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江戸時代においての一家創立
私の祖母(大正生まれ)がしきりに、「うちは。江戸時代の文久にできた」と言っていました。どうやら、先祖からの言い伝え?らしいのですが、江戸時代に一家創立はありえますか? そのことを嘘をつくにしても、祖母はまともな教育を受けてなく、名前すらまともにに書けないのに、文久時代のことを知っていたのは不思議でなりませんでした。 どうやらわかっている事柄は、町史によると我が家は、源兵衛(文化ー明治)という人は幼少の時から、宿の問屋に勤めていて、ある程度歳になるとその能力を認められ、肝煎役(庄屋)に任じられていた。任じられた歳は不明。文久時代の時の源兵衛の年齢は49歳頃。子供が女子しかいなかったため、他家から養子を迎えていることが分かりました。
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時代に関係なく、独立して居をかまえれば一家創立ですが。 >まともな教育を受けてなく、名前すらまともにに書けないのに、文久時代のことを知っていたのは不思議でなりませんでした。 教育を受けていない、名前もまともに書けないから、無学無知無教養とは限りません。 昔の人は学校で教育を受けていなくても、 長い暮らしの中で必要なことを経験や記憶という事で学習しています。 先祖の言い伝えを忘れず憶えていることは、素晴らしい事だとおもいませんか? お年寄りの記憶は、下手な歴史家より偉大なのです。
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- tanuki4u
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一家創立というか分家はしょっちゅうの話です。 現代人の感覚で言うと、一家創立=分家というのは、会社で言うところの「分社」 各大名家は、夫婦を単位とした自作農を数多く作ることを基本政策にしておりました。 大名というか支配する方からみれば、農業経営中小企業の社長交替が実子になるか養子になるかなんて関係なく、前社長からみれば、自分が引退した段階でちゃんとその後も前社長を食わせてくれる次期社長がいい社長です。 伯父が会社を定年したあと、寺の過去帳を調べた。 その結果わかったのは、うちの先祖は、400年くらいの間に、阿賀野川の上流から、2,3代ごとに分家してきたらしい。分家 分家で 大本から四回ほど移転している。 江戸時代初期は、大規模河川の改修などはできなかったので、扇状地とかが主要な農地。だんだん土木技術が進んで下流部が新田開発されたらしい。