のよーなものかな。 あるいは漬かるための道具とか。 哲学を立て直す為には、まずこの辺りから大掃除をせんと。