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日本的な(できれば固有の)価値観について
たとえば、「他人に迷惑をかけない」ということが、日本では、最も基本的な価値観ではないかと思われますが、その内容となるとかなり個人差があって、電車でのマナー、携帯のマナーなど温度差があります。「他人に迷惑をかけない」という価値観の逸脱者はいても、多数派はまだこれを支持していると私は考えています。 例示したものも含めて、皆さんが思い当たる日本的な、固有の、多数派の価値観を教えてください。社会的な要請を強く感じるものという観点でお願いします。おそらく、国家忠節と自己犠牲を内容とする大和魂(平安時代の「もののあわれ」という原義ではなく)のようなものは皆さん感じていないと私は思っています。その辺りも教えてください。
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- akiakane93
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#2です。 補足質問頂きましたので、私なりに何を思ったかを書いてみたいと思います。 「いただきます」「ごちそうさま」については、言われるまで考えてみたこともなかったのですが、子供から大人まで的確で簡潔な言葉で感謝を表すのがすばらしいと言うようなことを外国人から何度も言われ、そうなのかと思うようになりました。八百万の神様のおかげかなと思えば価値観につながってきませんか。(最近は薄れてきているかもしれませんが。) 「天に在す~」と共に食事をしてた頃は、その日に感謝することがたくさんあると待ち時間も長くなり(その時はいませんでしたが)小さい子供などがいると成り立つのも難しそうな。 また、敬虔なキリスト教一家にホームステイしたことがありますが、なぜか食事での挨拶はありませんでした。 履き物については、アメリカでの経験ですが、家の中で土足ですよね。 スリッパなどに履き替えるお宅もあるようですが(カリフォルニア在住の親戚は「珍しい」と言われると言っていましたが)。 その土足のままベッドに飛び乗ったり寝転がったりするのは、私は最初本当に驚きました。 日本でもホテルなどでは確かに土足ですが、少なくとも履き物は脱いでからあがる人の方が多いような気がします。 更に、アメリカでキャンプに出掛けるときに、普段のベッドから掛け布団を(袋にも入れず)車に積み込み(子供たちはひきづりながら)、地面に落としても気にしない……夜は普通に使っていました。 日本なら緊急事態でもない限り、寝具は普段使いと外用は別のものにするとか、せめて袋に入れるとかするのでは。 その辺の清潔さと言うか潔癖さと言うか、これは価値観ではないのかなぁ。 ちょっと長くなってしまいましたが、なんとなく、価値観という言葉に対する価値観(定義?)が違っているような気もしますね。
- payment
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事なかれ主義 面倒なことにはかかわりたくない。保守的ですね。 肩書き重視主義 どこのだれだか素性をはっきりさせないと心をひらいてくれない。
補足
事なかれ主義って、ありますね。 無事ばかり願って消極的な態度の人は、多いですね。 見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり(無関心)なわけですが、 そこまで立ち入って(干渉して)いいのかなという遠慮の気持ちや 事を荒立てなくてもいいのではないかという争いを嫌う気持ちや 問題は自分で解決していけよ(人を巻き込むなよ)という気持ちが あるものと思います。 結局、「和を乱すなよ」とか「他人に迷惑かけるなよ」という社会的な多数派の価値観に通じているようにも思いました。 肩書き重視主義が、社会的な多数派の価値観とどう関わるのかピンと来ませんが、偉そうな肩書きに弱いという感じはあると思いました。
- iserlone
- ベストアンサー率18% (99/525)
「死ねば、みな神様」(日本神道)がパッと思い浮かびました。 キリスト教では神に召される事はあっても神そのものにはならないはずです。 仏教では地獄という概念があり、必ずしも神になれるわけではない…と解釈しています。
補足
「仏様にはならず、神様になる」という感覚が、多数派とは思えないのですが。葬式も法事も仏式ばかりのように感じます。たまに、キリスト教式の人がいたりする程度で、神式(神道)は今のところ未経験です。
- t78abyrf9c
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>「社会」つまり「世間」が、個々の人々に求めてきていると強く感じる価値観のことです。多数派の常識とでも言うべきものです。 私なりの言い方になるのですが、即ち「世間」が一般的な価値観や常識と同化しているという事を伝えたかったのですが・・・。 良し悪しは別として、大半の日本人は「世間」を客観的に分析する事を避けてきましたから、「世間」の中にある絶対的な普遍性や価値観をに説明する術も持ち合わせていないというのが、私の結論です。 ですから、事の問題が起きた時の解決法として、論理的な手段を避けて(論理的に説明する術を持ってませんから仕方ないのですが)「空気を読めよ」というような言葉で片付けるケースも多いと感じています。 私自身が上手く説明できる方法を持ち合わせていないので申し訳ないのですが、↓をお読み頂くと多少ご理解頂けるのではないかと思いますので、宜しければご一読ください。 http://indianaky.blog45.fc2.com/blog-entry-97.html http://indianaky.blog45.fc2.com/blog-entry-98.html http://old2.josuikai.net/josuikai/21f/main53-1.htm
お礼
No.1では、「世間体を気にし過ぎる風潮がある」ということが言いたかったのでしょうね。そこが、「空気を読む」ことを推奨し、「空気が読めない」ことを批判する風潮に通じていくのでしょうね。 ありがとうございました。
- yochanjr
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「和を持って尊しとなす」でしょうか。 聖徳太子が作ったとされる17条憲法第1条ですが・・・。 角が立つから「なあなあ」で済ませようとする、 きちんと意見の交換をしない、納得するまで話し合うことをしない、 その弊害はいろいろなところに出てきますね。
お礼
和を乱すものを嫌うという価値観は、確かにあるように思います。 ありがとうございました。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
なんにでも謝罪を要求し、失敗を全く許さないこと。それに対し、責められている側が、本当に謝罪をしてしまうこと。 アメリカ人あたりが、謝罪は自分の法的責任を認めたことになるので、安易には謝罪しないのと全く違います。また、日本では薬の副作用に対して過敏ですが、普通の国の医師であれば、効果のメリットと副作用のデメリットでバランスをはかり、副作用があると分かっていても迷わず薬を使うのとは、全く違います。日本では小学校におけるワクチン注射の副作用を恐れるあまり、はしかなどという情けないレベルの病気のワクチン注射すら強制ではないため、はしかの輸出国になってしまっています。また、フィブリノゲン投与によるC型肝炎汚染が話題ですが、そもそも原告団の女性たちは、フィブリノゲンを使わなければ失血死していた人たちです。無論、日本の行政当局がフィブリノゲン禁止のアクションをとったのが米国より遅かったというのは問題ですが、現場の医師としては、フィブリノゲン投与を批判されても困るでしょう。
お礼
失敗を許さず謝罪を要求する価値観って、確かにありますね。これも、「他人に迷惑をかけない」という価値観につながっているように感じました。薬害は、迷惑以上の水準(被害)ですが、被害者意識が強いほど、謝罪要求文化とでも言うべきものになっていますね。そして、「他人に」という部分で言えば、この範囲に該当する被害者すべてに適用を拡大する要求が、世間で大絶賛されたのも、日本的だと思いました。決して、これが悪いと言う主旨ではありません。念のため。 大変、鋭いご回答、ありがとうございました。
- akiakane93
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タイトルだけ読んだときに思い付いたのは「いただきます」「ごちそうさま」でした。 複数(複数国)の外国人から言われたことがあります。 本文を読んで思い付いたことは『室内で履き物を脱ぐ習慣』でした。 レストランでも脱ぐ場合があるのって珍しいのではないかなぁ。 質問者様の意図するところよりレベルの低い回答になっていると思いますがご容赦下さい。
補足
食べ物に対する感謝って、世界共通で、日本的とはならないでしょう。 また、履物を脱ぐ習慣がどのような価値観か分かりません。 ちょっとばかり、質問の主旨とは、違っていますが、現代の日本においてこのようなマナーは、確かにあると思います。
- t78abyrf9c
- ベストアンサー率47% (3029/6402)
「社会的な要請を強く感じる」 ↑から思いつくのは、「世間」でしょうか。 個々人の尺度や、事の大小は違えど、日本で生きていく限りにおいて、「『世間』には逆らえない」という観念があるように感じますが。 http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-27.html http://imi.sfc.keio.ac.jp/lecture/textanalyze2001/guide/manual/2_5.html 的外れな返答でしたら、ご容赦を。
補足
そうです。「社会」つまり「世間」が、個々の人々に求めてきていると強く感じる価値観のことです。多数派の常識とでも言うべきものです。 さらに、例を挙げると、「空気を読めよ」という強迫観念があるかないかとかいうことなどです。
お礼
解説ありがとうございます。 やはり、行儀の良さとか習慣の話なのでは、と思いました。 「いただきます」「ごちそうさま」と発声するのは、食事の前後に行う作法のように感じますし、スリッパなどに履き替える話などは、潔癖症的な国民性のように感じました。 社会からひしひしと伝わってくる(強制とも感じられるような)価値観というイメージを想定していました。そういう意味では、潔癖症は、「穢れを嫌う」価値観に通じているのかもしれませんね。