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老子のパラドックス
あなたがたは、「無」の精神あるいは本質を、知的な分析によらず、 自己の存在の内奥を探ることによって発見しなければならない。 しかも、概念や理論や抽象的な説明によらずに、生きた真実として「無」を理解したことを、 私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 単純ゆえに最良の公安は「無」の公安である。 「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 「無」は通常の認識力では理解できない。 老子からこの「無」の公安が与えられる。この場合の「老子」は自然である。 自然は言葉による説明をほどこさない。謎を提示するのみである。 全存在をかけて、直接的に把握すべきだということを肝に銘じておいてほしいのである。 1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? この公安はユニークな解答がそれぞれに存在し、「真理の把握は完全に修行者に任されている」ということらしいですが 私はこの論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。 基本的な質問かとも思いますが、パラドックスの意味は「思考の罠」ということですか? 上記の1)、2)の公安についての考え方や何かヒントとなるだけでもください。
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公案を拈提し、見解を無と言う。まだ、とやり直しを命じられる。 ムー、やり直し、この応酬が続く。 限界をとうに過ぎた痛みと睡魔と疲労にわけがわからなくなる。 ムー と言う。すると、よしと言われる。 ムーは息のこえ、無しではなく万物の有りの姿すなわち法身の息であるといいます。 一切、すべての存在が感じられることであり、すべてが姿を定めずに動くとおりの、動きが感じられることであり、 影ひなた、引力斥力、裏表の対等な姿のどちらかでしか現れと見えないわたしたちの限界を、すっと抜ける音なのでしょう。 公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 太極の世界。カプラは易経で話を締めくくっていましたね。 「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべくは常の名に非ず。 名無きは天地の始め、名有るは万有の母。 故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。 此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。 同じきこれを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり。」(老子)
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最後の答え 2 隻手に受く雨冷たし ありがとうございました。
お礼
遅くなってすみません。そしてありがとうございます。 昭和の芭蕉と呼ばれた種田山頭火さんhttp://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic41.htmlを抱腹させますね。 「雨の日は雨の音を聞く」 「捨てきれない荷物の重さまへうしろ あの雲がおとした雨にぬれている こんなにうまい水があふれている まったく雲がない笠をぬぎ 墓がならんでそこまで波がおしよせて 酔うてこうろぎと寝ていたよ 雨だれの音も年とった 物乞ふ家もなくなり山には雲 よい湯からよい月へ出た 笠へぽっとり椿だった」 優秀でありながら孤高な乞食さん。挙手の音を知ってそうで。 乞食して句を詠んで歩き続けて人生が終わっても、見知らぬ人からも愛され句を諳んじられる人。 本人はそう思って詠んではないでしょうけど、時代が代わり数百年後の人類も感動させられると思います。 がいるかと思うと、セキュリティーしてる豪邸に住んで接待にパーティーに視察にと忙しく充実した人生の政治家さんさえ、死後に諳んじられる言葉も人もない人がいたり。適材適所っていうのを望みたいところです。
答えとは答えたときに答えなのです あなたが最初に受け取ったものが答えです 今の私が付け足せば答えが変わってしまうでしょう あなたも私も変わってしまうのです 変わってしまうことを覚悟の上で 1 無為に付け足す相のありましょうやら 2 (すでに)去来した隻手に何の名残りがありましょうやら これ以上は答えないほうがよいでしょう 私が公案を出す立場になってしまいます 答える方が勝ってしまった時に公案は意味を成さなくなります
補足
ありがとうございます。お礼が滞り申し訳ございません。 自分の投稿を見直してみることがあるのですが、その時に目にした読み物の影響とか単なる思いつきで言い放つ習性があるようです。 忘れているようでは身についてない証拠なのですが、アホすぎて恥ずかしくなったり、今書こうとしても同じようには書けないものを我ながら新鮮に感じる。記憶力のなさも変化と受け止め(無理やり肯定論)悲観してばかりでは、いけないかもと(言い訳論)してみました。 勝る公安というのも本当にあるのかなぁ。はぐらかしとかオチが上手くなることかなぁ。
1 顔横鼻直の無為の相 2 去来の隻手音無し
補足
ありがとうございます。 補足欄をお借りします。 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ「禅/正木晃/PHP」に公案についての説明がありました。この本は禅の説明がわかりやすく良書です。 公案とは「公府の安讀(あんとく)」という言葉の略。 役所の通知のことで、公のおふれが転じて、師から弟子への研究課題で、修行僧は全身全霊を傾けて取り組むようになる。修行僧はそれまでの知識がいかに虚しいものであるかを知り、禅問答が「公のおふれ」という意味で使われるようになった。「身を以て知る」ことが禅問答の本来の意味。 白隠(はくいん)は公案を体系化して修行に励めば必ず悟りに至ることが出来るという。 公案の分類 1)法心の公案(本来の自己を自覚するため) 2)機関の公案、言栓の公案(自覚した上での働きについて訓練するため) 3)向上の公案(究極の世界を味得するため) 両手を叩けば音が鳴るが片手ではならない。鳴らない音を聞いて来いという「隻手音声(せきしゅおんじょう)」は初歩的な公案ということで、法心の公案であるのだろう。・・・? 禅寺は自給自足、生活に欠かせなかった牛を真の自己という例えで、その牛を求め、捕まえ、慣らし、ついに牛と一つになり(?)、やがてそれさえ忘れて自由になる(悟りを開く)過程を絵画にして分かりやすく示した「十牛図」というのがあるそうです。
>飲酒投稿 はは、 冷めてから直球でお願いします。わたしは以前と同様、直球投げてますから。 思うところを、器用さや知識は関係なく、ご自分の声をしっかりと聞きながらゆっくり書いて、そしてわたしにも聞かせてくださいな。 系は、システムですね、http://en.wikipedia.org/wiki/System 。
お礼
システムの解説が英語ですね・・・。無料翻訳で日本語でよんでみても自分の声すらでません!何人かわからなくなりそうでした。英語も不勉強をしていますのになぜか英語の発音はOKとなる私です。 お言葉に甘えてゆっくりです。
- noname002
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先に削除宣言したもの勝ちの(笑)お礼、拝見できましたから。報告だけです。ありがとう。今回は、それ以上にゴメンナサイ、ですね。 >公開の場でもありますし、回答者間では敬意を払った上で会話を楽しんでも欲しいのですが、ネイチャー(自然、野生)に反してしまう望みなのかなぁ。 申し訳ない。。。この投稿も覚悟のうえ(笑)だから、軽く読み流してください。 もちろん貴方は悪くないです。むしろ、御自分のスレを私物化されてると お怒りになられても仕方ないものと分かっています。(もっとも私だったらあまり気にしないかな?まだ経験はないですが) ルールとかマナーもそうですけど、見かけだけ口きれいに繕った言い方が、まともに正面からぶつけた言い方より ずうっと卑しく感じることもあります。本当には敬意を払っているのじゃなく、誰かを不愉快にさせないための言い繕いではなく、その逆。 私、こういう変なことでは経験量ピカイチかもしれないけど、ここって、精神的な病みを抱えてる人すごく多いでしょ。真相に気づくころには、あとの祭だったりして、どれだけ怒ったり慌てたりしたことか。学習能力なしは私;と言う以上に、来るの、どうしても。なぜだろ?不徳なのかな、きっと。 質問者さまは、その点、私なんかより ずっと じょうずだろうと思っています。でも、少しくらいは用心も必要かもね。 『星の王子さま』いいですね!私も、むかし買った福音館の絵本、大事にしてます。テグジュペリが捧げた、お友達のレオン・ヴェルトさん(だっけ)、うらやましいです。こういう作品を自分のためにと贈られたら、どんな気持ちになるでしょう。 「トマトのお酒」おいしい?珍しいですね。 おつまみはカオスお酒はトマトぷっかり浮かんで眺めの島いつのまにやらトマトのわたし♪ (消えると思えば惜しげなく書ける!) 「凡神」いいかも~?凡庸で情けなくてショボクレた神さま 「わし、神やど。。。アホにしてくれてからに。。。」 うしろ姿のしぐれていくか(???)
お礼
アホが直りそうにない私です。人間も動物に習うことも一杯。 師匠のツボが「無邪気さを失わない人」で、これは人を不愉快にさせる作用もあることは経験して知ってますが;
- noname002
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こんにちは。お茶のお礼をかねて来ました(笑)ありがとう。 >師匠ならなんて答えてくれるだろうかと考えた「考えるだけ野暮なのよ。だけど無駄じゃない。それで諦めることも出来るから♪」というのだろうか。 考えてくださって、ありがとう。 無駄じゃない、そうですね、お釈迦様の厳しい修行だって、無駄じゃなかったのでしょう。 よく、他の事で気を紛らわして忘れよ、とかいうアドバイスを聞きますが、私は、こういうやり方だと、得てして うまくいかないことも多いんです。とことん突き詰めて、あっちこっち ぶつかって、ドップリ考え込んで、もう逆さにして振っても一滴も出ないくらいまでになって、やっと諦められる。遅かれ早かれ、そのあとは「日にち薬」です。 この段階で変な刺激を受け続けると、いつまでも安らがないです。そっとしときたい段階です。 >西洋ものですが、スピノザやブルーノの凡神論あたりと禅に共通項があるような気がして探っているところです。 勉強熱心ですね~!私、あんまり興味ない。。。;^^ けど、「凡神論」って、凡神って、凡庸な神さま?親しみ感じますね!^^「や~い凡人」「や~い凡神」「どうせ凡人だもん」「どうせ凡神だもん」カリコリ。。。(壁を引っ掻く神さま) 下の御投稿で挙げられてる「信じる者は救われるか」(今の私には、かなーり共感できる内容です 笑)、「心理学と哲学・思想の違い」 退会なさってるというのに、よくまあ見つけられたなあと思いつつ、私も拝見しました。 良い御質問でしたね。質問者さまも、なかなか良い御返事なさってますね。キラリと光ってますよ~。 OJNさんというかたもおられましたねえ(笑) 甘ったれのおばさんもいたのかしらねえ(笑) 手放してよいものなのねえ(笑) でも、別にガチガチに握りこんでなんかおられないですよねえ? 御質問本文をあらためて読み直してみました。 >「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 私は近ごろ、「生きて作用する」表現、というものに、ためらいを感じています。 その「生きて作用するダイナミックな精神を表現」したからこそ叩かれることもあるのです。 質問者さまなら、その「作用」が相手を追い詰めかねない、あるいは自分が追い詰められそう、と感じたときに、どうなさいます? 「本来の顔、親が生む前にもっていた顔」なんて、わからなくていいでしょう。では、なぜ、説明しなくてよい、敢えて しなくてはならない、とされる違いが出てくるのか? 説明がないときは二つ、一つは真っ当な自然な行いをしているから本人は説明しなきゃならないなんて夢にも思ってない。 もう一つは、何かの思惑や策略があって、隠蔽が必要だと判断されたとき。 「顔」は証なんかじゃない。でも、そういうふうな抵抗を示すと、たちまちバッシングを受けるのも現実です。誰が言うのでしょう?「顔が証なのだ!」と。「おまえの顔は、これにしなさい!」と。仮面を被った下から言うのです。 そう、「拍手」の音は、それぞれに抱いているのでしょう。誰かの要求に従って、渋々無理やりに鳴らすことはないですよね。 質問者さまには申し訳ないですが、今かなり怒ってます。 見透かされて言い負かされて、だからいつまでも根に持つ人、最近、イイトシのオジンでも よく見かけますが、私は大嫌いです、こういう人。 他人には「奥歯にモノが挟まった物言いや下手なほのめかしをするな」と説教しながら自分はシャアシャアとやってのける。小心なくせに厚かましくて陰湿で執拗で、典型的な自分棚上げ他罰型です。それこそ病んでるなーと思います。 目の前にいたら「いいかげんにしな!」って言って、ぶん殴ってやるんだけど。 この投稿、削除していただいてよろしいです。
お礼
スピノザやブルーノを知ったのは随分前だったのですが、全く今まで手付かずにしていました。 そして改めて間違いに気付き訂正します。 平凡、凡人の凡ではなく【汎神論(はんしんろん)】でした。 全ての人に神聖があるというもの。八百万の神に近い神ですね。 私っていっつも考えなしに進むよね~。汎神論の青春は悩むもの、大人になりきれません。学習能力なしだわ!
補足
ありがとうございます。 ここではカオス(?)をおかずにしてトマトのお酒で酔っ払ってる暇人の私が一番悪いと思います。全部関心しつつ回答を読んでいるのに。 キツネ(星の王子さまの)も大切なものは見えないし、売ってない。直ぐに懐いたり、同意もしない。意志は「ノン」というから、言葉は要らない、遠くに座ってて少しづつ近寄るだけでいい。というのもありますし。といいながら言い訳してるだけでした。 カオス(混沌、無秩序)の対極はコスモス(秩序)ですが、それさえカオスに浮かぶ島のようなもの。現実はやっぱりいい加減です。先に勝利宣言したもの勝ちとなりますので、私がジャッジなら私も含めますけど、みんな両成勝でめでたし、めでたし。ならないか! 公開の場でもありますし、回答者間では敬意を払った上で会話を楽しんでも欲しいのですが、ネイチャー(自然、野生)に反してしまう望みなのかなぁ。 一番削除されやすそうな(ごめん)ところからお礼します。
私からは最後になりましょうか。 > 相対的な幸せ(観測点との関係)を望むと、純粋(故に得がたい)絶対というダイナミックな(?)道の小道に入り込み迷い、なかなか辿り着けなくなってしまう? 観測というのは、系を設けて成立するものですから、 相対的な幸せというものがあるならば、そのような系をどうはずすかにかかっています。 系をはずす、というのは、問い方の形式を捨てるということでもあって、 拾っても借りても必ず手放すというだけのことです。純粋とも絶対とも無関係です。 あなたの中で動き、惑い、希望として少し先へ繰り延べられ、ときに回顧され、 胸のうちで光やぬくもりとなったものから検閲審判され、 また、悪なるものの抽象性を自己の外側に据えることによって形成されるもの、 これは顔です。 参照点をもちながら、あなたは顔の上を歩いているのであって、顔があなたの証なのではないです。 拍手のほうが始めから存在し、手というのは便宜的な理由にすぎないものであって、 現象と機序とは、逆の方向ではいつも推論にしかなりません。 乱暴に言えば、手と、拍手の音は、無関係です。 あなたの生にはあなたの拍手がいつも自然にあるわけですから、どのように手であろうかと考える必要はなく あなたも、あなたにかかわる誰も、片手ではないです。 「信じる者は救われるか」、「心理学と哲学・思想の違い」、 わたしが入会するより古い、あなたの質問を見せていただきました。 もうすぐ3年が経とうとしています。この3年にあるのはどんな月日ですか。 わたしと橋が架かる前の友人もいましたし、甘ったれのおばさんもいましたが、 なによりあなたに問いたいと思います。 あなたはあれらの日々から、どんな顔の上を一所懸命歩いてきたのでしょうか。 たまには、振り返ってみると、手放してよいものがわかるかもしれません。
補足
飲酒投稿になりますが、ありがとうございます。 >観測というのは、系を設けて成立するものですから、相対的な幸せというものがあるならば、そのような系をどうはずすかにかかっています。系をはずす、というのは、問い方の形式を捨てるということでもあって、拾っても借りても必ず手放すというだけのことです。純粋とも絶対とも無関係です。 物理は数学よりは理解しやすいですが、そうはいっても何となく理解してるだけかもしれない。 人嫌いでもないですけど、マイーペースなのでボ系?な私。どこいっても協調性に欠けてると自分でも(汗)思いますね。~系、~類、~族の枠以下なのかなぁ。ちゃんとした自分の考えがあるからなのでもないし(汗)これでいいのかともちっと悩んでみます。 >あなたの中で動き、惑い、希望として少し先へ繰り延べられ、ときに回顧され、胸のうちで光やぬくもりとなったものから検閲審判され、 また、悪なるものの抽象性を自己の外側に据えることによって形成されるもの、これは顔です。参照点をもちながら、あなたは顔の上を歩いているのであって、顔があなたの証なのではないです。 意識や感情が顔に表情に出てると感じますよね。 アランは意識、無意識がそれ自体の活力によって存在しているのではなく、意識が注意力に活力を与え存在させてる。曖昧な仮定であるが、同時に行動については根拠のない仮定で、その仮定が頼みとしている事実には別の解釈を与えることも出来、なくても行動に構わないのだから無用であり、またこの事実についても無意識であるが効果的な思索とする仮定としか出来ないから根拠がない―。なんかよくわからなくなってきた(汗) 「酒中に真あり」フロイトが深いところの思考といったり、性的なことは重要と見なされるが故に意味を持ってきているのですが、人間の本音があると信じさせたがる通俗的な間違いとアランはフロイト批判もしました。 昨日ここまで書いて寝てしまいました。もう朝です。 もっと熟読した後改めて返信します。いつも反応が送れすみません。
無くなっている回答のために補遺を。 あれらの回答がはたして公案というものを知るのに不必要であったかどうかは、 わかるものだけがわかるのでしょう。 m_cosmos氏が指摘されていましたが、 ダイナミックという言葉、 この横文字カタカナ書きの語で、簡単に無の精神を済ませてしまうということの浅はかさが、ひとつ、問題として挙げられます。 もちろん、カプラの著書の訳者の咎ですからmiko_desiさんにはどうしようもありませんが、 miko_desiさんを立ち止まらせてしまう癌を突き止めれば、この語にあると言える。 癌をすばやく認める慧眼というものは、やはり、備わっている者から学ぶものですよ。 これに反省を促されて、わたしが漢字表記に直した禅用語、これはお覚えの方は見る必要もないものです。 そして、太極がなぜ禅の心とつながっているのか、これは、知ろうとする者がおのずと知る。それしかないことでしょうね。 道(タオ)はそういう者の足許に、放下著の達するところを示してくれます。
お礼
ありがとうございます。 ダイナミックを突き止めると無限の通りの一片「足るを知る」かな? 相対的な幸せ(観測点との関係)を望むと、純粋(故に得がたい)絶対というダイナミックな道の小道に入り込み迷い、なかなか辿り着けなくなってしまう? 無の精神、禅用語に関して探求してみます。
- noname002
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投稿が たまってきて、お返事するのも たいへんだろうかと思い、敢えて、連続投稿するのを控えていました。 優先的に私への補足を書き込んでくださってたみたいな、有難うございます。 この前は横スレに横スレを入れてしまい本当に申し訳なかったです。あらためて、ゴメンナサイ。 私の投稿内容だけが編集削除されてるという、おなじみの奇奇怪怪も(笑)まあ、もう慣れてるので、どうでもいいですけど。 数日前、従兄にグチこぼしたら叱られちゃった; 「オマエはな。しょーもないテツガクみたいなもんやめろ~!ネットもやめろ~!もっと明るく楽しいことをしろ~!!」「しょせん身内の言うことしかアテにはならんぞ!」 従兄はオトコマエのバリ肉体派。ワイルド。ボランティアで子どもたちに剣道教えてます。アタマいいけど典型的な哲学侮蔑派で、こっち方面は、とりつく島がないの; >理性によって理性を激高させることがあるなら、合理的でない方を選んでみては。 どうせ激高させるなら、「合理的でない方」で激高したら??って?ふふふ。ふー。。。 理性的か そうでないか、合理的か そうでないかの区分けだって、けっこう難しいです。 >今は計算も何もなくのほほんとしてる今日この頃です。 いいことですね。 私は、もともと単純メンドクサがりで、計算能力自体が著しく低いし、計算ばかりする人について行ききれない。しんどいわ。「腹芸」なんて一番苦手やもん。腹芸する人には、こっちも腹芸しないと、ってはめになりかねないし。 >「粋」は、人情を分かって汲んでる人の計らいですね。 反対は「野暮」ですが、人情が分からない、つまり理性を欠いた行動に見えて実は理性的であるほど印象も理性に欠けて見えることがある。 これに抵抗、拒絶しようとすればするほど理性は何も出来なくなることだってある。 なるほどね~。 ごく素朴には、私は いきなり抵抗や拒絶に及んだりしないほうですけど。。。 >「臭いと鼻をつまみ背を向ける者の肥しになろう」(by師匠)は完全に譲歩しながら服従でもない。なのに実りを贈ろうとして。間接的に。 もう直接教われないのでいつまでも反芻し消化しようとするのです。なので忘れないで胸の内で宝として輝き続けてます。そんな、ある意味間に入ってくれる人のお陰って間接ってのも深いなって。 あなたのお師匠さまの お話、これまでにも よく伺いましたが、たくさん良いことを伝えてくださったんですね。 「もう直接教われない」、もう直接会えない、もう直接食べられない。 だから いつまでも胸の内に ソッと とり出して、繰り返し繰り返し味わうのだ。。。 ↓最近、あるかたが私を気づかって贈ってくださったコトバです。 「君が友から離れていくとき、歎いてはならない。君がかれのなかで一番愛してるものは、かれがいないときにこそ、明らかになるのだから。山は、それを目指すものには、平野からこそ明らかに見えるもの。」『預言者』 ジブラン(至光社) 「完全に譲歩しながら服従でもない。」この加減と、わかってもらうのが実に難しい。私は、これが とってもヘタ。 一般人が、ふだんのやりとりで「公案」を意識してるなんてとこは、まぁみたことないですよ。公案って、白を黒、黒を白、って言い含めることなんかじゃないのでしょう? ふつうはコトバというのも大きな媒介作用を持たされてます、そのコトバをどう受け止めるかは、置かれた状況とか関係性に左右される面が大きいのは日常的に事実ですよね。当事者と そうでない人とでは全く受け止め方が違ってくるというのも よくある話。 たとえば、最初に相手の単純な発言を「毒」に値する、とネガティブに受け止めた人その人から返る発言には「毒」や「意図」などない!と断じるような偏ったことだって実際起き得るわけで。 また、同じ人が発した同じコトバが、いつまでも同じ内容と作用を持ち続け、はたらくものだと受け止める必要もないのでしょう、移り変わっていくのだから、何もかもが。それでも それでも、最初に放たれた一矢がもたらした「覆水盆に還らず」ということはあります。 間接とか媒介の作用って、ヘーゲルの哲学にも出てくるそうですが、化学とか いろんな分野で、いや、この世界そのものに重要な現象をもたらします、深いですね、確かに。良い悪いは抜きに。 憧憬も蔑みも注視も優越感情も卑下感情も愛情も憎しみも全部同時に合わさってたりして、その時々で、どれかの部分がニュッと突き出てくる。人間の心なんて矛盾しててアタリマエなのか、どれか一つを正解にできないことも多いものだとは思います。 名をつける前、なにもなかった。 いつしか、あるものに名をつけるのを避けるようになった。名をつける前、なにもなかったというのだから。あるものをなきものにするために。追い続ける口実に。 この地点と、あの地点は、全く同じ地点ではないけど、ニアイコールであることは分かっている、だから移動することが可能になる。 最近、他の人たちにも考えてもらったのは、コトバって人間にとってなんなのか、ということ。 以下は或る人の発言からです。 「設計をやる、という場面を考える。アフォーダンス理論とは、「こう作れば、こういうアフォーダンスが発生する」と言えるほど強度を持った理論ではなく、せいぜい「こういうアフォーダンスが発生することを期待して、こう設計する」としか言えない。その根拠は(アフォーダンス理論ではなく)実は設計者のセンスである。すなわち、「そう設計されたモノと自分が出会ったら何が起こるか」ということを予想して、しかも、それが多くの人と共有されるだろうと期待する、ということに懸かっている。 だが、実際の工業デザインにおいては、やはり多くの人を使って実証実験をやる。だとすれば、「アフォーダンス」は、正解の近似値を手早く見つけられるセンスを持っている人が、なぜそれが正解っぽいのかをセンスのない人に説明するための言葉に過ぎない、と捉えることもできる。 しかし、「そう設計されたモノと自分が出会ったら何が起こるか」を予想する能力はあるのに、それを設計に活かしていない技術者にとっては、アフォーダンスということを意識して設計するだけでセンスある設計ができるようになる。こういう意味では、生産的な意味を持ち得る。 反面、あるモノの発するアフォーダンス(という説明)が誰にとっても絶対に同じ意味を持つ、と思い込むと大間違いをやらかす。 なので、「アフォーダンス」の話に深く頷く人には、「だったら是非、認知心理学(注:本当は生態心理学の流れらしい)を学べ」と勧める。多くの人が不可避的なまでに「共有可能」であるような「外界」のとらえ方、というものだけを扱い、また、そういうものしか扱えないのが認知心理学だから。」 「ある理論を、その適用範囲のど真ん中に来るような経験について適用する場合には、その「理論」なりの整理の仕方ができ、それなりの予測が立つだろう。が、その「理論」を適用範囲ぎりぎり端のあたり或いは、ちょっとはみ出した経験にまで適用しようとすると、いろいろ不都合が生じてくる。 尤も、こういうムリなことをするのは外挿、という創造的試みであって、決してアホなことじゃない。現れた不都合を検分することによって、その「理論」を修正し、その適用範囲を広げたり或いは その「理論」が使えなくなる限界を見極めたりできるのだから。」 「小学生に対して、こともあろうに「どうとく」の時間にこういう話を持ち出す大抵の教師は全く善意でやっているのだけれども批判能力も責任能力もなく、権威の言うことを素直に受け取る、つまり善良なアホなのではないかと思われる。もしそうなら権威筋から「退治しなきゃ」論が聞こえてくれば、それだけで思いとどまるだろう。 信念があってやってる人ならば正面切って事の真偽をはっきりさせようとするだろう。それはそれで結構な話。 だが、既にドップリはまって話を言いふらしてしまったために、コロビしたら問われるであろう責任や恥辱を恐れている、イサギヨくない連中もいるに違いない。こうなると、次第に声を小さくしてフェードアウトするか、それとも開き直って「アッチの世界」に行ってしまうか。 だとすれば、権威筋が「退治しなきゃ」論をぶち挙げた、というニュースが流れるだけで効果は十分期待できるだろう。出来るだけ早い段階で思いとどまらせることで、不毛な実験を繰り返さざるを得なくなる「被害者」や、コロビしなくてはならない状況に陥る「被害者」を減らせる。 「トンデモだ」から「退治しなきゃ」に素早く移行することは、だから、政策として意味のある話だと思う。当の「被害者」の大半は、結論に飛びつくという性質を持っているために、どうせ途中の論理など興味がないのではなかろうか。 言い換えれば、もし臨床心理学の権威筋が上記「被害者」たちの心理をあからさまに解剖して見せたとすると、それはちょっとかわいそうであるばかりか、コロビすることへの抵抗感を増大させるという逆効果を生じそうだ。やっぱり、こういうものは コラ! と一喝するのが、いちばん傷が少なくて済む。」 心理学なら、こういうこともあるようですよ。 http://www.counselingservice.jp/lecture/lec98.html 「円環」にちなんで、こういうのも。 http://www.tkcnf.or.jp/19ao/kaityou1511.html >どのような問題定義か これはですねえ、実際突っ走ってみれば、かなりの部分が、まさに「以心伝心」、直接の当事者どうしではアホらしいほどカンタンな出発点であっても、当事者外、それと むしろ、内部にいる人にこそ、伝えるというよりか理解が思った以上に難しいことなんだなあと痛感するようなことです。第三者であっても分かる人は分かるんだけど、困るのは分からないからというよりも分かりたくない、オマエなればこそ分かってなどやるものか!という人の(ここにも何かの屈折があるのでしょう)、掛け値なしに味わえという教えとは裏腹な独断とか偏見とか高慢、また、そういう視線を向けられてしまう側にも、そういうのを引き起こすだけのものを持っていたということなのでしょう。 最初の最初、原点、原典に戻るべし。だけど、原文や原典を知らない者が どう味わうか。 いろんな解釈があっていい、と言う言いだしっぺが真っ先に実行しないなら私は信用しません。 (このへん、もしかしたら また編集削除されるのかな笑) まぁいずれにせよ、先に裁かれる者は軽い。あとにくる裁きほど重くなる。 悩むときは否応なく悩みます。止められないし無理に止めないです。 厭なもんは厭、嫌いなもんは嫌いって言ってしまいます。 止めると膨れる。 解脱解脱、悟り悟り、って焦ってる人も時々みかけますが 無 でなければならない!と力むこともなかろうですし。 「バカは回るな危険!」 なんで~?(笑)ウォーク ドント ランじゃ だめなの? けど、私も回るつもりサラサラないのに(怠け者やから) まっすぐゴー!って思うときほど回りまくってます結果的に。デンジャラス回り道(笑)オマエみたいな怠け者は、まっすぐストレートに進ませてはやらん、という何者かの思し召しを感じます(笑) I'm back.お茶ちょーだい。すぐに また出かけるけど。いつ帰ってくるかは気の向くまま。
お礼
お礼が遅れてすみません。 >「君が友から離れていくとき、歎いてはならない。君がかれのなかで一番愛してるものは、かれがいないときにこそ、明らかになるのだから。山は、それを目指すものには、平野からこそ明らかに見えるもの。」 近づき触れても見えない、離れれば全体や自分の関わり方も見えてきて、居ないことで達する関係もありそう。ここでもいろんな見解を見聞きして楽しませてもらった。鈍感な私のすることは恩返しどころかひがみ根性丸出しになるため自省しなければなりません! とはいうものの「思いっきり間違うとこ素敵です」という予測つかない既得な方がどっかに居ることを知れて私にとって感謝の対象です。ありがとう。
補足
お茶どーぞ□~ 師匠ならなんて答えてくれるだろうかと考えた「考えるだけ野暮なのよ。だけど無駄じゃない。それで諦めることも出来るから♪」というのだろうか。 西洋ものですが、スピノザやブルーノの凡神論あたりと禅に共通項があるような気がして探っているところです。
- littlekiss
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こんばんは、miko-desiさん。 【三、過去.現在.未来をシフトする】 http://www.geocities.jp/cato1963/toho080125.html 【「中国文学の世界」予習のための問題集】 http://www.geocities.jp/cato1963/chusk-ys.html 『省察』デカルト Renati Descartes 三木清訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
お礼
ありがとうございます。どれも私には難しすぎることもあったのですが興味深く読ませて頂きました。勉強になります。 面白かったのが、そういう装置で脳だけ生かされている人が「私は生きているのですか?生きてると思っているだけなのですか?」で、デカルトもその辺をよくよく考えたのですけど、「我思う故に我あり」というのですから生きてることにしてしまうのかな? 「いったい私は何者から出てきたのであろうか。もちろん私は私自身から、それとも両親から、それとも何か他の、神よりも少く完全なものから。というのは、神よりもいっそう完全なものは、神と同じ程度に完全なものでさえ、何も思惟せられることも想像せられることもできないのであるから。」デカルトの省察より デカルトの考察力、想像力、もう全てが異次元な人に感じますが、あの省察を批判したスピノザもやっぱり凄いです!数学的な考察ってのもよくわからないのですが、やっぱり哲学に重要なことなんですね。論理、倫理、演繹とか。 我が存在していると認めても思惟はイメージで、脳内だけ存在し、外界の場所を取っていないのですから、証拠となる質量がない。夢の中の自分と他人が認識(イメージ)している自分が果たして合致しているものか?自分で思う自分でさえ合致しないことばかりなのに。 禅語?で「本来無一物」本来は全てが無であるのに、人間は執着を持つから「もう知ってる」とか「知りたい」ってなるんでしょうかね?
お礼
お礼がひたすら遅くなりましたが、ありがとうございました。 >公案は不自由な肉体と精神の叩き台となればよい、そこに何も絡めとる仕掛けのない、ひたすらに過ぎる時間の罠かもしれませんね。 時間の感覚や引力?が違っても、というより速度が速い人と話すと影響を受けます。軽くても後で沁みてきたり、どんな仕掛けか探ったりしないんですが、やっぱりどんな人との出会いにも生まれた甲斐が持てればスーっと通ったんでしょう。スーっと・・・。