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なからざるべからず
なからざるべからず の訳し方と文法についてですが 例文 福沢諭吉 文明教育論 永井荷風 一夕 例文の文脈から察するに、「でないべきではない」つまり「であるべきだ」といった訳になるように見受けられます。 ではその文法はどういう構造なのかと思って調べてみると、 「なからざる」は好ましからざるなどと同じで否定ですから 無いの否定。 という意味。 「べからず」はこれも否定で、かつ勧告、命令的意味合いが付与されており、 してはいけない、すべきではない、であるべきではない。 という意味。 総合すると、 無いの否定の否定+であるべきだ となり、つまり ないべきだ といった意味になることになります。 これは、例文の意味の真逆となります。 解説おねがいいたします。
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- OKAT
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古くなってしまったので気が付きませんでしたが、まだ残っていましたか。 文章の強調法にはいろいろありますが、二重否定もその一つであり、反語法もまた一つです。実は三重否定のようなものは存在しない、というのが真実ということで結論を出していいでしょう。「なからざるべからず」と書いた人たちも三重否定の意識は全くなく、単なる強調法として使っていると思われます。結果的に「なし」を否定の意味で使用した意識がなく、注意して読む人に奇異の感をあたえるだけです。前にもいったように、「なし」を用いた時専用の表現法と考えていいと思います。 かくいうわたしも、理屈で解決できるかと考えて、あれこれ迷わせるような恥ずかしい発言もしましたが。
- hakobulu
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#11です。 #12さんに教えていただきたいことがありますので、また、おじゃまします。 1. >あくまでも、 無いの打消し +べしの打消し=打消しの重用=肯定の強意表現 もしくは 「無い」打消し+「ざるべからず」(二重否定での打消し)=打消しの重用=肯定の強意表現 となるのです。 : ご説明の意味がよく飲み込めません。 「なからざるべからず」を品詞分解して、それに対応させる形で教えていただけませんか。 「三重以上に及ぶ打消しの表現であろうとも、何れにせよそれは乃ち肯定の主張であり、その強意の表現となる」らしいことは、当初より、質問者さんをはじめ、みなさん共通の認識だろうと思いますが、なぜ、そうなるのか、という点がわからないわけです。 「肯定の主張であり」とのことですが、「美しからざるべからず」が「美しい」を肯定して「美しくあるべき」という意味になるのはわかります。 それであれば、「なからざるべからず」の場合は、「無い」ということを肯定して「無いという状態であるべき」という意味になるのではないでしょうか、ということです。 2. >これ(「あらざるべからず」ではなく「なからざるべからず」とした理由)は漢文訓読の調子を取って格調を高めつつ、逆接的表現をおこなう「反語法」を選んだからです。 : とおっしゃっておられますが、「なからざるべからず(や)」という意図の文だ、ということでしょうか。 3. >すでに#5で上げた要因を変更するものではありません。 : とのことですが、 『1.様態の形容詞に付く「ざる」→「ずある」→「ぞある」の連動性と単純否定の強調化』 の可能性も排除しないということでしょうか。 以上、質問者さんも知りたい点ではないかと思われますので、よろしくお願いいたします。
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- kine-ore
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#5です。 すでに#5で上げた要因を変更するものではありません。 ここでは、そもそもの質問において、間違いを糺しておくべきでだった点に触れます。 >無いの否定の否定+であるべきだ となり、つまりないべきだ といった意味になることになります。 : ここがそもそも異なります。 #3で上げましたが、それを否定⇒打消しに変更して次のようになります。 「~なからざる」+「べからず」=~なければならない。あってしかるべきだ。 打消し + 打消し =打消しの重用=肯定の強意表現 ですから、そもそも「無いの否定の否定+であるべきだ」でも「つまりないべきだ といった意味になること」では決してありません。そもそも「であるべきだ」や「ないべきだ」との表現自体がありません。 あくまでも、 無いの打消し +べしの打消し=打消しの重用=肯定の強意表現 もしくは 「無い」打消し+「ざるべからず」(二重否定での打消し)=打消しの重用=肯定の強意表現 となるのです。 換言すれば、漢文訓読体においては、打消しの二重表現はもとより、三重以上に及ぶ打消しの表現であろうとも、何れにせよそれは乃ち肯定の主張であり、その強意の表現となるのだという、この一点が肝要なのです。 そしてその和文としての読み方を当てはめるならどうなるか、その一例が#5の回答になります。 この表現形式に接しての原点は、次のように感じるか、感じることができないかの差ともいえます。 #5での言葉を再掲しると、 「何故自身の中で違和を覚えないかという思いから、反復にもなりますが、」 (ここでは再反復になりますが。) 「あわせて他の作家の例もあげておきますが、一向に不自然を覚えません。それは上のような事情からではなかろうかと思うのは後知恵でしかなく、とにかく不自然ではない印象が先立っています。」 (とにかく違和なく通じるだけのことです。) このことで違和を覚える、あるいは合点が行かない人におかれては、単にこのような和漢文式の格調体が慣れない・向かないだけのことでしょう。 ですから、 >なぜ、「ある」の未然形をつかわずにわざわざ「なし」の未然形を「ある」の意味で使っているのかが最大の疑問です。 : これは漢文訓読の調子を取って格調を高めつつ、逆接的表現をおこなう「反語法」を選んだからです。 この表現法の欠点は次の通りです。 「反語法の特色は、正当な表現より効果が倍増するところにあると言えるが、表現のなぞが解けぬまま、その真意を解さない際には、なまじことばの意味が通じてしまうだけに、しまつが悪い。誤解を招いたり、こちらの思想内容を反対にとられてしまうこともある。」 「反語法は、よく相手のレベルを考えて、反語を使うこちらの意図をじゅうぶんに相手がくみとりうるかいなか、本旨ができるかどうかをおもんぱかったうえで用いるべきであろう。」 上記引用:「反語法」の項より(「文章表現辞典」東京堂出版)
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- hakobulu
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#9です。 若干、横レス気味ですが、ご質問の本質にも関わる部分だと思われますのでご容赦ください。 >一それは「あり」の否定であるとすると「存在の形容詞」となり、一方「白いか、そうでないか」のようにいえば「状態(様態)の形容詞」で、その場合には「肯定・否定の意味合いが弱まってしまいます。 : 存在の形容詞と状態(様態)の形容詞の違いはわかりますが、「(白いか、)そうでないか」は「白くあること」の否定ですよね。 端的に申し上げるとと、「ない」に関して、否定でない意味の「状態(様態)の形容詞」という用法があるのだろうか、ということです。あれば、その例を教えていただきたいのです。 そうでなければ、三重否定であることに変わりはないわけですから、問題の解決にはつながらないように思うわけです。
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- OKAT
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継続でコメントをします。 >勧誘・確認・念押し以外は、否定や打ち消し、禁止の意味を含む用法しかないようにも思うのですが。 「ない」(現代語)には形容詞と助動詞があります。この「なからざるべからず」の問題も、この二つの用法差がはっきりしないままなので、余計複雑さを増しているように思います。「なからざる」の「なから」が形容詞の「なし」の未然形で、「ざる」が打消の助動詞「ず」の連体形ですが、この「なし」で始まっているところが問題であり、それは「あり」の否定であるとすると「存在の形容詞」となり、一方「白いか、そうでないか」のようにいえば「状態(様態)の形容詞」で、その場合には「肯定・否定の意味合いが弱まってしまいます。問題は、この「なし」の意味合いをどの程度にとらえていたかということです。 「なし」を否定の一つと数えれば、後に続く「ざる」と最後の「ず」と合わせれば、間違いなく三重否定になり、結論が否定になるという矛盾を来します。ここを矛盾なく済ます為には、「なし」を彼らが異常に軽く考えたとするよりありません。 おっしゃるように「死せざるべからず」は、二重否定で「死ななければいけない」という結論はそのまま受け取るして、「なからざるべからず」と「死せざるべからず」を同列に扱っているのが泉鏡花で、それで少しも矛盾を感じなかったのは、福沢諭吉、永井荷風も同様です。 理論的には分からないままですが、当時の常套的用法だった、で終わるより外に仕様がありません。これを新たな眼で解説する人が現れるのを期待するのみです。
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- hakobulu
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#7ですが、若干、補足させていただきたく、再度おじゃまいたします。 1. 反語の省略と考えた場合、#8さんのおっしゃるように、疑問詞と、「や」や「か」の助詞を同時に省略することは、常識的にはたしかに無理があるかもしれません。 ただ、文脈からして、強調の用法であることは間違いないと思うのですが、反語以外には思い浮かばないですね、今のところは。 それこそ、「当時の常套用法」であった可能性もあるような気もするわけです。 反語自体が元々ややこしい属性を持っているわけですから、「肯定・否定が間違われそうな表現には使われないもの」ということはないように思います。 2. わたしの知識不足だと思うのですが、『様態の形容詞「ない」』というものが、良くわかりません。例文が思い浮かばないのですが、どんな意味でしたっけ。 勧誘・確認・念押し以外は、否定や打ち消し、禁止の意味を含む用法しかないようにも思うのですが。 「雪に変わりは無いじゃなし」の「なし」は、下記辞書の、【9-(ウ)(「…ではないか」などの形で)確認したり念を押したりする意を表す。「あれほど説明したでは―・いか」「やればできるじゃ―・いか」】という用法のつもりで使っているのではないか、と思います。 「雪に変わりは無いじゃない(の)」というような意味。 口語の「ない」と文語の「なし」が、どちらも終止形であるため同じ意味で使える、という勘違いから生まれた表現なのでしょう。 「雪に変わりがあるじゃなし」の場合は、下記辞書の【9-(オ)(「…のではない」などの形で)否定・禁止の意を表す。「人をからかうものでは―・い」「頭で覚えるんじゃ―・い、からだで覚えるんだ」】という(正しい)用法になると思います。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/162263/m1u/%E3%81%AA%E3%81%84/ 3. 「なからざるべからず」限定の問題ではないかという点に関しては同感です。 ただ、「死なざるべからず」は普通の二重否定ですから、同列に論じる必要はないでしょう。
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有り難うございます。
- OKAT
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No.7の方の反論は、直接わたしに対するものでないようですが、No.3の方の解説を支持したものとして、取り敢えず答えておきます。 第一点の接続の問題については、まったく予想しなかったので驚きました。考えれば確かに「ぞ」が接続するのは、名詞の外に活用語の「連体形」「連用形」「已然形」などに付くようですが、「未然形」には接続しません。そうすると、「ぞ+あり」から来た「ざり」という説は取り下げざるを得ないようです。 ただ、これはわたし独自の判断であることをお断りします。 第二点の「なからざるべからず」が反語表現であり、その「や・か」が省略されたものという説には従うことはできません。反語は相手に「反語」であることをはっきりさせる必要があり、そのためのは疑問詞や「や・か」などの助詞の存在が認められることが必要です。(話し言葉の場合には、イントネーションだけで反語の感じを表すことはありますが)それから、反語は結論において否定・肯定の意味が反対になるものです。(「~だろうか、いや~ではない」という定型の言い方があるように)その意味から言うと話題の「なからざるべからず」のような肯定・否定が間違われそうな表現には使われないものと考えるべきでしょう。 さて、それでは改めて「なからざるべからず」はどういう言葉遣いなのかというと、No.5の方がおっしゃる様態の形容詞「ない」の単純化現象であるような気がします。「なし」や「違う」は「否定」と呼び、「ず」や「まじ」の場合は「打消」と呼ぶ、その認識の差が、「ない」を外の動詞など同様に扱い、「雪に変わりは無いじゃなし」と「あるじゃなし」とがどう違うのかはっきりしない。 このように「死なざるべからず」と「なからざるべからず」とをほぼ同列に扱ってしまうところに問題が残る。結局「なからざるべからず」限定の問題ではないかと思います。少なくとも複数の文士が使っている所をみると、前に言ったように当時の常套句であったものと考えます。
お礼
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- hakobulu
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#3さんがおっしゃるように、たしかに、「ざり」には、【係助詞「ぞ」に動詞「あり」の付いた「ぞあり」の転】という用法もあります。 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%81%96%E3%82%8A&match=exact&itemid=DJR_zari_-030 ただ、これは上記用例にもありますが、【てる月の流るる見れば天の川いづるみなとは海にざりける】のように、「にざりける」という形で使われるのが殆どであり、「~がある」や「~である」という意味のようです。 この用法と解釈するならば、「世態人情の観察細微を極むるものざるべからず」となるのが自然でしょう。 原文の場合、係助詞の「ぞ」が「なから」という未然形に接続する形である点も違和感を覚えます。 この「なからざるべからず」は、青空文庫以外でも、伊藤博文が明治21年(1888)憲法草案審議の中で「立憲政治の前提として宗教なからざるべからず」と述べるなど多数使用されており、イレギュラーな表現というわけでもなさそうです。 しかし、おっしゃるように、素直に品詞分解すれば、全く逆の意味になってしまいますよね。 あくまで一素人の個人的見解なのですが、反語である可能性はないでしょうかね。 「世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず(や / か)」のように末尾の「や」(あるいは「か」)が省略されている形ではないだろうか、ということです。 「極めるものがないことがない べきではない+反語(や / か)」という構図で、「極むるものであるべきではない、のだろうか、いや、あるべきだ」という意味。 本来ならば「なかるべからず」で十分なのですが反語を使うことによって強調したい場合には「なからざるべからず(や / か)」と反語を使用したのではないでしょうか。 「どうして」「なぜ」といった疑問視が先行していないので、突飛な発想になってしまうかもしれませんが、話者の無意識としてそういった反語(強調)の意図があったのではないか、という気がします。 青空文庫でも、「なかるべからず」の使用例は「なからざるべからす」よりも多いのですが、福沢諭吉などは、 ・もとより智能を発育するには、少しは文字の心得も[なからざるべからず]といえども、(文明教育論) ・そもそも一国の社会を維持して繁栄幸福を求めんとするには、その社会の公衆に公徳[なかるべからず]。(日本男子論) のように使い分けをしています。 余談ですが、#2さんお示しの「愛と婚姻」で、「子孫なからざるべからず」は反語(の略)と思いますが、他の「窮せざるべからず」「泣かざるべからず」「苦まざるべからず」は、文脈から言って、窮するべき・泣くべき・苦しむべき、といった意味の単純な二重否定でしょう。
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- OKAT
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わたしはNo.3の方の説明で納得しました。しかし、質問者はまだ疑念を持たれている様子です。 補足質問を横取りする形で申し訳ないのでが、話をしてみます。 文字の心得もなからざるべからず(諭吉) これらが話題になった使用例です。 極むるものなからざるべからず(荷風) 子孫なからざるべからず(鏡花) 窮せざるべからず(〃) 泣かざるべからず(〃) 苦まざるべからず(〃) 死せざるべからず(〃) 「なからざるべからず」が一番面倒な内容を持っていますが、その話の前に、「死せざるべからず」を取り上げてみましょう。 死すべし→<死すべからず>→死せ《ざる》べからず 上記のように単純な形から考えます。(これにはまだ否定語も打消もない状態ですから)「べし」(当然を)つければ「死なねばならぬ」「死ななくてはならない」の意味になります。これは筆者が使おうと内容になっていないので、「ず」をつけて打ち消します。<死すべからず>。これで十分役割を果たせるのです。鏡花の文章をお読みいただければ、「死んではいけない」の意味で使われていることは明らかです。 それなのに、実際使っているのは「死せ《ざる》べからず」。この《ざる》を打消にとると、逆の意味になります。だから、《ざる》を強意ととれば<死すべからず>の強い言い方になって、つじつまが合います。 実際には「つじつまを合わせる」という姑息なことをする必要はなく、最初からそのつもりで使ったのですが。<死すべからず>=死せ《ざる》べからず。ということです。鏡花の他の使用例は同じ考え方で説明できます。 同じように考えれば「なからざるべからず」も説明できます。 なかるべし→<なかるべからず>→なから《ざる》べからず = あるべし ← これが言いたかった意味 「なし」が形容詞であり、「ある」が動詞であるため、存在のことを論じる時混乱を起こしやすいのが困ったところですが、まず、 「なかるべし」は「ないという状態であるべきだ」と言う意味。それを打ち消すと<なかるべからず>=「有るべきだ」になります。三人の書き手(諭吉・荷風・鏡花)はこの「有るべきだ」を使ってもよかったのです。ところが、当時の常套用語であった「なから《ざる》べからず」を使いました。この言葉遣いは、我々には三重否定と取られやすい姿をもっています。しかし、《ざる》は否定ではなく、強意的用法に過ぎなかった。これが実相だというのがわたしの解釈です。 さらに言えば、「有ら《ざる》べし」と言ってもよかった。《ざる》が打消でなく強意用法であるなら。しかし、それは当時の常套句ではなかった。そのてめ逆の意味に取られることは予想された。 以上がわたしの解説です。
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- kine-ore
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#3です。 >以上の件についてもすっきりとした反論をいただけるとありがたいです。 : 取り立てて明解な答えをもっているという次第ではありませんが、何故自身の中で違和を覚えないかという思いから、反復にもなりますが、次の様な側面を取り立ててみました。 1.様態の形容詞に付く「ざる」→「ずある」→「ぞある」の連動性と単純否定の強調化 反省せざるべきコト(→反省せずあるコト→反省ぜずにぞあるコト) あらざるべきコト(→あらずあるコト→あらずぞあるコト) なかるべきコト→(なきコト)、なきサマ なからざるべきコト→なからずあるサマ→なからずぞあるサマ 2.当為や禁止の文言に先立つ打消し表現の単純化現象 打消しの助動詞「ざり」には多義性があって、その連体形「ざる」には、動作性名詞や動詞では否定性が明らかでも、それが状態性動詞、ましてこの場合のような形容詞の場合には、しかも第三者が絡まない話者から聞き手への「当為性(可し)」や「禁止性(可からず)」の主張の場合には、その前段はどのような言い回しでも<単純打消し>の枠に収まってしまうのでは、と感じます。 3.様態の形容詞「ない」の単純化現象 ない→なくはない→なくもない→なくもなくない 往時「お座敷小唄」の文句が問題になったことがありました。 「一番の歌詞の♪雪に変りはないじゃなし♪などと意味不明の部分もあります。」 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-ozashikikouta.html この2重否定がかった不自然さも、実は付けるムード語次第で、「ないじゃないの」や、「ないじゃないか」「ないじゃないでもないような」などでは結局は単純否定のままで通りそうです。 動作性表現では排反の反復となるものでも、状態性の形容詞では同意の反復強調になる側面を感じます。 4.「なかるべからず」≒「なからざるべからず」の強意性 同じ著者でも名詞に付帯する場合には、普通の「なかるべからず」となっています。 福沢諭吉「学問のすすめ」だけでも「なかるべからず」…25箇所見つかります。 「またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。」 「その相手の人物次第にておのずからその法の加減もなかるべからず」 「すでにその権義あればまたしたがってその職分なかるべからず。」 「これを健康に保たんとするには、飲食なかるべからず、大気、光線なかるべからず、」 これに対し「なからざるべからず」はご指摘の一文のしかも一か所です。 一方、永井荷風の場合は、「なかるべからず」は青空文庫中で一言もヒットしませんでした。 そして「なからざるべからず」はご指摘の一文のほかに次の一点がありました。 「沙翁劇さを看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。」(「江戸芸術論」) あわせて他の作家の例もあげておきますが、一向に不自然を覚えません。それは上のような事情からではなかろうかと思うのは後知恵でしかなく、とにかく不自然ではない印象が先立っています。 「奉儒(ほうじゆ)の国は子孫なからざるべからずと命ずるに因れり。」(泉鏡花「愛と婚姻」) 「ゆえにその応答、事実に合せざることなからざるべからず。」(井上円了「妖怪玄談」) 「一切の生は終りなからざるべからずですからね。 」(神西清訳アントン・チェーホフ「かもめ」) 「女を口説くにはフットボールの心がけなからざるべからず。」(宮本百合子「獄中への手紙」)
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