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日本の東洋哲学、宗教の必要な変化

神道、仏教他儒学など、東洋哲学、宗教が日本史にありますね。 仏教は日本の仏教化して、儒学道教も変化などしつつはいってきてます。 近代にはいっての最近は西洋が世界の中心で、やはり変化がとわれるように思えます。 かつて、中国で仏教が伝来して、もともとあったものに影響したように。 そうやって精神性を与えてきたと思いますが、以前のままだと時代に合わないものもふえて、道徳や精神、倫理など落ちるかと思います。軽く見られて無視されたり。 どの部分とかわかりませんが、西洋のインパクトがあるなか、どのように変化がとわれるのでしょう?

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>儒学道教も変化などしつつはいってきてます。 変化「しつつ」はいってきたのではありません。 入ってきたものを日本的に解釈したり取捨選択をしたということです。 中国古来の儒教は祖霊崇拝を基本とするいわば宗教です。 日本ではこれをこのままでは受け入れませんでした。 祖霊崇拝の部分は仏教に任せ、社会道徳や箴言の部分だけを取り入れて儒学としていました。 結果として、中国では「孝」が優先されますが、日本では「忠」が優先されました。 道教は仏教が広がるさいに部分的に取り入れられました。 修験道と呼ばれるものがありますが、古来の山岳信仰に仏教と道教の考え方が取り入れられたものです。 道教をそっくり取り入れたものではありません。 卜占に使われる陰陽思想はそのまま受け入れられました。 >最近は西洋が世界の中心で、やはり変化がとわれるように思えます。 「とわれる」とは誰が誰に何を問うとお考えでしょうか。 >中国で仏教が伝来して、もともとあったものに影響したように。 影響したとすれば、室町時代に吉田神道と呼ばれるものが生まれたさいに仏教に倣って体系化したことがあります。 神道という言葉はそれよりも以前にありましたが、体系化されていませんでした。 むしろ仏教側が日本古来の神を取り入れました。(本地垂迹) >道徳や精神、倫理など落ちるかと思います。軽く見られて無視されたり。 「落ちる」と言われておられる意味が良くわかりませんが、時代にそぐわなくなって形骸化したということでしょうか。 多用揚げ足取りのような記載になりましたが、ご質問の趣旨は旧来の、勤勉・倹約・謙譲・孝行・忍従・正直・献身・敬虔・早起き・粗食・孝・忠・孝養・親愛・和合・信頼・恭倹・博愛、などの世俗道徳に西洋の価値観がどのような影響を及ぼし、変化させてきているのか、更にその変化に応じて新たな世俗道徳を確立する必要があるのではないのか、ということでしょうか。 自由という考え方が一つ挙げられます。 自由という言葉自体は古くからありましたが、余り良い意味の言葉ではありませんでした。 英語のfreedom、libertyを翻訳する際に当てはめられて現在のニアンスで使われるようになりました。 元来キリスト教圏での概念ですので、キリスト教の裏付けがありました。 日本ではキリスト教の裏付けがないまま使われたことから、自由の尊重とは、我儘勝手、気まま、規律に従わないということが許されることだ、という部分が入り込んできてしまっています。 キリスト教では個人個人が神と契約しています。 この個人どうしの自由であり平等、博愛です。 厳然として神との契約という概念が残っていて社会倫理を支えています。 個人の「個」という考え方も影響しているかと思います。 「個」の尊重という考え方の延長線上で「家」という考え方にも影響を及ぼし、夫婦別称問題などが生じています。 「家」という考え方は日本独特の考え方です。 儒教を基本とする中国や韓国では血族のみを意味していますが、日本は血族に拘りません。 中国や韓国では結婚した女性は血族外の人間ですから夫の血族とは別に自分の出身血族の苗字を名乗ります。 つまり夫婦別称です。 日本は家に嫁ぎますので、嫁いだその日からその家の一員として苗字を名乗ります。 つまり夫婦同称です。 日本では100年200年続く老舗が珍しくなのはこの「家」という考え方に由来します。 「家」が主体で個々の構成員の出自は問われませんので、現在でも「家」の名すなわち屋号は同じでも歴代の経営者の苗字が違うことはごく普通です。 中国や韓国は血族主義ですから、血族が途絶えたり、離反したりしますと一つの屋号を名乗る企業も消滅してしまいます。 中国や韓国で150年以上続く企業が稀なのはこのためです。 経済界に蔓延している欧米型の結果主義、利益主義の考え方も影響が大きいかと思います。 結果主義が過程で費やされる個人の努力を軽視した結果、杭うちデーターの改竄、原発や鉄道の点検漏れ、手抜き工事による天井の崩落、足場の倒壊などの従来は考えられなかった事故が多発しています。 従業員の生活や生き甲斐よりも利益を優先した結果、産業の空洞化をまねくと同時に技術が継承されずに産業の弱体化を引き起こしています。 多数の若者の命を奪ったバス事故も利益優先思想がまねいたものです。 非正規雇用者者の増大やそれにともなう貧富の格差の拡大が起きています。 根本的には、個よりも全体を重視する考え方や「家」の考え方よりも経済効率を優先させた結果です。 現在問題が起きているからといって、復古調の考え方ではどうにもなりません。 全く新しい視点で考える必要があります。 異文化を積極的にとりいれて新しい文化を作るというのが日本人の特性ですので、可能性は多分にあるでしょう。 日本ブームが起きているのも、日本人の考え方が生みだした文化が評価されてきたということです。 ご質問の趣旨とは違っていたかも知れませんので補足をお願いします。

その他の回答 (2)

回答No.3

人は生命として、生きたいから生きているのだ。 「存在の起源」や「生きる目的」といったものを、 外なる権威や価値にゆだねる宗教や思想は、もはや 無用になる。 自我仮説(時間軸)と時空仮説(空間軸)の相補 分化において、環境は自我成立のための必要であり、 自己の生きる意志の物理的延長において、自然に 「存在の起源」や「生きる目的」が導かれる時、 哲学も宗教も無用な虚妄に堕す。

  • koosaka
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回答No.1

「哲学」というものは、古代の伝説の民族、アーリア人が、中央アジアから、西のギリシャに移動して、ギリシャで始まったもの。そのアーリア人が東へ移動して、インドに侵入し、バラモンを形成し、そこで宗教を始めたもの。 その「哲学」が後にギリシャから広くヨーロッパに伝わったもの。 だから「哲学」というのは、ギリシャ・ヨーロッパにしか存在しませんでした。 19世紀にヨーロッパは世界中に資本主義を輸出し、同様に「哲学」を輸出しましたから、今では中国にも、日本にも「哲学」があるように思われています。 そして今あるものを過去にもあったものと考え、「東洋哲学」と言っていますが、そんなものはありませんでした。 人は、今あるものは昔もあったと、思いやすい傾向があります。 中国や日本には「思想」はありましたが、「哲学」はありませんでした。 だいいち「哲学」という言葉は、明治以前にはなく、西周とか井上哲次郎が明治になって翻訳語として作ったもので、当然ながら、明治から始まったものです。 では、「哲学」と「思想」はどこが違うかといえば、「哲学」とは、世界なら世界の本質を考察するもの、そして概念を問題にするものです。 「存在とは何か?」「実体とは何か?」「善とは何か?」「なぜ存在するのであって、無ではないのか?」というようなことを論じます。 それに対して「思想」は概念を当然なものとして、その上に世界がどのように出来上がっているかを説明するものです。 東洋で、そのような「哲学」を問題にしたことがあるでしょうか? 日本神道にしろ、儒教にしろ、仏教にしろ、「なぜ、世界が存在するのか?」「世界の根源は何か?」なんて問題にしたことがあるでしょうか? 私は寡聞にして、そんなことは聞いたことがありません。 「哲学」は依然として西欧・アメリカが中心で、東洋が中心になることはありません。 何と言っても、西欧はギリシャから2500年の長い歴史があるのに対し、東洋の中国や日本はまだほんの100年ちょっとの歴史しかありません。 無理です。

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