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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:老子:大道が廃れる前には何があったのか?)

老子: 大道が廃れる前には何があったのか?

このQ&Aのポイント
  • 仁義が説かれるようになる前の時代と社会とはどんなだったのか?
  • 大道が廃れる理由は何だったのか?
  • 無為自然の意味とは何か?日本人の無為自然に対する違和感はなぜあるのか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.16

こんばんは。ANo1です。 質問者さんの、実に柔らかい言葉の使い方に感じ入ります。 目の前の霧が晴れる思いです。 それは、回答者さんの方々にも感じて居ます、傾頭の極みです。 道の言に出づるは、淡乎(たんこ)として其(そ)れ味無し。 (中略)之を持ちうれば既(つ)くす可からず。 ── 道は用いて価値を生ず。 道とは言葉で聞いても淡泊で、味も華やかさもない。 だがこれを用いれば、使っても使っても使いつくせない ような価値があるものだ。(早島天來著 「定本・老子道 徳経の読み方」より) 実践してこそ「道」 『老子』の大切なポイントである「道」TAOについて、 実践してこそわかるものだ、と言っているそうです。 例: 実際に「道」TAOの法則に添って政治を行えば、 人々の生活は安泰になり、皆が幸せになれるし、「道」 TAOに添って日常を過ごせば、夫婦仲もよくなり、 仕事も順調に、人生が楽しくなるのだそうです。 ソコでは、小さな実践で絶大なる効果があるとされて います。 世の中で成功している人たちは、皆、実践力があります。 何かアイデアを考えついたり、ふと思ったことをすぐ実践 出来る人が、仕事ができると言われる人たちです。 そのふと思いついたアイデアというのは、多くは人間がもつ 第六感にふれたものなのだそうです。 実はこの第六感というのは非常に「道」TAOに近いのだ そうです。 家族への一言: たとえば、日曜日も忙しそうに掃除をしている妻に 「いつもありがとう」という一言、毎日遅くまで仕事漬けで 必ず接待で飲んで帰る夫の飲み過ぎを責めるまえに 「毎日大変ですね、ごくろうさま」そんな一言があることで、 家の気の流れも、一瞬にして良くなるのです。 妻はちょっと嬉しい、夫もその優しい言葉にいやされる。 これこそが「道」TAOの実践なのであり、決して相手の ためでなく、自分が「道」TAOの運気にのって幸せに 生かされるための大切なポイントなのだと教えられて 居マス。⇒ライオンは教師です。⇒?チャウ?

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  何かアイデアを考えついたり、ふと思ったことをすぐ実践  出来る人が、仕事ができると言われる人たちです。  そのふと思いついたアイデアというのは、多くは人間がもつ  第六感にふれたものなのだそうです。  実はこの第六感というのは非常に「道」TAOに近いのだ  そうです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そうなんですか。《大道》を 《天 またその意味での 自然》のほうへ持って行って けっきょく《神》のことだという理解をかたちづくろうとしていましたが そして考えてみればそれほど隔たりがあるとも思われないかたちで 〔わたしの言葉では〕ヒラメキなのですね。  なるほど。つまり 神との関係は 信じるという《思考ではない場》で成り立つものゆえ もしその関係がこの現実に現われるとするならそれは インスピレーションとしてであろう。という見方です。  直感ないし直観。  そしてそのように経験的な行為ないし事象にかかわっていたほうが うんと分かりやすいですね。  《元気じるし》といったことを言おうとしているのでしょうかね。  元気じるしと言えば 直前のNo.15のお礼欄に書き込んだ老子の言葉をあらためて掲げます。:  △ (『老子』下篇・第78章) ~~~~~~~~   国の垢(アカ)を受くる、是れを社稷(シャショク)の主と謂い、   国の不祥(フショウ)を受くる、是れを天下の王と謂う。  ▽ (某ブログ)~~~~~~~~~~      http://konton88.exblog.jp/6803414/   福永光司さんの解説では、    「国の汚辱を引き受けるもの、これを国の主といい、     国の不幸を引き受けるもの、これを世界の王者という」    とあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 元気でなければ勤まらないでしょうね。  ちょっと重いですね。何万・何百万のライオンをも引き受けているのでしょうかねぇ。  ★ ~~~~~~~~~~~~  道とは言葉で聞いても淡泊で、味も華やかさもない。  だがこれを用いれば、使っても使っても使いつくせない  ような価値があるものだ。(早島天來著 「定本・老子道  徳経の読み方」より)  ~~~~~~~~~~~~  ☆ あらためて読んだら どうも打ち出の小づちみたいですね。

bragelonne
質問者

補足

 《打ち出の小づち》に一票。  ただし ほかのくだりの老子について 大いに批判するあたらしい質問をさらに挙げました。

その他の回答 (18)

回答No.19

こんにちは。 ☆ アマアガリ・シンドロームの根っ子には 《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓う》その心と意志とがあると見ますが そしてこれは けっきょくは自由意志の問題なのですが そう見る見方でよいでしょうか? ◇理系人的な見方をするならば、 これは本能的なものと考えるべきなのだろう、という気がします。 群れをなす動物には序列がある場合が多く、その群れの中にいるものはできるだけ上の序列になろうとします。 序列上位の方が、繁殖に有利、餌の分け前が多くなるなどのメリットがあるからです。また、序列は群れの中において無用な争いを事前に回避できるという役割もあります。 この序列の上位に立とうとするのは、動物の本能的なものと考えられるので。 これは生得的なものと考えるべきなのでしょう。 そして、 上位に立とうとしないことの方がむしろ自由意志的な行為と考えるべきなのだろう。 ☆そうして 民衆の側からは カウンター・アマアガリ・アクションがあるというわけですか。: ☆アマアガリの逆手を行くわけですね。 ◇これは、「勝てない」と端から諦めているからなんでしょう。 そして、天上がり人とは無関係に、中国ムラの中で新たな階層を作るんじゃないかと。 究極の天上がりシステムである科挙というシステムを生み出した国であり、その根っ子には「アマアガリ・ドリーム」があるんでしょう。 たとえば、明という国家を作った朱元璋のような人間を輩出したりします。朱元璋に至っては、乞食ですからね~。しかも、マニ教徒!! 始皇帝は漢民族ではないし、漢を作った劉邦はどこの馬の骨ともしれない卑しい身分出身。唐を作った人もどうやら異民族出身。中国最後の大清帝国は、満州族。 そして、ひとたび天上がると、賎民出身であろうが異民族出身であろうが、中韓限定のアマアガリ語を喋るようになる。その論理にしたがう。 しかし、このアマアガリ語は、中韓のみで通用する極めて特殊な方言であることは留意すべきなのでしょう。世界全国で通用するという意味での普遍語にはなっていない。 その理論を構成する仮定や公理が他の社会と大きく異なっているからです。 したがって、得られる結論も違ったものになってしまう。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  理系人的な見方をするならば、  これは本能的なものと考えるべきなのだろう、という気がします。  群れをなす動物には序列がある場合が多く、その群れの中にいるものはできるだけ上の序列になろうとします。  序列上位の方が、繁殖に有利、餌の分け前が多くなるなどのメリットがあるからです。また、序列は群れの中において無用な争いを事前に回避できるという役割もあります。  この序列の上位に立とうとするのは、動物の本能的なものと考えられるので。  これは生得的なものと考えるべきなのでしょう。  そして、  上位に立とうとしないことの方がむしろ自由意志的な行為と考えるべきなのだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご回答には 不満があります。  ひと言で言えば このアマアガリ症候群によるなら おそらく二階に上がるのではなく せいぜい中二階までではないかと考えられるからです。  一階つまりまだ平屋建ての家の中で その大きな屋根の下で互いに徒競走をしているというようなイメージに映ります。逃げるの反対ですが おれは五十歩すすんだ いやおれは百歩だというような競争であるように受け取られます。  ◇ 序列の上位に立とうとするのは、動物の本能的なものと考えられる  ☆ と規定するかぎりでは アマテラス普遍語に達していないと見られるのです。  あるいはもしこの一等賞ねらいの競争によるとすれば――おそらく水平のヨコの関係だと見られると同時に―― その上位つまり第一位つまり優勝者は つねに次から次へあたらしいチャンピオンが出て来ると考えられるからです。    言いかえると 疑似アマアガリ競争のばあいには 無為自然に親しむスサノヲ市民らが社会の土台を築いていて その中で・その上で 出しゃばり班の何人かが先頭を走りたいと言って競っているというようなイメージです。  そうではなく お山の大将は ともかくもいちばん高いところに上がろうとするはずです。  そうしてこれが 腕力や武力によるとすれば これもまた――二階が出来ているかも知れないとしても―― 次から次へと新しいチャンピオンが現われて来て 必ずしも支配的な思潮をかたちづくることはないのではないかと考えられます。  つまり 《市民 - 公民》の二階建てに成る必要があるでしょうし それには 王化の徳が必要になります。物理的なチカラを背景にするようになるはずですが 主要なチカラは むしろ――マガイモノであったとしても――《徳》なのです。  それゆえ アマアガリ・シンドロームの場合には ひとは成るべく人間性を磨きます。せいぜい人間的になり いよいよ人間的になり もうこれ以上は人間的には成れないというほどのところで げっそりするはずです。なぜなら 周りの人びとは そのような《徳》には関心がないからです。五十歩百歩であり どんぐりの背比べであると知っていて その相対性ないし移ろいやすさのほうに足を降ろしているからです。  それでも アマアガリ志向は止まず むしろ市民たちに どうしても世の中の経営をわたしにまかせてくれと 拝み倒すのではないかと考えられます。選挙のとき〔だけ〕には 土下座をも辞さないその姿勢です。また それゆえ スサノヲシャフト( das Susanowoschaft )は とうとう根負けして そのアマアガリびとたちに アマテラストゥーム( das Amaterasutum )なるお二階を用意してやった。のだと考えられます。  のちには アマテラシテ( das Amterasität )なる権威の象徴をもこしらえました。  これは 《本能的な序列競争》とは 質がちがう。と率直に思うのです。  ◇ たとえば、明という国家を作った朱元璋のような人間を輩出したりします。朱元璋に至っては、乞食ですからね~。しかも、マニ教徒!!  ☆ へええ。それは 知らなかった。つまり 科挙は確かに民主的な試験制度であるとか言いますね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そして、ひとたび天上がると、賎民出身であろうが異民族出身であろうが、中韓限定のアマアガリ語を喋るようになる。その論理にしたがう。  しかし、このアマアガリ語は、中韓のみで通用する極めて特殊な方言であることは留意すべきなのでしょう。世界全国で通用するという意味での普遍語にはなっていない。  その理論を構成する仮定や公理が他の社会と大きく異なっているからです。  したがって、得られる結論も違ったものになってしまう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これはこれで 研究の主題にすらなり得ますね。こんなことを研究するのは ある意味で後ろ向きのものであって 周回遅れのランナーと一緒に走るようなものですが まぁ 地球市民としては やむを得ない。のでしょうか。  この後半の分析・検証には 賛同します。前半の《アマアガリ・シンドローム》ないし《アマテラス族の輩出とは何か?》については 述べましたように考えています。  空中の権能として むしろその身は空気のようになるといった議論を読んだことがあります。文字通り 空気のように軽い身体になるだとか。さわると ふんわりしているのだとか。女優が どうもそういう状態になるのではないかと 推測したことがあります。――まだ定まらない議論です。

回答No.18

お早うございます。 打ち出の小づち!言い得て妙。OK相談そのものですね。 結語: ご質問の、あ~お、では無意と自然に抗わずその趣く 処のままに生きる⇒処に大道が有り、趣くままと 無意を分けずに理解をしたつもりが原点の家庭を 崩壊させてしまった。 と云う、はなはだワタシ用に理解したつもりの哲学が 忽然と現われました。⇒で、回答にならない?のです。 大変に失礼を致しました、また機会が有りましたら 御付き合いを願います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうでしたか。苦い思い出をお持ちなのですね。  ここでもあくまで《無意》ですか。《無為》よりは 意味のない・意図のないかたちなのでしょうか。  ひとつ思ったのは:  ★ 自然に抗わず  ☆ というのは あんがい自分の心つもりを持ってこそ《自然に抗わない》態度を採る場合もあるのではないか。です。  わたしなぞは 人前に出るのが苦手で 批判の眼は持って見ているのですけれど やはり人前に出ないのがわたしの自然です。それでも この自然にあらがわないでいることは そうする意志を強く持ってでなければ出来ないという切羽詰った情況に出会う場合もあります。  自然に抗わずしたがう場合も 自然に抗って人為的行為を起こす場合も あります。後者は 意志と意図が明確にあります。前者は 意識せずにふるまう場合と そしてやはり意志と意図を持ってそうする場合とがあるように思いました。  相手のある場合には 何なりと考えるところに従ってハカラヒのあることはまぬかれないのではないか。とも思いました。  ★ 無意と自然に抗わずその趣く処のままに生きる⇒処に大道が有り  ☆ 何だか ステルス型無為自然のようですね。  たのしいやり取りのご回答をありがとうございました。  おつかれさまでした。またの機会にて。

  • kurinal
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回答No.17

やったもん勝ち

回答No.15

☆ もしそうだとすると その《鼓腹撃壌》の牧歌的な・無為自然をともに生きる人びとの社会の中から どうして《仁や義、礼などといった〈お二階さん〉の論理》が現われたのか? という問いに移行するように思われます。 ◇中国には、尭や舜という伝説上の帝がおりまして、 その頃には仁や義、礼や孝というものはなかった、 あったかもしれないけれど、重要視されていなかった、 ということを言いたいのでしょう。 それでも、それだからこそ、世の中はよく治まっていた。 そして、仁や義などと声高に叫ぶような人間が出てきて、これを破るような人間が多数出てきた。世が乱れるようになった…。 法律を定めれば、その法律の盲点や穴、抜け穴をつくような人間が出てくる…。 老子的なロジックなので、このあたりは何とも…。 ☆ 無為自然が人間社会の初めに 生きられていたところと そうではなく初めからなかったところと ふたつに分かれるとすれば それは どうしてか? です。 ◇昔は生きられていた。 このあたりは、伝説の類なんで…。 リンゴを食べる前のアダムとイブの話と大差ないのでしょう。 ☆☆ そうしますと 先ほどの《仁義などのもっぱらのアマテラス語論理》が思惟として現われたのは 《さかしら》なる理性からだということでしょうか? ◇実際は、下から起こったのでしょう。 《天上がり人》の論理。 しかも、これは普遍原理のようなものではなく、中国的な《宗族》論理に基づくものに過ぎない。 天上がる場合には、この論理は足枷になりますが、天上がってしまえば、統治の原理としては非常に強力なものになりうる。 主従関係は絶対的なものなので。 しかし、中国には、支配される側の国民は、法を守るという遵法精神が基本的に欠如している。 中国人にとって、法は破るためにあるんですよ。 法の抜け穴を一生懸命探る、それについて考える。そして、これを商売にする(笑い)。 圧倒的多数の民衆には、また違った理性的原理が存在するのでしょう。 そして、この違った理性的原理は、他の社会のそれと大きく異なっている気がします。 ☆ やましさ反応を得て おのが心に逆らわない自然か それとも逆らう作為としての賢しらか。これが けっきょく――どういうわけか 自然史的過程として――出て来た。のでしょうか。 ◇中国社会で生まれ育つと、このやましさ反応が失われるのかもしれないです。 民族として考えた場合、そんなものは、最初から無いのかもしれないですね。 中韓の人々は「私が想定する人間」の範囲を大きく逸脱しているので、分かりません。 ~~~~~~    ゴータマ・ブッダの――可能性としての――     無梵無我一如  であるようです。《無梵》が 《無始》あるいは《大始》です。想定による規定としては 《アルケー》のことになります。要するに 《無い神》としての神です。 ~~~~~~ そして、ラッキョウの皮剥きになるという同じ構造を有しています。 永遠にこの皮剥きをしなければならない(ポリポリ)。 坐忘でいえば、忘れるということも忘れないといけなくなるので。そして、それも忘れないといけない…。 こうしたエンドレスの構造を持っています。 使っているのが《アキレスと亀》と同じ論理なので、 アキレスは永遠に亀に追いつけない(?)みたいな話になってしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 ここはげんみつに細かく行きます。そしてまづは ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  ・・・世の中はよく治まっていた。  そして、仁や義などと声高に叫ぶような人間が出てきて、これを破るような人間が多数出てきた。世が乱れるようになった…。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 世の中は 文句なく太平であった。すなわち 無為自然なる生き方が 基本として成り立っていた。そのとき 内からであれ外からであれ これを乱す動きが出て来たという。果たして どうしてなのか?  あるいはつまり 乱す動きが出て来てもよいはずです。その乱れを 大きく世の中の太平が包んでその《大道からの脱線》を軌道修正してくれるはずだからです。  なぜ 無為自然なる――いい意味での――クウキの中から これをゆがませるようなウゴキが出て来るのか? です。  それとも 大道が有効であって人びとが無為自然を生きているというその世の中は じつは 過半数にも満たないというような情況なのでしょうか? それゆえ 乱れは 容易に起こされてしまうのだと。ということでしょうか?  ◇ 法律を定めれば、その法律の盲点や穴、抜け穴をつくような人間が出てくる…。  ☆ これは すでに大道が弱くなって サカシラが勝ち始めている情況において現われるものでしょうね。  そのウゴキは アマアガリ・シンドロームだそうですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  実際は、下から起こったのでしょう。  《天上がり人》の論理。  しかも、これは普遍原理のようなものではなく、中国的な《宗族》論理に基づくものに過ぎない。  天上がる場合には、この論理は足枷になりますが、天上がってしまえば、統治の原理としては非常に強力なものになりうる。  主従関係は絶対的なものなので。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 要するに《大道》をないがしろにし 《自然》に反することをもくろみ 《無為》から逸脱する。というわけですね。  だとすると どうなりますか?  アマアガリ・シンドロームの根っ子には 《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓う》その心と意志とがあると見ますが そしてこれは けっきょくは自由意志の問題なのですが そう見る見方でよいでしょうか?  そうして 民衆の側からは カウンター・アマアガリ・アクションがあるというわけですか。:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、中国には、支配される側の国民は、法を守るという遵法精神が基本的に欠如している。  中国人にとって、法は破るためにあるんですよ。  法の抜け穴を一生懸命探る、それについて考える。そして、これを商売にする(笑い)。  圧倒的多数の民衆には、また違った理性的原理が存在するのでしょう。  そして、この違った理性的原理は、他の社会のそれと大きく異なっている気がします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アマテラス普遍語のほころびを見つけ これを縫い直すのではなく そこに穴ぼこをこしらえ これを利用して利益をつくり出すことに励む。ですか。スサノヲ市民らがおこなうのですね。  アマアガリの逆手を行くわけですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ やましさ反応を得て おのが心に逆らわない自然か それとも逆らう作為としての賢しらか。これが けっきょく――どういうわけか 自然史的過程として――出て来た。のでしょうか。   ◇ 中国社会で生まれ育つと、このやましさ反応が失われるのかもしれないです。   民族として考えた場合、そんなものは、最初から無いのかもしれないですね。   中韓の人々は「私が想定する人間」の範囲を大きく逸脱しているので、分かりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。香港問題は すべからく内政に属すのであり 言論・報道の自由は アマアガリを達成した人間にはその統治の自由の前に塵埃であるに過ぎない。・・・  アマテラス普遍語とは 独裁者のしゃべる言葉のことだ。・・・  アマテラストゥームに君臨するわが雄姿を見たまえ。・・・  老子がいくら次のように声を挙げて叫んでも われは その反対の道を行くのみぢゃ。・・・と。  △ (『老子』下篇・第78章) ~~~~~~~~   国の垢(アカ)を受くる、是れを社稷(シャショク)の主と謂い、   国の不祥(フショウ)を受くる、是れを天下の王と謂う。  ▽ (某ブログ)~~~~~~~~~~      http://konton88.exblog.jp/6803414/   福永光司さんの解説では、    「国の汚辱を引き受けるもの、これを国の主といい、     国の不幸を引き受けるもの、これを世界の王者という」    とあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ こうしたエンドレスの構造を持っています。  ☆ ではなく 悪無限に落ち入ることなく そうではなく 《非知》のナゾに到るはずなんですがねぇ。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.14

Bragelonneさんへ  突っ込みに対する追伸まで: 孔子の教えは、地上における自由意思の完成形であることはご指摘のとおりです。孔子は自由意思と営みの最高の有り様を説いた偉大な教師であったことは誰もが認めるところです。「心の欲する所に従えども矩を踰えず」は教育者としての最高の教えでしょう。 老子は教育者ではありません。実践者ですからむずかしいことは言わなかっただけと思います。 これは次のような考えかと思います。ひとりひとりに真っ白な服を与えてもらったが、あくせくしている間に汚れてしまったのだ。それをあくせくしながら、日々洗って元の白にしろと教える(釈尊)。あるいは、汚さないようにあくせくしろと教える(孔子)。あくせくするから汚れるんだ。あくせくせずにいれば白い服のままである(老子)。 老子の考えは、あくせくせず白い服を汚さないように生きる道、それが老子の無為自然の道なんでしょうね。孔子の教えのように矩を踰えれば白い服が汚れますから、老子の無為自然はあくせくせず、矩を踰えないんでしょうね。これは孔子の対極の考えになっているのではないかと思います。教師が教えるべき道ではありませんね。このように3通りの道があることはご察しのとおりです。 凡人が実践できる道は、あくせくしながら汚れは日々洗うという仏道かと思いますが、いろんな道はあるということかと思います。 尚、ここでの比喩、白い服とは個々の神性、仏性のことです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「心の欲する所に従えども矩を踰えず」は教育者としての最高の教えでしょう。  ☆ そうなんですか。わたしは あまり信用していませんでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  凡人が実践できる道は、あくせくしながら汚れは日々洗うという仏道かと思いますが、いろんな道はあるということかと思います。  尚、ここでの比喩、白い服とは個々の神性、仏性のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふむふむ。おもしろい。のですが たぶん実行はむつかしいかとも感じられます。  つまりは  ★ あるいは、汚さないようにあくせくしろと教える(孔子)。あくせくするから汚れるんだ。あくせくせずにいれば白い服のままである(老子)。  ☆ となりますか。  あっ。ひとつ ここに聖書の行き方を導入してみましょうか。  ▼ (アウグスティヌス:ユリアヌス駁論 1・5〔情欲論〕) ~~~   かの全能者は    最初の人(アダムとエワ)からであれ    その後に加えられたわたしたちの意志からであれ    わたしたちに起こっている悪を   その満ちあふれる恩恵によって   滅ぼしている。   ( cf. エペソ書 2:1-10)  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ いやでも応でも ひとは 白くならしめられる。とか。  ありがとうございました。

回答No.13

こんばんはです。 これは《Tao》イズムというよりは、《気》の思想なんでしょうね。 老荘思想も、中国の《気》をバックボーンとしている。 松岡正剛 千夜千冊 『気の思想』 http://1000ya.isis.ne.jp/1443.html の書評などは、《気》を分かりやすく解説していると思います。 ここでは、「エネルギーの流動体」と書かれているので、 であるとするならば、バラモン・ヒンズー教の《シャクティ》に近いものになりますね。 シヴァ神はこの《シャクティ》の神格化とも考えられるので、 《シヴァ・ダンス》というのは、それ程、的外れなものではない。 最近では、「エネルギーの流動体」ではなく、 「気は素粒子的なもの」と考える説が有力のようですね。 私も、「気は、たぶん、そのようなものと想定されていたんだろう」と思います。 ただ、こうした中国の「気の思想」が現代物理学の考え方と一致するのかといえば、かなり疑わしいですね。 この両者を結びつけるのは「似非科学」と言わざるを得ないでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 解説をありがとうございます。  さほどのものではない。と 生徒が勝手に判断したわけですが 受け留めました。  ・ 気の問題  ・ 身体における血の流れでしょうか。  ・ だとすると ヨーガや ブラフマ二ズム・ヒンドゥーイズムにもかかわっている。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  最近では、「エネルギーの流動体」ではなく、  「気は素粒子的なもの」と考える説が有力のようですね。  私も、「気は、たぶん、そのようなものと想定されていたんだろう」と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ とおさえておきまして。  あるいは広げるなら 神があって その周りに天使なり何なりの属性的なハタラキが措定されたときに 《気》としてもその作用があるかに見られて来ます。  《空中の権能》という概念を最近問い求めたのですが これに《よい権能とわるい権能》とがある。というような解釈としても 気を捉えました。

回答No.12

こんにちは。 ☆(あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか? ◇第八十章の《小国寡民》のような牧歌的な《ムラ》社会ということになるのではないでしょうか。 あるいは、 《鼓腹撃壌》的なのどかな《ムラ》社会。 ☆ (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか? ◇仁や義、礼などといった《お二階さん》の論理を、牧歌的で平和な《ムラ》社会に持ち込み、それを押し付けたから、 となるのでしょう。 ☆(う) 無為自然とは どういうことか? ◇一言でいえば、「《賢しら》を捨てろ!!」となるのでしょうね。 『老子』第三章には 「賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。 ・・・ 無為を為せば、すなわち治まざること無し」 とありますので。 第六十三章には 「無為を為し、無事を事とし、無味を味わい、大ならんとすれば小に、他にならんとすれば少に、怨みに報いるに徳を以ってす。」 とも書いております。 ここの「無為を為す」は「不自然なことを何もしない」という意味らしいですね。 ☆けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか? ◇《道》は《アルケー》ではあるのでしょうね。 一応、《道》は万物に先立って存在していたとされていますけれど、 老子的な論理に従うならば《無始》になるんでしょうね。 老子ならば《無始》ではなく《大始》というかもしれませんけれども。 この「大」は「偉大」の意味ではないですよ。 有限の否定としての《大》の意味です。 ではでは。

bragelonne
質問者

お礼

 お礼欄より先に 引用によって 物理学とタオイズムとのかかわりについて問うことが出来ればと思います。さっぱり分かりませんので よろしくお願いします。      *  ▽ (矢代梓: カプラ:『タオ自然学』) ~~~~~~~~  『タオ自然学』(1975)は冒頭の《コズミック・ダンスへの招待――前がきに代えて》で美しく叙述されているように カプラ(1939ヰーン- / カリフォルニア大学・高エネルギー物理学者)自身の晩夏の海辺での体験から生まれたものだ。  その体験とは神秘主義的な直観ともいえよう。彼は夏も終わりに近いある午後 海辺に腰をおろして寄せてくる波を見つめている時に 自分をとりまくすべてのものが壮大なコズミック・ダンスを舞っているのを観た。それは外的世界ばかりか 自分の体の原子までもがエネルギーのコズミック・ダンスを踊っているのを感じ その音までも聴こえてきた。そして その時 カプラはこのダンスがヒンドゥー教徒の崇拝するダンス神シヴァのダンスであることを識った。  この外的世界と内的世界の神秘的一致の心像から『タオ自然学』は生まれた。この体験に先立つ数年間 カプラは高エネルギー物理学の研究活動と東洋の神秘主義的な教えに心惹かれる自分の思惟との間の内面的矛盾に悩んでいた。『タオ自然学』はこの両者のギャップを克服するための書だったのである。  『タオ自然学』をひもとけば分かるように この本は素粒子の相互作用 つまり高エネルギー物理学における素粒子の衝突過程に起こる様々な粒子の生成・消滅の状況が精細に紹介されている。こうした静かなるエネルギーの滝(カスケード)は 宇宙線の観測において捕捉されるものだが 現在では地上でも高エネルギー研究所で実験的に再現可能になってきた。  カプラはこうした実験で明らかになった知見をまとめつつ これらの事実が西欧物理学の支配的な見解である基本的構成要素の存在に対する不可疑な確信を根底的に揺るがすものをもつことを主張する。運動エネルギーと質量は交換可能であり 粒子は物体でなく過程なのであり 宇宙の全事象はことごとくたがいの自己調和によって決定される。この視点が東洋神秘思想の強調する全現象の合一性と相互関連性とにきわめて近い考えであることは明瞭である。  カプラは老子の一節:    人は地を規範とし   地は天を規範とし   天はタオを規範とし   タオは自然を規範とする  を引用している。現代物理学の最前線の研究がタオイズムの教義と共鳴している事実は この引用句でもはっきりと示されているといえるだろう。  (矢代梓:タオ  in 今村仁司編:『現代思想を読む事典』 1988 pp.411-412)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どの程度の現実性を持つものなのでしょう?   《コズミック・ダンス》では ちょっと困るような感じなのですが?  多少とも首を突っ込んで疑問に思うのは 最後のほうの次の箇所です。:  ▽ 宇宙の全事象はことごとくたがいの自己調和によって決定される。  ☆ 事象の自己調和といったことがあるのでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 こんにちは。  お礼欄と補足欄とをまちがえました。  (あ)  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  第八十章の《小国寡民》のような牧歌的な《ムラ》社会ということになるのではないでしょうか。  あるいは、  《鼓腹撃壌》的なのどかな《ムラ》社会。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ オーソドックスには そうなるのでしょうか。  鼓腹撃壌につきましては No.9のお礼欄にヰキぺからの解説を掲げました。  (い) ・・・どうしてその大道が廃れたのか?  ◇ 仁や義、礼などといった《お二階さん》の論理を、牧歌的で平和な《ムラ》社会に持ち込み、それを押し付けたから、 / となるのでしょう。  ☆ ううーむ。そうですね。ううーむ。  もしそうだとすると その《鼓腹撃壌》の牧歌的な・無為自然をともに生きる人びとの社会の中から どうして《仁や義、礼などといった〈お二階さん〉の論理》が現われたのか? という問いに移行するように思われます。  外から入って来たとしても ではその外の世界というのは 《大道の生きられていた世界》はなかったのか? と問われて来ます。  無為自然が人間社会の初めに 生きられていたところと そうではなく初めからなかったところと ふたつに分かれるとすれば それは どうしてか? です。  ☆(う) 無為自然とは どういうことか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一言でいえば、「《賢しら》を捨てろ!!」となるのでしょうね。  『老子』第三章には  「賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。  ・・・  無為を為せば、すなわち治まざること無し」  とありますので。  第六十三章には  「無為を為し、無事を事とし、無味を味わい、大ならんとすれば小に、他にならんとすれば少に、怨みに報いるに徳を以ってす。」  とも書いております。  ここの「無為を為す」は「不自然なことを何もしない」という意味らしいですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうしますと 先ほどの《仁義などのもっぱらのアマテラス語論理》が思惟として現われたのは 《さかしら》なる理性からだということでしょうか?  ただし 無為自然のままに生きていた人の頭の中にも このさかしらが――外からだけではなく――みづからの心と意志としても現われた。とも考えられます。ということは おそらく 自由意志の問題であるかと思われます。  やましさ反応を得て おのが心に逆らわない自然か それとも逆らう作為としての賢しらか。これが けっきょく――どういうわけか 自然史的過程として――出て来た。のでしょうか。  ▽ 無為を為せば、すなわち治まざること無し」  ◇ ここの「無為を為す」は「不自然なことを何もしない」という意味らしいですね。  ☆ このあたりが こまかく見て問題点になるかと考えます。  もし仮りに《無為を為す = 不自然なことを何もしない》という行為および状態が実現したとする場合 それでもその《自然・不自然》は 誰が判断するのか? が問われるでしょうから。  その人の主観によることは ほとんど決まっていますが その物指しが 普遍性を持つかどうか? といった疑問がなおつねに付きまといます。  (宣伝:だからしも ハカラヒ無きという命題から 非知の場へと人はみちびかれる。ものと考えています。これの先鞭をつけたのは 親鸞であるのだと)。(あるいはさらに 細かく具体的には やましさ反応の問題であるとなるかも知れません)。  あるいはつまり  ▽ ~~~~~~~~~~~  第六十三章には  「無為を為し、無事を事とし、無味を味わい、大ならんとすれば小に、他にならんとすれば少に、怨みに報いるに徳を以ってす。」  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだと けっきょくやはり《賢しら》に成りがちな理性による判定が 《大小や 怨みと徳》についてつねに必要になっている。と考えられるからです。    経験思想や倫理学だけでは 埒が開かないのではないかとおそれます。《非知》のナゾに持って行くのが いちばん手っ取り早く・ずるがしこい方法であり しかもおそらく誰からも咎めや批判は出て来ないように思われます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか?   ◇ 《道》は《アルケー》ではあるのでしょうね。  一応、《道》は万物に先立って存在していたとされていますけれど、  老子的な論理に従うならば《無始》になるんでしょうね。  老子ならば《無始》ではなく《大始》というかもしれませんけれども。  この「大」は「偉大」の意味ではないですよ。  有限の否定としての《大》の意味です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように伺ってくれば 思い浮かぶのは ただひとつ。    ゴータマ・ブッダの――可能性としての――     無梵無我一如  であるようです。《無梵》が 《無始》あるいは《大始》です。想定による規定としては 《アルケー》のことになります。要するに 《無い神》としての神です。    それが そのまま《大道》にもなるかも知れません。  そして人間の側は 《無為自然》となるのでしょう。無我ないし霊我(アートマン)というよりは 多少ともそこから導き出される思考にかかわっているかも分かりません。《無為》は それでも 意志行為の次元でも問われるようですから。  《自然》が ひょっとしたら 《無梵》なるブラフマン神に相応しているのでしょうか? 無為なる意志行為の次元にも 自然なる人為として言われていると同時に 非知なる次元としても言われているのかも知れません。《天》という概念もあるようですね。  そうしてここで問題は シントウでは このアルケーを立てないということです。  親鸞では アミターバ・ブッダとしてこのアルケーをひとまづ立てて――しかも そのアミターバの四十八願・なかんづく第十八願をいちおう議論し その議論は理論としておさえた上で それとは別に――つまりこのようなアルケー論から一歩引いた地点に立って その非知のナゾの中にわが身をつまり実存を うんうんと推してあゆむ。  こういったカラクリのごとき信の構造があるかと考えます。  シントウならびに親鸞に その思想の独自性は みとめられ得ましょうか どうでしょうか?

回答No.11

こんにちは、ANo1です。 > ☆☆ ひとつだけ、けんかはしかったのか? ↑ 口論は良くします、相手は主に手近な妻です。 ソコでは、野生のライオンを目の前にした時の様に対応して 居ます、(妻は人間です、ライオンでは有りません。比喩です) 親しげに、造り笑顔で近ずき、頭を撫ぜたりしたら 命が幾つ有っても足りません⇒命の尊さを感じさせてくださる。 これと同じで、どの様な牙を持つのか解らない相手とは殴り合い には至りません。 負けても勝っても後味が悪いのではないのか?とか 諍い相手とは手が出せない距離感を保つので絶対に胸倉を と掴ませないとかを、他人の諍いを見ていて参考にさせて もらって生きて、無事です。⇒無為無策⇒野生の証明? ひょっとしたらワタシは、まともな人間では無いのかも?

bragelonne
質問者

お礼

 自分で振っておいて言うのも おかしなものですが あまりいいフリではなかったみたいですね。  ご回答をありがとうございます。  ★ ソコでは、野生のライオンを目の前にした時の様に対応して / 居ます、(妻は人間です、ライオンでは有りません。比喩です)  ☆ そうですか。 そのようなことをそのまま 互いに言い合えるなら けんかを卒業しておられる。のではないでしょうか。(わたしは 配偶者がいませんので 推測による話ではありますが)。  老子は どうだったか。などというエピソードまがいの話があるかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  負けても勝っても後味が悪いのではないのか?とか  諍い相手とは手が出せない距離感を保つので絶対に胸倉を  と掴ませないとかを、他人の諍いを見ていて参考にさせて  もらって生きて、無事です。⇒無為無策⇒野生の証明?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ずばり 相手が《変質》するようになると おもしろいですよ。けんかにかんしては。  そういう意味での《野生の証明》はあり得るのではないでしょうか。  仲介を 見返り無しで 買ってでもおこなう人もいますし さまざまなようでもあります。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.10

やれやれ・・・ 君も遂に堕ちたかw 哲学を標榜しながら、其の実は唯の自己実現の為のお遊戯。 反証出来ないから無視かい? でかい口を利く位なら、証明しなきゃwww 私は遠慮無く抉るよ?

  • umasimaji
  • ベストアンサー率30% (6/20)
回答No.9

(あ) 堯、舜の統治時代のこと。 (い) 人為が働いたため。 (う) 人為でないこと。 (え) 中心は中華思想。反語を反復する単なる修辞の問題であり、ひくというのは見当違い。 (お) あはれは禅に通じ、禅と無為もまた通ず。違和感なし。ここでいきなり神道と比較するのも唐突すぎて理解不能。

bragelonne
質問者

お礼

  なるほど。まづは うましくにさんぢゃなかった うましまじさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか?  ★ 堯、舜の統治時代のこと。  ☆ ごもっとも。と受け取らざるを得ないのですが どうなんですかねぇ。  お決まりの伝承を確認します。:  ▼ (ヰキぺ:堯) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF  § 鼓腹撃壌  堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。   原文       書き下し文       ___________________   日出而作     日出でて作し、      日入而息     日入りて息ふ。       鑿井而飲     井を鑿ちて飲み、      耕田而食     田を耕して食らふ。     帝力何有於我哉  帝力何ぞ我に有らんや。   現代語訳   ___________   日の出と共に働きに出て、   日の入と共に休みに帰る。   水を飲みたければ井戸を掘って飲み、   飯を食いたければ田畑を耕して食う。   帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。    この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりたとえば:  ▼ 治世中に大洪水が発生したので、この治水工事に誰を送るかを決める時に臣下は鯀を推薦した。堯は鯀を採用するのは良くないと思ったが、臣下が試しに使ってみれば良いと言ったので試して見たが、堯の予想通り失敗し、堯は鯀を殺した。治水工事は鯀の息子の禹が後に実行する事になる。  ☆ といった事態も 《大道》なる行き方の範囲内なのでしょうかねぇ。人殺しがあったからそのまま一概に悪いとは決められないとは考えます。  (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか?  ★ 人為が働いたため。  ☆ これは 無為自然という命題があって それに照らせば そういう答えになり それは正解だとなるようなのですが どうでしょうか。  つまり 《人為 または 自由意志の行使》については けっきょく二種類もしくは三種類に分かれると考えられるのです。  ちょうど直前の mmky さんとのやり取りで出て来た議論ですが:   1. あたかも神の声にそのまま従う場合 そこで自由意志は潜在しているのみである。     2. すでに神の心に逆らっておのれの自由意志を発揮する場合。人間は 感性をもともないつつ 思考を成す。   3. 神は人間の自由意志についてすでに織り込み済みであったのであって あとは神にさらかうその自由度であっても この人間の自由意志というものを神はかえって建てるのだという捉え方をする場合。    自由意志にしたがって自己表現をしていつつ しかも神の意志に――あるいはそれが 《大道=無為自然》なのだろうか?――合っているという場合を想定している。    (う) 無為自然とは どういうことか?  ★ 人為でないこと。  ☆ したがって ここは さらなるくわしい理論化がのぞまれるかに思われます。  (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか?  ★ 中心は中華思想。反語を反復する単なる修辞の問題であり、ひくというのは見当違い。  ☆ うっ? 《中華思想》と言うのならば 総じて言って 《上から目線》が特徴ですよね。  ★ 反語を反復する単なる修辞の問題であり、ひくというのは見当違い。  ☆ よく分からないのですが けっきょく老子が言っていることは 歴史的にして実はその時代の現実情況について おもしろおかしく評論をおこなっているのみ。ということでしょうか?  時論として ひとつの見方を成すけれども だから そこからどうしよう・こうしようといった議論には成らない。のが ふつうだ。そういうたぐいの思想なんだ。――でしょうか?  (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?  ★ あはれは禅に通じ、禅と無為もまた通ず。違和感なし。ここでいきなり神道と比較するのも唐突すぎて理解不能。  ☆ うっ?   いえ。シントウと もののあはれとは 同じ思想(生活態度)ですよ?  たぶん《無為自然》とは何か? これを明らかにしないと議論が渋滞を起こすかも知れません。  取りあえずこのようにおさめました。  ありがとうございました。

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