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この世界はわれわれのものではないのか?
- イエスの言葉から考えると、この世界はわれわれのものではなく、わたしたちは世に属していないとされる。
- また、世界はイエスを憎み、わたしたちも同様に憎まれる可能性がある。
- 一方で、「寄留」という言葉から、わたしたちはこの世に生きながらもイエスに属し、彼を受け入れなかった世界で暮らすべきか考える。
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質問者が選んだベストアンサー
世=世間(キリスト者でない人たち) あなたがた=キリスト者=イエスに属する者 この解釈で読んだ場合 《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》 を、どう受け止めればいいんでしょうか。 《まっとうする》は、《キリスト者としてまっとうする》ということでしょうか。 《イエスに属する者は》となっているから、そう受け止められるのですが。 そして次の▲では、彼、世、につづいて“自分”がでてきて分かりづらいです。 また、世は彼によってできた、というところもどう受け止めればいいのでしょう。 全体としても分かりづらいです。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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☆ 長いモノには しっぽを切るのではなく あたまを狙え それをいっちゃぁ・・・ 寸止め、が良いと思います。
お礼
景気がわるいようですね。 何に誰に遠慮しているのでしょう。 まぁ 生活があり大事だというところはあるのでしょうか。 やっぱし先へ先へとは こちらもすすめづらい。ようにも思われました。 諦めませんが。 わいわいえいとさん ご回答をありがとうございます。 さらに何かありましたら むろん お寄せください。
- Y Y(@yy8yy8az)
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ブラジュロンヌさん、 結構、イラついていますね。 ☆ 長い物には巻かれよ こんな言葉を思い出します。 個々に身近な世界ではそんな印象も持ちますが、俯瞰すれば遅ればせながら、の感はありますが結構頑張っているように思います。 また、頑張らねばならない状況が、寒気が居座る如く有るようにも思います。 踏ん張りどころ、ではないでしょうか。 独り言(愛だの恋だのは人生相談カテなんだよね)
お礼
わいわいえいとさん。ご回答をありがとうございます。 ☆ 長い物には巻かれよ ○ は いちばん嫌いな言葉です。 たぶん 現状をわいわいえいとさんは 言っておられる。そのことの例示が 上のことわざである。と思われます。 つまり です。つまり 現状を打破する言葉は 聞こえて来ませんか? という問いでもあります。 何が何でも あたらしいものをということでもないでしょうが それでも ふつうにも そこここに顔を出しているものではないですか? みなさん やはり――がんばっているのでしょうが がんばっていると思えば思うほど―― いったいどこへ向かっているのか これが分からないでいる。と思います。 そういう意味では やはり しょぼい。世の中は しょぼい声しか聞こえて来ない。 ☆ 長いモノには しっぽを切るのではなく あたまを狙え。 とでも言っているようなことにはならないですかねぇ。
- Y Y(@yy8yy8az)
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ブラジュロンヌさんが取り上げた“聖書のくだり”は質問の意図にはそぐわないのでは・・・ 取り上げた“聖書のくだり”を、 「この世は神が作ったにも関わらずそのことを知らない世の人々がいて、それゆえにその人々はキリスト者を憎む」 と、受け止めてみれば・・・ 迫害する人たちと、される人々のことを信仰の有無を通して語っているように思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ・・・と、受け止めてみれば・・・ 迫害する人たちと、される人々のことを信仰の有無を通して語っているように思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ。えぇ そうでしたね。文脈の中の意味は そうなると思います。 ううーん。ですから そこから意味を広げて もし多少とも迫害を受けるなら 生きづらい部分が出来て来ます。それに関連して 世間に対して遠慮をするような心持ちになる。しかもそれが キリスト者であるとないとを問わず 同じような引っ込み思案のような姿勢になる。かも知れない。・・・ 顎を挙げて前を見て生きるという姿勢が とぼしいというように――キリスト者であるとないとを問わず――感じたものですから。 つまり もっとはっきり言うならば この哲学カテでの回答ややり取りにおいて 人びとはまるで世間のつき合いのごとく そのおつき合いの姿勢をくづさず相手へのエチケットのような――とっつきの段階での――思いやりのみを述べて 話をおこなっている。のではないか? もう一歩先へということは 見られるべくもないような。・・・ 元気がない。という言い方にもなりますが 何とも さえない。のではないでしょうか? どこかへ追いやられて 仮りの宿で生活をおくっている。というような《寄留》の民であるかのように思えるのですが ちがっていましょうか?
- ukiyotonbo
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この世界は暉彦の母親の臍の中にアル。
お礼
そうですね。わいわいえいとさん まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ひとつには――この質問のコンタンをバラすとすればですが―― 要するに 人びとはこの世に対して・という意味は 一般に地位の高い人・えらい人に対して どうも遠慮して生きている。のではないか? という思いがつよくわたしの中に起きます。 ですから もうひとつには この問題をわざと聖書のくだりを持ち出して どう捉えるのがよいか? これを考えてもらおうと思った。――ここから質問におよびました。 そして じっさいわたし自身も 《寄留》という――そうとすれば遠慮がちな――生き方について必ずしも分かっているわけではない。――という背景としての事情です。 太宰治〔流〕は 生まれて来てすみませんといった引っ込み思案ですよね。 そこまでではなくても もっとこの社会・このクニは われわれのものであると 堂々と胸を張って宣言した上で どうあたらしくつくって行くか。こうでなければ・そしてこれを考えないなら 何にもならない。と思うからです。 ぎゃくに質問をされて考えたのですが たとえば: ★ 世は彼によってできた、というところもどう受け止めればいいのでしょう。 ☆ これは やはり世の中に自分の場を占めて生きることに多少とも遠慮をしているのでしょうか。 しかも 遠慮しつつも やはり何のうれいもなく それでもこの世は われわれの生きる場であり みんなのものであると堂々と言っている。と思います。 寄留する者というだけではなく 場合によっては人から見れば まるで逃亡者であるかのごとく生まれて来ただけで(何もわるいことをしていないのに) 世間に負い目を負って生きなければならないなどという思いをもって暮らしている。かも知れない。 何とかなりませんか? という問いです。