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なからざるべからず

なからざるべからず の訳し方と文法についてですが 例文 福沢諭吉 文明教育論 永井荷風 一夕 例文の文脈から察するに、「でないべきではない」つまり「であるべきだ」といった訳になるように見受けられます。 ではその文法はどういう構造なのかと思って調べてみると、 「なからざる」は好ましからざるなどと同じで否定ですから 無いの否定。 という意味。 「べからず」はこれも否定で、かつ勧告、命令的意味合いが付与されており、 してはいけない、すべきではない、であるべきではない。 という意味。 総合すると、 無いの否定の否定+であるべきだ となり、つまり ないべきだ といった意味になることになります。 これは、例文の意味の真逆となります。 解説おねがいいたします。

みんなの回答

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.4

解説をありがとうございました。いや知りませんでした。読む時は読み間違いはしなかったのですが、克明にに見ると、三重否定のように見えてくるのです。  「ざり」は    打消の助動詞「ず」+あり(ラ変動詞) の形しか頭にありませんでした。調べてみたら、日本文法大辞典にも載っていました。    係助詞「ぞ」+あり(ラ変動詞) の形で、平安時代の和歌などに用いられた。「にざりけり」の形が多い。存在・指定の意味を強めていう。  と有りました。こんな形が、近代まで使われていたのですね。    現代のように文語体があまり使われない時代だから、用例が少なくなっているのでしょう。 私からもお礼を申し上げておきます。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

ありがとうございます

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.3

ここでの「ざる」は打消しの助動詞「ず」の連体形ではなく、係助詞「ぞ」+動詞「あり」のついた連語「ぞあり」の変化形としての「ざり」の連体形ですから、結果としては単なる否定(動作が行われないことを表す助動詞であって、「~ない」の意を表す。)であって、「無いの否定」(=二重否定)ではありません。 例) 「要らざる心配だ。」:要らずぞある(コト)→要らない(コト)。 要らない心配だ。余計な心配だ。 また、「べし」やその打消し形「べからず」について、書き手の意志の方向が相手に向く場合は命令形となります。 べし=せよ。するべきだ。しなさい。 べからず=~するな。するべきではない。してはいけない。 「~なからざる」+「べからず」=~なければならない。あってしかるべきだ。   否定     + 否定   =二重否定 例1.福沢諭吉「文明教育論」 「もとより智能を発育するには、少しは<文字の心得もなからざるべからず>といえども、」 現代語訳)言うまでもなく知能の発達のためには、多少は<文字の習得もしなければならない>とはいうものの、 例2.永井荷風 「一夕」 「共に世態人情の観察細微を極むるもの<なからざるべからず>。」 現代語訳)どちらも世情の観察において細微を追及する姿勢が<あってしかるべきだ>。 参照:「学研 国語大辞典」 「ざる・べからず 《連語》 (動詞の未然形につく) [文語体] …しなくてはならない。(参考) 二重否定で、意味を強めた言い方。「日々努力せざるべからず」」

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

補足欄の補足ですが、 引用していただいた「学研 国語大辞典」の例に沿えば、「なから」+「ざる・べからず」で意味は「ない」+「…しなくてはならない。(強調)」となるように思うのです。 そして、さらにそれをふまえると、 福沢諭吉「文明教育論」の例は、  少しは<文字の心得もあらざるべからず>といえども の方がまとものように思えます。 なぜ、「ある」の未然形をつかわずにわざわざ「なし」の未然形を「ある」の意味で使っているのかが最大の疑問です。 永井荷風 「一夕」の場合も同様で、たとえば  世態人情の観察細微を極むるもの<ならざるべからず> の方がまとものように思えます。ここで「なら」は断定のなりをもってきています。 以上の件についてもすっきりとした反論をいただけるとありがたいです。

tklreldmgadfgas
質問者

補足

回答ありがとうございます。 正直、おっしゃっている内容が理解出来ません。すいません。 「要らざる」が「要らない」でしたら、「なからざる」は「なくない」=「ある」 ということになると思うのですが、違うのでしょうか。 そして「べからず」で更に否定されるので最終的には「あってはならない」という意味が文法上は出来上がって、現実の用法の意味している真逆になるのではないでしょうか? という疑問もさることながら、no1さんのお礼欄に書いていることですが、「なからざるべからず」を「あってはならない」「してはならない」という意味で使用することは用法的に間違いなのでしょうか?それともそういう用法はありなのでしょうか? この点だけでも再度返答いただけるとありがたいです。

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.2

困った問題に行き当たりました。前回の回答で「永井荷風」に対して、あるいは失礼なことを言ったのかも知れません。用例を探してみたら、このような例が見つかりました。    古来我国の婚礼は、愛のためにせずして社会のためにす。奉儒(ほうじゆ)の国は子孫なからざるべからずと命ずるに因れり。  婦人の婚姻に因りて得(う)る処のものは概(おほむ)ね斯の如し。而(しかう)して男子もまた、先人曰いはく、「妻なければ楽(たのし)み少く、妻ある身には悲(かな)しみ多し」とそれ然るのみ。  然れども社会は普通の場合に於て、個人的に処し得べきものにあらず。親のために、子のために、夫のために、知己親類のために、奴僕(ぬぼく)のために。町のために、村のために、家のために、窮せざるべからず、泣かざるべからず、苦まざるべからず、甚(はなはだ)しきに至りては死せざるべからず、常に我(われ)といふゟ個簡単なる肉体を超然たらしむることを得で、多々(おほく)他人に因りて左右せられ、是非せられ、猶(なほ)且(か)つ支配さるゝものたり。    (泉鏡花『愛と婚姻』1893年)    この文中の「子孫なからざるべからず」・「窮せざるべからず」・「泣かざるべからず」・「苦まざるべからず」・「死せざるべからず」はいずれも、「子孫がなくてはいけない」・「窮してはいけない」・「泣いてはいけない」・「苦しんではいけない」・「死んではいけない」の意味と受け取れます。  同様に、荷風の場合も「なからざるべからず」は、「なくてはいけない」という意味にとるべきではないかと思います。 どうしてそうなるのか、私には説明できません。しかし、当時はそれが普通の用法だったようです。  このあたりの事情がお分かりの方、よろしくご教授ください。

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.1

 文章には文脈というものがあります。 一、われら折々人に問はるる事あり。先生いつまで小説をかくおつもりなるや。よく根気がつづくものなりよく種がつきぬものなりと。これお世辞なるや冷嘲(れいちょう)なるや我知らず。およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。 ( 「 一夕」 永井荷風)  引用した文を見れば、「なければならない」=「有るべきだ」の意味であることは明らかでしょう。しかし、順を追っている内に分けが分からなくなりやすい言い方ですね。荷風先生には時折そういう文体が見られます。  なから(「ない」の未然形)+ざる(打消の助動詞「ず」の連体形)+べから(当然の助動詞「べし」の未然形)+「ず」(打消の助動詞「ず」の終止形  ないの打消は「ある」+「べきで」+「ない」。あれ、質問者と同じ結論になりましたね。  勢いで読めば、「有るべきだ」の筈が逆になりますね。最後の「打消」が余分だったようです。先生も勢いだけで書いてしまったようです。今更、荷風先生に文句は言えませんし、困りましたね。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答どうも。 追加の質問があります。というかOKATさんの返答を得てこちらの方が本当に聞きたいことだったと思い至ったことであります。 文法的には「無いの否定の否定+であるべきだ」の方が正しいとして、正しいからにはその意味合いで文章を書いてもよいわけですよね?ところが、少なくとも私が少し調べた限りでは「無いの否定の否定+であるべきだ」の意味で「なからざるべからず」が用いられている作品または公式文書は出てこないのです。でてくるのは「あるべきだ」の意味で用いられているものはばかりです。 「無いの否定の否定+であるべきだ」の意味合いで文章を書いても通じますでしょうか?文脈でいつも意味が方向付けられるとは限りませんので、もしどっちにでもとれるような文脈の中で使われる場合、どうしたらよいのでしょうか?

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