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パラドックスは人間の概念形成による潜在意識から起こる?
- パラドックスは人間の概念形成による潜在意識から起こるの?( ゜o゜)ノこらぁ!
- 人間の概念は3才までに形成される。それなら、本当はパラドックスは無いの?( ´ゝ`) 無
- ウィトゲンシュタインのパラドックス 「規則のパラドックス」や「私的言語のパラドックス」「ラッセルのパラドックス」=理髪師のパラドックスとは,「ある町で,この理髪師は(自分の髭を剃らない人)すべての髭を剃る.ではこの理髪師は自分の髭を剃るのだろうか?」というもの.自分で髭を剃らないのであれば,自分で髭を剃らなくてはならないし,自分で髭を剃るのであれば,自分で髭を剃らない結果となる.「自己言及のパラドックス」彼ら(=クレタ人)のうちの一人、預言者自身が次のように言いました。 「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ」
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○「ラッセルのパラドックス」=理髪師のパラドックスとは, 「ある町で,この理髪師は(自分の髭を剃らない人)すべての髭を剃る.ではこの理髪師は自分の髭を剃るのだろうか?」 というもの.自分で髭を剃らないのであれば,自分で髭を剃らなくてはならないし,自分で髭を剃るのであれば,自分で髭を剃らない結果となる. この条件では、パラドクスは発生しない。 《理髪師がこの町に住んでいなければよい。》 なので、パラドクスにするためには、理髪師がこの町で住んでいることを条件に加えなければならない。 なんてねぇ、ちょっと意地悪をしてみました。このラッセルのパラドックスしっていたもので。 このパラドクス回避の解決策の一つは、「そのような町は存在しない」とすることです。 このような町を存在するとするから、パラドクスが発生する。ならば、そのような町はないことしてしまえばよい。「あったら、なくしてしまえ!!」これでパラドクスは回避出来る(笑い) いわゆる《嘘つきのパラドクス》は、その真理値が0でも1でもないので、本物のパラドクスではない。この主張、言明にはもともと意味がない。 とパラドクスから排除できます。 ヴィッドゲンシュタインのパラドクスはともかくとして、 《理髪師のパラドクス》の解決策は、《そのような町は存在しない》あるいは、《あったら、パラドクス回避のために、この世から消滅させる、消し去る》です。 ラッセルはこの立場から自身の集合論を作った。 いかがでしょうか? ○パラドックスは人間の概念形成による潜在意識から起こるの?( ゜o゜)ノこらぁ! 人間の概念は3才までに形成される。それなら、本当はパラドックスは無いの?( ´ゝ`) 無 もし人間が3才児程度の知能、概念レベルのままなら、このようなパラドクスを思いつかないでしょうから、パラドクスは存在しなかったのではないでしょうか。 数学や論理学、自然にあったものではなく、人間が作ったものですので。人間がお利口になったばかりに、これらのパラドクスやさまざまな社会矛盾が発生したと思います。
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>パラドックスは人間の概念形成による潜在意識から起こるの? そうだと思います。 >人間の概念は3才までに形成される。それなら、本当はパラドックスは無いの? そうですね基本ないですよ、概念上の問題ですね。概念以外でパラドックスというのがあれば見てみたい。おそらくないですね。
お礼
こんばんは。 早々の御退会のようですが。 >概念以外でパラドックスというのがあれば見てみたい< そうなんですよね。
- 雪中庵(@psytex)
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パラドックスを不思議がる前に、パラドックスでない物 (有限な形質をもって独立した実体)をしっかり把握され る事をお勧めします。 それが、対象を本質的原理性まで把握せず、階層現象を 表面的に(いい加減に)把握(経験の蓄積による予測) する事によって生じている事が分かります。 本来存在は、性質とそれが属する位置の両立において 実体をなすと考えられ、「正確に知る」というのは、それら 両方の不確かさを収斂させていく事だと考えられていた のが、不確定性原理において、その位置(S)と運動量(St)、 時点(T)と質量(Ts)の対がそれぞれ相補的不確定性を 成し、一方を確定化しようとすれば他方が無限不確定性 に発散する事が明らかとなった。 パラドックスが既成概念によって生じるのではなく、 パラドックスではない物が、既成概念によって生じるのだ。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね、人はパラドックスでない物(有限な形質をもって独立した実体)を把握して考えることのほうが大切なようです。 たとえ、人は誰もが知恵による概念(物差し=知識から)が違っていても、人は知恵が唯一の他の生物より優れたよりどころのようです。 物理学者はパラドックスがないように、観測により物理法則を創っていくようですが。新たな物差しや観測の範囲がひろがると物理法則も変わります。物理学者の物理法則はパラドックスを無くすことのようです。 ウィトゲンシュタインのパラドックスは知恵による概念(物差し=知識から)の違いであり、パラドックスは、人の物差しの差が引き起こすのかもしれません。知恵の無い生物は、言葉や概念を使わないような気がしたのです。
お礼
ご回答有難うございます。 ウィトゲンシュタインは人間の赤ん坊は、親のまねをすることにより言葉や概念を覚えてゆくのであり、初めは自分と他人の区別がつかないということに注目したのではないかと思います。 「規則のパラドックス」では、小さな子供にとっては机と椅子の関係は、(おおきな建物の中に机があれば)この大きな物の中の机は=椅子であり、大人の概念とは違うものである。 数学の足し算に於いても、0から1づつ足していくと、1000の次は1002のようです。3歳の子供にとってのかくれんぼは、自分の目を塞ぐことのようですし、人の概念形成は4歳ごろに確立される。 「私的言語のパラドックス」では、人が「痛い」といった場合、まず自分が「痛い」という経験をもっていて、相手が「痛い」という経験がなければならない。次に、自分の「痛い」という表情を相手が「痛いんだな」「痛がっているんだな」と読み取り,痛いという経験と照らし合わせて「痛い」と感じなければならない。しかも、言語や経験と言う個々の別々に形成された概念に於いてである。人称の間に非対称性がある。 ウィトゲンシュタインは、自分が相手に伝えたいことは何一つ正確に伝わらない、人間は「たまたまの孤独」である。彼は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」といっているようです。 私は、この言葉に釈迦の分からないことは無記としたことに通じるものを感じ取りました。人間は、余計な概念に悩まされているのかもしれません。 >数学や論理学、自然にあったものではなく、人間が作ったものですので。人間がお利口になったばかりに、これらのパラドクスやさまざまな社会矛盾が発生したと思います。< おっしゃる通りかもしれません。概念にこだわる頭のいい「お利口さん」ほど「たまたまの孤独」になるのでしょうか。(笑) 神の存在証明は「文法上の位置」にすればいいそうです。神は「完全である」。神は最高に善である。神は最高に美である。神は最高に存在する。 しかし、ウィトゲンシュタインに於いては、神も私も「たまたまの孤独なもの」が存在しなければ、存在したことにはならないんだって。(笑)