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奉公に上がる年令は?
江戸時代、子供が働き出すのは何歳頃からだったのでしょうか。現在のように幼少の子を働かせてはいけない年令制限のようなものがあったのでしょうか。どなたか教えて下さいませんか。
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江戸時代の丁稚奉公には、当時の表現で五歳からという例もありますから、満四歳くらいから奉公に出された場合もあるようです。 現代のような年齢制限や、幼・少年労働に制限は無かったようで、貧困家庭での親孝行として賞賛された場合もあるようです。勿論、仕送りが出来るほどの給金などはありませんが「食い扶持減らし」の意味合いが強かったかと思われます。 幼児に重労働や頭脳労働は無理ですから、掃除や水汲みなどの雑用や、いわゆる下働きが主体でした。年齢と経験を積むと、丁稚から手代へ、手代から番頭へ、番頭から支店の主へと出世(昇進)街道も準備されていました。今日の年功序列に当たります。 「店を出す」までには相当の苦労と、我慢が必要でした。店によっては、景気次第でクビになることもありました。 商店以外にも武家奉公などがありましたが、こちらは余りに幼少な採用はなかったかと思います。 豪農も雑用係として年少者を雇いましたが、子守などもさせられたようです。 幼少から子守などで奉公した女性は「ねえや」などと呼ばれたりもしました。 ねえやがお嫁にゆくときは、奉公家から送り出された場合もあったとか。 事情によっては、ねえやの呼び名が婆やに代わることもあったようです。
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>子供が働き出すのは何歳頃からだったのでしょうか。 どのようなイメージで「働き出す」とお考えになれておられるのでしょうか。 いわゆる家事手伝いという形で、家族の中で一定の役割を果たす、ということでしょうか。 あるいは、家を出て他所で、何らかの義務的な労働をさせらる、ということでしょうか。 >現在のように幼少の子を働かせてはいけない年令制限のようなものがあったのでしょうか。 法制度としての制限はありませんでした。 江戸時代の庶民の生活に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。 江戸や大阪、京都などという都市は江戸時代の日本全体から考えれば極めて例外的な地域です。 時代小説などに描かれている江戸の街の情景を持って「日本の江戸時代」として議論をすると的外れになります。 このような日本全体から言えば例外的な都市での子供の働きと、各藩の領民の子供の働きでは、目的も実態も異なります。 江戸時代というのは家内労働が経済の基本です。工場などというものは存在しません。 江戸、大阪、京都などの都市部の商家では、血縁関係のない人間同士が集団で働いていましたが、形態は家内労働を大規模化しただけのものです。 この組織形態の中では幼少の者はその能力に応じて、一定の仕事を割り振られていました。 同時に、将来のために読み、書き、算盤の基礎を徹底的に教育されました。 衣食住も確保されていました。 わずかではありますが遊ぶための小遣い銭も駄賃という形で手にいれていました。 農村部にあっては家族が総動員で農作業に従事しますので、幼い子供の面倒は年長の子供の役目でした。 これを「働く」とお考えでしょうか。 江戸時代までは幼児死亡率が高いこともあり。子供は七歳までは神様と人間との中間的存在とみなされていました。 「神様からの預かりもの」という考え方です。 この思想に基づいて生まれたのが七五三という子供のための神事です 七歳を過ぎれば、人間としてそれ相応の役割を果たすのは当然のことであると考えられていました。 現代とは、社会制度、生活習慣、価値観が全く異なる時代のお話ですので、再度補足を頂戴できませんでしょうか。
そういう決まりはなかったようです。 世界各地でも14歳には女中として座敷に出されたといいますから。 参考にどうぞ↓ http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/2010/pdf/2010_429_02.pdf