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創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか?
- 創価学会信者が神道まで否定する理由について、その背景や考え方についてまとめます。
- 日本の神道と創価学会の考え方の違いについて解説します。
- 創価学会の信者が神道を否定することが、日本の国や文化を否定しているのか、その点についても考察します。
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追伸まで 「創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか? 」 の問に関して「悟り低き者が宗教など起こすものではない。」では回答としては十分ではありませんでしたね。 確かにご指摘のように他宗を批判したのは日蓮だけではありませんでしたね。天台宗と奈良仏教の徳一論争など仏教宗派の争いは過去もたくさんあったのですね。でもどの仏教宗派の教祖も時の幕府は別としても天皇への尊敬の思いと態度があったことは自明なことですね。天皇は神道の最高の神官の位置づけということは当時の叡山や高野山で学んだ学生の常識ですね。 したがって、日蓮や日蓮宗が神道まで誹謗中傷することはありえないことですね。もしそのようなことがあれば日本の歴史に日蓮宗など存在するわけがないですからね。 さて本題に戻って、「創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか? 」ですが、これは創価学会2代目の戸田あたりからですね。詐欺罪で投獄された2代目と獄中でのやくざとの関係、その後あとを継いだ3代目が大阪を中心に広めたわけですが、そのとき韓国・朝鮮系のかたや中国系の方が多く参加していますね。ここに神道否定の教義が必要だったのでしょうね。つまり信者獲得と組織拡大には神道否定が条件としてあったということでしょうね。宗教というより利益団体ということですね。この考えは公明党に引き継がれていますね。学会も信者も多いですからいろんな人はいると思いますが、核の部分で神道を否定しないと韓国系や中国系の方々の共感は得られないということでしょう。 仏教は是是非で判断することが基本ですから、利益目的で判断することはありません。そういう意味で学会が法華経を奉じる仏教といえるとは思えませんが、日蓮を利用した利益団体ということはできるのでしょうね。ただ、いえることはあの日蓮にさえ後代のものが間違える欠点はあったということですね。欠点は利用されやすいものなので宗教家には欠点が許されないという厳しいものがあるということですね。 このことは日蓮もあの世で深く反省しているということですね。 あなたのようにしっかり学べば、是是非で判断できるのですが、学び浅き者が多くて困りますね。 参考程度に
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- amaguappa
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鳥居をくぐらないとは面白い。つまり神社の領内に足を踏み入れないということですね。 僧・神父・牧師・ムフティー・グルといった方々の、神社で柏手を打たず敬意だけを表する折衷的態度、という立ち位置とは異なっているところに注目します。 すなわち、土地・結界に対する態度であり、神道の信仰に対する態度かどうかはなんともいえません。 その知人の方にとって、神社の領内とは何であるか、あるいは、神社の借地である土地は足をつけてよいのか、といった問題は、神道への否定または無理解に発するとはかぎらず、「通常では神聖とされる閾への忌避観念」という、民俗学的な地層のうえに成り立っていそうです。 さて、わたしは日蓮にも創価学会にも詳しくないので、ただ上記の視点を質問者さんに提案するとともに、ネット検索という怠けた手段で、次のような記述を見つけました。 靖国神社についての所感を記したページのようで、内容は読み飛ばしますが、6段落目にこのように書いてありました。 「日蓮が他宗を攻撃したのは、法華経以外の経典が国内の飢饉や疫病の原因だと考えたからである。神社参拝を禁じたのも、他宗の僧が管理したり国全体に法華経以外の経典が多いから神は国を去り代わりに悪鬼が住みついたと考えるからである。」 http://www.geocities.jp/densantarou/Yasukuni.html この記述のとおりだとしますと、神が社を去ったか、去らなかったか、悪鬼が社に住みついて人の相手を粛々とつとめているか、今の神は元の神でないのか、元の神が戻ってきているか、実際なんともわからないですね。。。 わからなくてもあんまり構わないような気がするところが、システム化した宗教としての近代以降の神道らしさかもしれない、なんてのは不届きな考えでしょうか。 しかし一方で、わたしたちの持つ純朴な神道のイメージというのは、中務省(なかのまつりごとのつかさ)・宮内省(みやのうちのつかさ)あたりにあるでしょう。 そこですでに道教や仏教の影響のもとに、気学・暦学・方位学を体系化した時期から神道らしい神道になるわけで、いわばもともとアマルガム状でフレキシブルといえます。 そのような神道の力によって網羅的な観点を手に入れたのが「大和の地」の存在様態といえるでしょう。それを否定するも肯定するもあまりピンとこないというのがわたしの感覚ですが、この一種の地縛的な信仰を、創価学会の知人の方が独特に解釈していらっしゃるとすれば、それも面白い態度なんじゃないかなと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 結界だから足を踏み入れないというのは、また面白い観点ですね。 受験に集中するためには恋愛を断つ…などと言っては低俗な表現ですが、修行中の身ゆえに結界として考えるのは、人間として気持ちが分からなくもありません。 尤も、知人に関してはとてもそのようには見えないのですけども…(笑) リンクのページを拝見して見ました。 日蓮は神そのものを否定したのではなく、他派が神道とくっついたことで神が呆れていなくなってしまい、それが災いの原因となっているんだと言ったわけですね。 のちに弟子が自前の法華神道をつくったあたりからも、それはよく分かります。 ただし、これは政治色の強いイデオロギーでしかなく、普遍の教義とはまた別物です。 例えば他派が歩み寄ったり、災いが消えたり、夾雑物のない神道ができたり、そうした状況の変化に合わせて消えるか変わるべき運命の理屈です。 これが平成の世になっても依然として残されているのは、プロパガンダとして秀逸だったからなんだろうなと、私などは考えてしまいますけどね…f^^;
- ume-boshi
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こんにちは。#3です。 質問者さまもみなさまも、私なんかよりずっと教養が深くていろいろ知っていらっしゃって、こんな若輩が回答するものどうかと思うのですが、ちょっと気になった点がありましたので再度投稿しました。 >その考えの基となっている創価学会の神道に対する考えはどうなっているのか とありますが、その答えは#11さんの >日蓮の直接書いた物をお読みになれば、日蓮が他宗派に対して徹底的に排他的であったことはお判りになると思います という一文が答えだと思うんです。 私も#3で書きましたが、法華経は釈迦の最高の教えであり、日蓮はそれ以外を認めないとしたんですよね。創価学会は当然日蓮の教えを教義としていますから神道だろうと他の宗派だろうと排除するのは当然だと思うんですけれど…。 私は法華経を学んだことも日蓮の書物を読んだこともないので他宗教排除に関する一節を挙げることはできないので、やはり質問者さまがお読みになって理解される方がいいと思います。他人の言葉ではたぶん納得されないですよね。 余談ですが、私は仏教系ミッションスクールに通っていました。大学では「民俗学」の講義を受けたこともあり祀りや祈りなどいろいろあることを知り、興味を持ちました。#11さんのおっしゃるように、民俗学から見た自然崇拝などは参考になると思うのですが、いかがでしょうか?質問の趣旨とは違うと一蹴されてしまったみたいで少し残念に思います…。
お礼
たびたびのご回答ありがとうございます。 Chototsuさん(#11、#9)は日蓮の書物をよく読んでおられるとのことなので、あえて細かいところまでは書きませんでしたから、他の方から見たら少々分かり辛かったかも知れません。 #9で言われている日蓮の 『真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊』 というのは四箇格言と呼ばれ、真言宗、禅宗、浄土宗、律宗を否定したものです。 これは当時、他派が政治と結び付いたりと強大だったことから、法華経のみを絶対化した一種のプロパガンダでした。 他派も自分たちと同じ釈迦の仏教ですから、そこで自分の教えを広めていくためには、縄張り争いに勝つ必要がありました。 その一方で、日蓮自身は縄張りにくみしない神道には寛容で、伊勢神宮にも参拝し、天照大神や三十番神を法華経の守護神として取り入れた法華神道をつくりました。 排他的と言われている日蓮ですが、それは他派との争いや四箇格言によるイメージであって、実は接受と折伏をTPOによって使い分けていたのです。 したがって日蓮の書物をいくら読んだところで、日蓮が神道を否定する理由が見つかるとは、私は思いません。一部分だけを読んだり、都合よく解釈すれば話は別ですが。 おそらく神道を否定したのは、後世の諸派の人たちの解釈によるところなのでしょう。 かつての日蓮が仏教他派を否定したのと同じようなつもりで、明治政府の神仏分離政策などの背景から、窮鼠が猫を噛んだのかも知れませんし、または私の気付いていない別の考え方があるのかも知れません。 ume-boshiさんへのコメント(#3)に、神道と他の宗教とでは畑が違うと書きましたが、日蓮が神道の下に法華経を置いたのも、やはり神道の本質と仏教の本質との違いをよく分かっていたからだと思います。 この質問で、私は神道の瑣末的事象も含めた全体ではなく、あくまで本質部分のみを俎上にあげさせてもらっております。 Chototsuさんへの#9のコメントでヌミノーゼというものを引っ張り出したのも、問題にしたいのは本質なんだと婉曲に強調したかったからです(笑) そうした点から、もう一度あのコメント(#9)を読んでいただければ、私の反論のニュアンスもなんとなく伝わるのではないかと思います。 ただ、民俗学的見地から宗教を見ることは大切だと思います。 柳田国男を始め、その正反対のフィールドワークにあけくれた宮本常一や赤松啓介などを私は読みますが、宗教を考える上でとても参考になりますね。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
創価学会信者は質問者さんの知人だけじゃなかろう。 創価学会800万世帯から神前結婚式に参列した人はいくらでもおるし、逆に曹洞宗や真言宗の門徒にだって神前で柏手打つのを良しとしない人々も仰山おるじゃろが。 多くの日本人は神仏混合でかまわないし、菩提寺に内緒でキリスト教の聖夜を祝ったり、十字架の首飾りを掛けたり、はたまた聖バレンタインのお祝いをするひとだって仰山居る。宗教に関して寛容というか、曖昧なのが日本人の特徴といってもよいかもしれんな。 ただ、一部の人にはこのような曖昧さが嫌いな人もおるじゃけん、たまたま貴方の知人が神道やキリスト教の祭を拒否しておるだけじゃろう。それもその方の自由じゃよ。
お礼
ありがとうございます。 あれだけ多くの信者がいますで、個人の単位で見ていけば、そこには人それぞれ様々な状況があるのではないかと思います。 創価学会信者の知人を例に質問を致しましたが、知人の行動をとやかくと問題にしているのではなく、その考えの基となっている創価学会の神道に対する考えはどうなっているのか、論理的な矛盾はないのかという趣旨で質問をさせていただいております。 私の気付いていない考え方があるのかも知れませんし、そこを掘り下げて見たいのですけどね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#11に誤植がありました。下の方の 外国の物を学んでも分かるはずのことが は、 外国の物を学んでも分かるはずのないことが と読んで下さい。
お礼
ありがとうございました
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#9です。残念ながら私は創価学会の信者ではありませんが、質問者さんのご返事を読んでいると、日蓮の書いた物を読んでその思想を理解した者は創価学会員である、と質問者さんは主張されているようですね。ですが、必ずしも創価学会員にならなくても、解説書ではなく、日蓮の直接書いた物をお読みになれば、日蓮が他宗派に対して徹底的に排他的であったことはお判りになると思います。質問者さんもこの機会に、外国人の書いた物ばかりではなくて、日蓮、源信、親鸞、唯円などに代表される鎌倉仏教の華をご自分でお読みになると、自ずといろいろな疑問の答えが見付かるかも知れませんよ。 また、神道に興味があるようなので、もし未だ読んでいなかったら、柳田國男の『先祖の話』は非常に参考になりますので、一読をお勧め致します。そこには西洋人の論理からではなくて、日本人独自の目から見た神道が語られています。そもそも、柳田が創始した日本民俗学は、対象が対象だけに、幾ら外国の物を学んでも分かるはずのことが学問のテーマになっておりますので、外国人からの受け売りでない、日本人独自の創造的な学問の営みを満喫出来ますよ。
お礼
ありがとうございました。 質問の趣旨とは離れていますので、コメントは控えます。
都市型宗教や世界宗教はメンバーの出身地がバラバラですから、自然と「シンボル」や「イメージ」がメンバー間の靭帯になるものと思われます。 一方、「地域性」を靭帯とした神道の「鳥居」もシンボルなのでしょうが「十字架」や「天国」といったシンボルやイメージとも異なり背後の風景と切離せないような気がします。 どっちか言えば、土地につけた「マーカー」と言えます。 都市型宗教や世界宗教から見ると、そこらへんの機微がわからないから靭帯となる重要な「シンボル」が衝突するように感じるのだと思います。
お礼
都市型及び世界宗教と神道の『シンボル』『イメージ』の違いについての簡潔なご回答、ありがとうございました。 私もその通りだと思います。 神の概念が自然に対しての感覚から始まっているならば、土地や地域との関連性は切り離せません。 とくに神道は、海が壁となってそこから先へ広がることもなく、大陸の宗教戦争のように他の地域の宗教と激しく対立することもありませんでした。 そのような背景から、宗教本来の自然信仰の形のまま残っているのだと思います。 都市型、世界宗教もまた自然から生まれてきたものだとは思いますが、本来の土地から離れてやってくる時点で地域性を失い、どの土地でも対応可能なものにモデルチェンジする必要に迫られます。 それが実生活に即効性のある、教えや救いといった、ものなのでしょう。 人間の生活上の困難は、世界共通ですからね。 すると神道の担う範囲と、地域性のない都市型・世界宗教の担う範囲はバッティングしないのですから、神仏集合や神基集合といった共存共栄が可能であるわけです。 ところが外来宗教である創価学会は共存共栄ではなく、日本の地域性を担う神道の部分までもを我が御本尊が包含しているので、神道は必要ないとしていますね。 こんなことを言うのは、やはり機微が分からないからなのでしょうかね。 それともただのプロパガンダなのでしょうかね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
私は、創価学会の信者ではありませんが、知人の信者の方から伺った印象と、日蓮の書物を読んだ経験から、私も#8さんの見方に組いたします。創価学会は日蓮の教えを忠実に守っていると言うことなのでしょう。日蓮は、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊、と述べて他の宗派を徹底的に否定しています。 本地垂迹、即ち、日本の八百万の神々は、実は様々な仏や菩薩などが化身として日本の地に現れた権現であるとする神仏習合の思想は、千年以上にも渡る歴史の中で日本人の心の奥深くにしみ込んでいます。日本の仏教は確かに外来と言われています。しかし、現在でも物質文明の中で発揮している日本人のお得意の再解釈で、日本の仏教は徹底的に日本独自なものに変換されており、元の仏教と似て非なるものに進化して参りました。その証拠に、日本三大稲荷の一つの豊川稲荷が曹洞宗の妙厳寺だったり、高野山金剛峰寺の各所に鳥居が並んでいたり、浅草寺の一角に浅草神社があったり、その反対に神社の一角にお地蔵さんが立っていたりと、数え上げたら切りがないくらい、日本の仏教と神道はゴチャゴチャになっております。 その意味で、仏教の他派を徹底的に否定する日蓮の思想の正当な延長として、神道も中東や西欧の一神教も共に排除するのは自然な成り行きです。 私に言わせると、 >どうやら日本の神と外来の仏との区別がよくついていないように思えます と仰る質問者さんの方が、外国の影響を受けた明治政府の政治的意図のために導入された人為的な廃仏毀釈令に洗脳されて、本来持っていた日本人の考え方を失ってしまい、日本の神と外来の仏を区別するようになっているのだと思います。 >そもそも日本の神とは土地、民族、国などを護るものであって、個人の悩みは解決しません。 その考え方も、日本人の抱いて来た神に対する認識とは大分乖離しているように私には思えます。やはり、貴方も明治政府以降の国家神道で洗脳されてしまったのでしょうか。日本各地には、子安神社、目の病、足の病等の病気平癒の神社、縁結びや縁切りの神社など、個人の悩みを解決してくれると信じられている神社が、数え上げたら切りが無いくらい有ります。また、かつての雨乞いや、田を襲う害虫の駆除のための虫追いなどは、庶民の悩みを解決するための神道の重要な行事でした。 ですから、日本の神道は、 >あくまで土地や自然に対する感謝・敬意に立脚しており、 と言うばかりではなく、庶民の深刻な悩みの解決に役割を演じていたのです。 さらに、神道では身を清めるばかりでなく、神に向かっては無念無想で心までも清めてから接するように教えており、その教えは世界でも特筆に値するほどの日本人の心身共な清潔感として、日本人の「生き方」に対して思想的にも文化的も奥深い影響を与えてきました。 従って、質問者さんの神道に対するご意見は、質問者さんの理解する神道に対する表白ではあっても、果たしてそれが、私たちの先祖が考えて来た神道と言えるかどうか、私には疑問があります。もしかしたら、質問者さんは明治以降の外来思想に大分影響された色眼鏡で神道を見るようになって仕舞い、本来の日本人の庶民達が考えて来た神道の心を忘れてしまっている可能性はないのか、そこまで考えてから論じるような問題に思えました。 >これは日本という国を否定していることにも繋がらないのでしょうか? >国、土地、民族、自然、祖先、靖国の英霊、天皇、そういうものに対する敬愛の念を担う神道を、生き方、悩み、倫理、救いを説く個人メソッドでしかない外来宗教が否定しているのだとしたら、それはかえって人間の本来的な繋がりを破壊することにもならないのでしょうか? この二つの非難も、創価学会に向けられていると言うよりは、日蓮に向けられていると考えた方が、私にはスッキリと理解出来ます。日本の文化は、その内部で自分自身の文化を否定する思想を生み出し得るという、ヘーゲル的弁証法の思想の厚み持っているようです。自己否定をその内部で生み出し得るが故に生産的で力強い西洋文化と比べて、日本は決して勝るとも劣らないことを示す証として、日蓮が出て来たのではないか、そんなことを考えました。日蓮、法然、親鸞を輩出した鎌倉時代の宗教改革が西洋の宗教改革に優に匹敵していたのだと、改めて思いました。 従って、#8さんの仰るように、これは思想ですから、是非の問題ではないでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まるで創価学会の方のようですね。 ルドルフ・オットーが『聖なるもの』の始めの方で、本来的な「聖なる」とは、言葉として言われている「聖なる」から合理的な部分を抜いた非合理的な感覚(ヌミノーゼと造語)のことである、と言っています。 これは、キリスト教について書いた本ですが、人間の習性でもある絶対他者への感覚を論じていますので、キリスト教に関わらず世界中のどの神にも通じることだと思います。 私の神道に対する認識も、こうしたヌミノーゼ的な部分によって担保されているので、そこから派生した人間の都合による習慣などは、単なる筆の勢いとしか見ておりません。(本質ではありません) よって、例えば神仏がゴチャゴチャしていたり、時代によってはカウンセリング代わりに悩みの解決も兼業してみたり、そうしたことは人間の都合による瑣末な出来事の一つであり、神道の本質を語る上ではあまり意味がありません。 そうした瑣末な表層を捉えて『ゴチャゴチャしているから否定して当然』と教祖が考えたのだとしたら、本質を捉えられないんだなあと私は思いますが、それは本心なのですかね?。 組織強化のプロパガンダとして利用したのならよく分かりますけどね。 ご回答の中盤以降は、本質から離れた部分をただ否定するだけに終始されていますので、もし創価学会にお詳しいようでしたら、そこではなく創価の本質的な部分を語っていただけたらなあ…と思います。
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
創価学会は日蓮宗の中の日蓮正宗、更にその中の一つの「講」から生まれました。 つまりたもとを別けたとはいえ、基本は日蓮の流れを汲んでいたのです。 日蓮宗は、非常に排他的な思想で、私が考えるに、結局同門においてでも考えの総意があれば排除するほどの激しさがあったのではないでしょうか。そのため多くの派に別れています。 その流れから正宗の一「講」であった法華講が独立し、創価学会へと繋がったと思います。 なので、人民救済の一法は法華経にのみありとして、神道はおろか他派仏教まで排除するのは当然の流れだと考えます。 これは思想ですから、是非の問題ではないでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自己の正当化のために、他を否定していたのだとすると、それは他を利用していることでもあります。 他を利用しなければ、自己を正当化できないという、依存性と弱さの証明ですね。 あれだけの大きな宗教団体ですから、部外者にも説明ができる程度の理論構築はなされているものだと思っていたのですが、もし言われている通りだとすると、カルト宗教とさほど変わらないようにも思えます。 創価学会は戦後に急に大きくなりました。 言ってみればこの宗教団体は、自己の拡大について行けていないのかも知れません。 朝鮮特需から始まる好景気によって人の流動が激しくなり、それと同時に地域密着型の宗教からも離れる人も増えました。 そして多くの『宗教難民』が出て、その受け皿となったのが、創価学会だったのかも知れません。 あまりの急速な肥大化に、理論固めは追い付かず、その穴を糊塗するために他を否定したとしても、ある意味自然の流れだと思います。 『理論として未熟なのは百も承知だが、目の前に我々を必要とする人が大勢いる現実がある。だから、そんなことは言っていられないんだ。利己的だが邪魔をする相手には徹底的に反撃する』 そんな感じなのかも知れません。 それが本当のところだとするならば、ここで創価学会の理論を待って見ても、永遠に来るわけがないですよね。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
もし創価学会が自らの畑を飛び越えて、神道との共存共栄までもを否定しているのであれば、これは日本という国を否定していることにも繋がらないのでしょうか? ○ ご指摘の通りだと思いますよ。 私は仏に帰依した仏教徒ですが、神社にも良くお礼参りにいきます。 日本は天の御中主神のご降臨以来、3000年をかけて神道の神々が国づくりをしてきた立派な国です。その国に生を受けることを許され仏教を学ぶことが出来るということは、ありがたいことで神道の神々や国づくりに命を落とした人々への感謝を忘れれば、自らの否定、ひいては自身の信仰への否定、はたまた国家の否定にしかなりません。 かって内村鑑三が不敬罪で罰せられたことがありますが、例えどのような信仰を持とうとも生まれた地の民族信仰をないがしろにしてはいけないですね。 付け加えれば、誰しも日本に生まれるためには「天照大神」の許可がいるのですね。 日本は仏教が受け入れられた数少ない国ですから、日本神道には感謝をしないとね。 (註:日本は仏教を受け入れるために創られた国と御中主神ご本人が霊的に言っていましたね。) ・・まあ、仏教も学べば学ぶほど、例え教義がなくとも神道の偉大さもわかるのですが、学びが足りないのか、仏教を詐称しているのか、まがい物教団がたくさんあるものです。 悟り低き者が宗教団体など起こすものではありませんね。 お怒りの原因はそういうことでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 他の方のご回答に対する私のコメントまで読んでいただいているようで恐縮です。 神道が庶民の生活に浸透し、不即不離の関係だった歴史を考えれば、これを否定することは、ひいては国や自らの基盤をも否定することにも繋がってしまいますよね。 いくら憲法で信仰の自由を説いてみても、閣僚の伊勢参拝は毎年行われますし、内閣の任命は天皇陛下から受けます。 決して切り離すことはできません。 その神道を、一部の外来宗教が否定しているようなので、一体どのような考えからそんな結論に至ったのかと、純粋に疑問を抱いたことがここで質問するきっかけでした。 何かまだ私の気づかない考え方があるのかも知れないと、期待を抱いていたのですが… 私は仏教徒ではありませんが、ハイデガーがきっかけで仏教へ入って行き、頑張って『正法眼蔵』なども読んでみたりしました。 宗教ではなく哲学として見ても、仏教はかなり奥が深く侮れません。 創価学会も、実はかなり奥が深かった…なんてことになったりするのでしょうかね… f^_^;
- qualheart
- ベストアンサー率41% (1451/3486)
ANo.2です。たびたび失礼します。 お礼ありがとうございました。 ご質問者様の疑問点が良く分かりました。 ご質問者様は、神道は一般的な意味での宗教としては捉えてないと言うことですね。 その感覚はわたしも良く分かります。確かに、わたしも神道には宗教とは違った印象がありますし、人間の精神的な歴史として神道には多く共感するところがあります。宗教と言うより、文化という感じでしょうか。 ご質問者様が神道の信者であると思ってしまったので、ちょっと回答はずれてしまいました^^; すいません。 まあそれでも、神道はあくまで日本の文化の一部分に過ぎないので、日本という国を否定しているというのは言い過ぎだとは思います。文化は変わるものですし、普遍でなければいけないというわけではないですから。 まあその点において、ご質問者様が神道を宗教と捉えていないにしても、神道というものを人に強要してしまっている趣は感じます。人によっては神道は宗教と捉えている以上、ひとつの宗教を人に強要するのはあまり良いことではないとは思います。 ただ、ひとつの宗教を非難したりするのは良くないことなので、創価学会だからどうだという結論は申し上げませんが、もし彼らがご質問者様の神道の捉え方を理解できれば、別に拒否しなくなることもあるんじゃないかと思いますよ? 理解できればの話ですが・・・ 彼らが拒否するのは、神道を仏教と相違する宗教として捉えているからだと思います。他宗教を拒否する度合いは違うと思いますが、まあ創価学会の場合はその度合いが強いのでしょう。 創価学会は単純な宗教としてだけでなく、ひとつの組織として成り立っていますから、多くの人間を統率する上でも自身の宗教を絶対的なものとして扱ってしまった方が効果的というのもあると思います。 その善し悪しは別として、創価学会にはそういう一面があることは確かだと思いますね。 ご参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そのとおり 『宗教と言うより、文化という感じ』 ですね。 庶民は村の神々を崇めて暮らして来ましたし、戦国武将は天皇から認められた将軍を目指しはしたが、決して自らが神になろうとはしませんでした。 人間の上に神がおり、そのもとで営む。その概念が文化となり、歴史となったのだと思います。 ヒトは集団行動性動物ですので、シンボルやボスなどの絶対者を作り、その下に集まって生きて行く習性があります。 神学者のルドルフ・オットーは著書『聖なるもの』において、自然と対峙したときに、何か厳かで、人間よりも遥かに大きなものを感じ、神秘や恐れの感覚が生じることを『ヌミノーゼ』という言葉で表しています。 ヌミノーゼのような絶対他者の存在を感じるのは、おそらく人間の本能なのでしょう。 その本能によって、人間が連綿と築いてきた歴史は、まさに自らの基盤でもあると思います。 何度か書きましたが、外来の宗教は人間の具体的な苦しみや悩みを救う『教え』は持っていますが、外来ゆえに、神道の分野である土着のアイデンティティについては担えません。 創価学会が神道を否定したり、また『神道の分野もこちらのご本尊が包含している』と言うのであれば、それはいかなる考え方によるものなのか。 それを純粋に疑問に感じたので、質問してみました。 当然、あれだけの大きな宗教団体ですから、その辺りの理論構築もなされているでしょうしね。 ですので、私としては神道を強要してもいませんし、あくまで見解を書いて、皆さんの意見を待っていたまでです。 何か仙石官房長官の国会答弁のように、結論まで大回りをしてしまい、すみません f^_^;
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お礼
再度のご回答、ありがとうございます。 詳しい内容でよく分かりました。 時代背景からも、中国や朝鮮の方々が多く来ましたので、そこに宗教が必要とされる側面があったのかも知れませんね。 そうなると神道と結び付いている部分は布教の邪魔にもなりますし、また明治政府が神仏を分けたことを理由に、これを攻撃することで、かえって信者獲得には都合が良かったことも確かだと思います。 神道をあっさりと捨てられたのは、ある意味で土着の宗教でない強みなのかも知れません。 在日中国・韓国人のための亜流の仏教だと考えれば、それはそれでありだと思います。 ただし日本人のアイデンティティを持つ者ならば、決して信じることはできない宗教になるというだけのことですね。 もし今後も、日本人に創価学会を広めて行くというのであれば、神道の否定は考え直さねばならなくなるでしょう。 戦後の日本では、経済成長を背景に物を容易に手に入れることができました。 神道とは、人間が生きていくために不可欠な自然環境への意識から生まれた信仰です。 経済至上主義を信じ、物が容易に手に入るようになれば、それだけ自然や神への意識も薄れてしまいます。 しかし、近年になってそうしたパラダイムは変わりつつあります。 技術革新によりエネルギー効率は30年前と比較して40%も改善し、エコロジーがスポットを浴び始めています。 また長く続く不況下で、節約型の生活が一般的となり、清貧思想までもが見直されつつあります。 資本主義も、唯物史観による共産主義も、結局は物や富をどう分けるかによって、幸せを追求しただけに過ぎませんでした。 しかし、エコなどを始めとする近年のパラダイムは、物に依存しないことで幸せを追求する、今までとは違う発想です。 そもそも70年前、3000万人しかいなかった人口が1億人も増加したのですから、経済成長による富に依存できなくなれば、自ずと節約せねば生き延びてはいけません。 そういった中で、自然と人間との関係が改めて見直されれば、自然信仰や神にも注目が集まるようになるでしょう。 そのように世の中が変化してきた時に、創価学会が旧態依然と神を否定し続けていれば、自分で自分の首を絞めることになってしまうのではないかと思います。 まがりなりにも多くの日本人を取り込み、政治にも少なからず影響を与えている創価学会ですから、個人的な好き嫌いはともかく、日本に対する責任はあるでしょう。 中途半端なことはするべきではありません。 今後、どのような答えを見つけるのか、注目したいですね。