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神は幻想・幻影なのか?
- 神は幻想・幻影であるという文は意味のある文なのか疑問です。
- この文は嘘つきのパラドクスと呼ばれるもので、真偽が定まらない命題です。
- 皆さんのご意見をお聞かせください。関係のある回答を歓迎します。
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質問者が選んだベストアンサー
神は幻想である、と言ったら、そう考えることも幻想かもしれないから、自己言及すると幻想ではなくなります。 パラドックスに陥るのを回避したかったら、自己言及を禁止して、そのまま受け取るしかありません。 だとすると、神は幻想である、その通りです、というしかありません。 そしてその文は意味のある文です。 というのは、神は幻想だと言っているわけですから、ナンセンスなことを言っているのではなく、意味のあることを言っています。 文として成り立っています。 ウィトゲンシュタインのパラドックスの解決法は自己言及せず、そのまま受け取ればよいというものです。 ラッセルの「タイプ・階型理論」なんか無用です。
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- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「神は幻想・幻影である」というのは、自己言及ではない、 単なる形容である。 幻想ならば、元がどうであれ、全否定されておしまいだからだ。 自己言及によるパラドックスにしたければ、「言っている事が 本当なら嘘になり、嘘ならば本当になる」といった形にしない といけない、「神が全知なら、自分が全知かどうか知る事は できない」というような。
お礼
回答、ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんばんは。 ◇ と言いますか、なぜ、それを神として想定したのか、人はそう想定ができるのか。あるいは、そのような能力を人間は生得的に有しているのか? そして、そのように事後承認できるのかが、その判断根拠は何なのかが問題なのでしょうね。 ☆ これは 《非知――人間にとって分かるか分からないかが分からない場――》という想定としてはっきりしているはずなのですが。・・・ ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
☆☆☆ これは 《非知――人間にとって分かるか分からないかが分からない場――》という想定としてはっきりしているはずなのですが。・・・ ◇というお答えを期待し、 bragelonneさんのお考えを、こうした神の考え方、とらえ方もできるのだと、 質問したんです。 まぁ、わたしの質問を読む人の数は限られているでしょうが、 質問を読んだ方、回答を寄せていただいた方が、 神について考えるときに少しでも参考になればと(ポリポリ)。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
ああ、おっしゃる意味がわかりました。 そうですね、まあ、「《神》は《幻想》である。」と言うとすれば、物理的な事実でないもの、空間や時間の形式をもって現象しないものについての主題を見通して取り囲みながら、その{名/表象/概念/観念の集合/推測/類似特性}を掲げつつ、体系的に逸れた一種の知覚であるとうったえる形になっています。 Illusionを物理的事実から体系的に逸れた知覚と定義したのはL.R.グレゴリーでしたが、物理的事実を基軸として言語が構造化されているわけでもなく、知覚が物理的事実をとらえているというべきでもなく、グレゴリーが懸念するように、物理的事実というのが実は本当のくせものなのです。 言及しえないと見通されるものが、主題でありうる。 認知と言語の世界って時間と微妙に異なる変な関係性のなかを進むものですね。
お礼
いろいろな考えが浮かび、頭の中で整理できない状態のまま質問したので、 舌足らずの質問内容になっていたようです。 回答へのお礼を書いているうちに、わたしの頭のなかも少しずつ整理されてきました。 遅れましたが、 回答、ありがとうございました。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
神というものを何とするかによって回答は変わってきます。 神が、人間の知恵の及ばざるところを示す言葉ならば、幻想、幻影という言葉は意味をなさないかもしれません。 しかし、神が何らかの像を示す言葉で、姿形の想起される、中身のある言葉であるならば、神は一種の共同幻想であると言えます。内的な実在、精神世界の産物といってもいいかもしれません。
お礼
回答、ありがとうございます。 おっしゃるとおりだと思います。 ☆、神が何らかの像を示す言葉で、姿形の想起される、中身のある言葉であるならば、神は一種の共同幻想であると言えます。内的な実在、精神世界の産物といってもいいかもしれません。 ◇そして、その神の存在をだれもが認めれば、支配力や強制力の源泉にもなりえます。貨幣や株式、信用と同じように《共同幻想》になりえます。 ただ、こうした神観は、一般からは受け入れられがたいものなのでしょうね。特に信仰を有している人たちからは。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 申し訳ないですが かんたんです。 わたしたちは 《絶対・無限》について ほとんど何も知りません。それでも そういう言葉を持って使っています。 わたしたちは それぞれひとりの人間として存在していて いまたとえばこのような問い求めを行なっている。 けれどもその存在は 時間的なものであって 能力は限られています。が それでも 〔絶対・無限と同じたぐいの言葉として〕《永遠》という言葉をも 何の憂いも疑いもなく かんたんに使っています。 巨人軍は決して《不滅》ではないはずなのに そう堂々と言います。この場合は いわゆる文学的な修辞として使っているだけですが(つまり 単なる強めの表現に過ぎませんが) 考えてみれば《不滅》なるものをわたしたちはまったく知りません。でも 言葉としては持ち得ていて使っています。 《神》も おなじくだと考えます。 《幻影・幻想》であるかどうかとは 別の問題ではないでしょうか。 言葉は シルシであるというのみであり 神や絶対や無限などは それだけではなく人間が《想定した》ものだということだと考えられます。 (ワタシの生まれる前から 神という言葉は使われているのに どうして人間が想定したと言えるか? これは あたらしく生まれて来た人間の一人ひとりが 事後的に承認することになっていると見られることです。誰かが想定したということの事後承認です)。 あるいはまた クレタ人のウソつきのパラドクスは 文学的表現であると見なせば 何らおかしなところはありません。つまり わたし(その話し手)もクレタ人だけれど じっさいもんだい クレタ人はウソつきだよなとその内容を――全員がそうでなくても あたかも全員がそうだと言わんばかりに――強めて言っているということ。これだけのことだと 哲学は 見るはずです。
お礼
こんばんはです。 ☆わたしたちは 《絶対・無限》について ほとんど何も知りません。それでも そういう言葉を持って使っています。 ◇ですね。何も知らずにこれらの言葉を使っています。そして、私以外の人も、わたしがそれらについて抱いているイメージと同じイメージを抱いているであろうと思い込み、その言葉を口にします。 ですから、わたしは、文学的な修辞として使うとき以外、《絶対・無限》という言葉を使わないようにしています。 そして、《無限》は《有限》の否定の意味でしか使わないようにしています。 ☆ 巨人軍は決して《不滅》ではないはずなのに そう堂々と言います。 ◇ドラゴンズのファンではないのですか(ニコニコ)。 ☆ワタシの生まれる前から 神という言葉は使われているのに どうして人間が想定したと言えるか? ◇と言いますか、なぜ、それを神として想定したのか、人はそう想定ができるのか。あるいは、そのような能力を人間は生得的に有しているのか? そして、そのように事後承認できるのかが、その判断根拠は何なのかが問題なのでしょうね。 《神さま》がいれば、???を神として感じる、直観できる能力を有していれば別ですけれど。そして、この時は、おそらく、神はいると言ってもいいのかも知れませんね。 ☆ あるいはまた クレタ人のウソつきのパラドクスは 文学的表現であると見なせば 何らおかしなところはありません。つまり わたし(その話し手)もクレタ人だけれど じっさいもんだい クレタ人はウソつきだよなとその内容を――全員がそうでなくても あたかも全員がそうだと言わんばかりに――強めて言っているということ。これだけのことだと 哲学は 見るはずです。 ◇まぁ、この文を論理学の全称命題と考え、あれこれ議論するのは、論理学の専門家や議論好きの変人(?)くらいのものでしょうね。 ですが、 「神は幻想・幻影である」 は違いますよね。 ここで使われている《神》は、具体なのか、抽象なのか、いわゆる神体験なのか、それすらもわからない。 な~んもわからない(笑い)。
「神は幻想・幻影である」……「文」としては、一見整っているようであるが、「論理的に」は、全く意味が無い。なぜなら、「神」は、信仰の対象となる存在であり、様々な概念に用いられる存在であり、「幻想・幻影」とか「実在」というような観点から論じられる存在ではないから。 したがって、いわゆる《嘘つきのパラドクス》に該当させて、論じるべきものでもありません。《嘘つきのパラドクス》の乱用ですね。 それよりも、『これは、いわゆる《嘘つきのパラドクス》と呼ばれるもので、「眠り猫は嘘つきである」…………主張なのでは?』が、文章として、まったく論理的でなく、何を言いたいのかさっぱり理解できません。失礼<(_ _)><(_ _)>
お礼
回答、ありがとうございます。 ☆「神は幻想・幻影である」……「文」としては、一見整っているようであるが、「論理的に」は、全く意味が無い。なぜなら、「神」は、信仰の対象となる存在であり、様々な概念に用いられる存在であり、「幻想・幻影」とか「実在」というような観点から論じられる存在ではないから。 ◇おっしゃりたいことはわかるのですけれども、 また、信仰についてとやかくいうつもりでもないのですが、 信仰の対象であるとするならば、その神なるものはまったくの虚構の可能性があるわけですよね。 であるとするならば、 その神なる存在について実在といったような哲学的な観点からのアプローチがあって然るべきであろうし、神についてよく知るためにも、このことは必要と思うのですが・・・。 信仰についてかかわる問題だから、それは信仰の文脈においてのみ語るべきである、とおっしゃりたいのですか? 回答への批判や反論ではなく、わたしの素朴な疑問です。 この件についてお考えをうかがいたい、と思いましたので。 ☆したがって、いわゆる《嘘つきのパラドクス》に該当させて、論じるべきものでもありません。《嘘つきのパラドクス》の乱用ですね。 ◇ですか? 言葉の多義性・曖昧さ、文の意味・内容などから、わたしの目には、場合によっては、自己言及型のパラドキシカルな状況が発生するように見えるのですが。 ☆それよりも、『これは、いわゆる《嘘つきのパラドクス》と呼ばれるもので、「眠り猫は嘘つきである」…………主張なのでは?』が、文章として、まったく論理的でなく、何を言いたいのかさっぱり理解できません。失礼<(_ _)><(_ _)> ◇「(わたくし)眠り猫は嘘つきである」というのは半分おふざけも入っているのですけれども、クレタ人(クレタに住む人)はマズいなと思って、オリジナルの《クレタ人》を《眠り猫》に変えました。 ───わたくし・眠り猫ならば、実害がない!! 現にわたしのことを嘘つきだと思っている人もいるかもしれませんし(ニコニコ)─── 「わたしは、ここ(「」)の中で嘘をついている」 でも良かったのですけれども、 できるだけオリジナルに近いものをと思いまして、あのように書きました。 こちらの方が良かったですか? 不愉快な印象を与えたのでしたら、ここにお詫びします。
補足
質問中の記述が言葉足らずだったのかもしれませんが、 わたし(眠り猫)が 「眠り猫(わたし)は嘘つきである」 と言うと、 これは論理的に無意味な発言になるということをいう意味です。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
発話するものと言語で対象化されるものが同一だと、 パラドクサルに、行為が真なら内容が偽、行為が偽なら内容が真、といったケースが生じうるでしょうが、 質問者さんは「神は幻想・幻影である」のどこらへんを そのように受け止められたのか、補っていただけませんか?
お礼
こんばんは。 そして、回答、ありがとうございます。 ☆質問者さんは「神は幻想・幻影である」のどこらへんを そのように受け止められたのか、補っていただけませんか? ◇一つには、《神》という単語の指し示す内容・意味が曖昧であるということです。 この《神》が《観念としての神》、あるいは、宗教の教義上存在が想定される《神》ならば、意味は通じます。しかし、「神は幻想・幻影である」の文脈で語られる場合、通常、神は実在しないということを意味することが普通です。ここでは、神の意味のすり替えが行われている。 そして、言葉の持つ意味の曖昧さが、「クレタ人は嘘つきだ」をパラドキシカルに感じさせる一因でもあります。例えば、論理的には、これは全称なのか、特称なのかがわからない。それによって、「クレタ人は嘘つきだ」の扱い方が変わってきます。 また、「○○はマボロシである」は、「いま見えている○○は、○○のマボロシであって、○○そのものではない」という意味の場合もあります。砂漠で見えるオアシスのマボロシ、蜃気楼がその好例でしょう。そして、これは真偽を確かめることができます。 しかし、この○○が神となると、事情は一変します。我々にはもはやこの真偽を確かめる術がないので。にもかかわらず、神の実在を想定し、それは神のマボロシであって、《本当》の神ではないのだよ、と語る。そして、経験事象的にいえば、「在るけれど、無い。でも、在る」と言っているのと同じこと。 この場合、 《嘘つきのパラドクス》と非常に似た構造になっているのではないか? 自己言及をしているのでは? また、NO1のお礼欄に書いたことや、それ以外のことなどもいろいろと考えまして、その判断根拠の一つにするために、質問いたしました。
念のためですが。 両論を書くやつというのは 眠りネコさんのことではありませんよ。 誤解していたら、すみません。 あとで気がつきました。 あの質問者なんかやけに私を敵対視しているような。 意味不明。 それはそうと 神がすべてだとすると幻想だろうし、幻影ということになると思います。 面白いです。 神が無というのは神秘主義とかでしょうから そちらのほうになるかも。
お礼
回答ありがとうございます。 ☆あの質問者なんかやけに私を敵対視しているような。 ◇いえいえ、そういうワケでは、けっしてありません。 哲学カテの回答で、時々、《共同幻想》という言葉を目にするのですが、 今日、ふっと、頭の中に 「そもそも《共同幻想》とは、何じゃろほい!!」と思って、ググってみたんですよ。 そうしたら、 ───────── 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉である。吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%B9%BB%E6%83%B3 ───────── とあって、わたしのイメージしていた《共同幻想》と意味内容が少し異なっていた。 さらに、 ───────── 共同幻想 個人と他者との公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合がこれに当たる。また、宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 ───────── とありまして、 じゃぁ、宗教の大本である《神さま》はどうなのだろう? と疑問に思ったのが、この質問の出発点。 宗教や教団は実在する(?)から、宗教の教義は別にして、それが存在していることは人には分かる、その存在を理解することはできる。そして、宗教という単語の指し示すもの、意味、内容はある。 しかし、「神は(共同or集団)幻想である」は、これとは少し違うんですよ。 宗教や教団とは異なり、神について私たちは何も知りません。 神の姿を見たことも聞いたこともない。 神の外延や内包が定まっていない。 にもかかわらず、《神》という単語がある。 単語や概念があるということは、とりあえず、それを指し示す《対象》がなければおかしい。 あるいは、 私たちは、誰から教わることもなく神のついて知っていて、それが神であるのか、ないのか、その判断をくだす能力が先天的に備わっていなければならない。 などとあれこれ色んなことを考えまして、 「これってもしかしたら自己言及型のパラドクスでは?」 というのは、わたしが導いたいくつかある考えの一つ。 それで、質問しました。 誰か特定の人や考えを念頭にして、この質問をしたわけではありません。
補足
補足です。 ヴェーダなどにあるような「幻のごとき」という比喩表現ならばわからないのでもないのですが・・・。 これは、 神という心象、観念、イメージ、ヴィジョンは幻のようなものではないあって、神自体ではない などの意味ですから。
お礼
《幻想》という言葉に《虚偽性》といったネガティヴなイメージをわたしが抱いているために、そう感じたのかもしれません。 回答、ありがとうございます。