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ユダの福音書の何が注目されるのか
その意義が飲み込めません。おしえてください。 ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。 ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8 (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、 (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですが (1)の事項は もし ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 ☆ ですから 特別のことではないでしょう。もし ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。 次に(2)の事項についてですが ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11 スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。 けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」 ☆ と言われていますから。 よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。
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追伸:核心をついてきましたね。まず、「そのように私は聞いています。」 イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかったと見るのですね。実際もユダヤの王として処刑されています。ユダヤのローカル救世主が世界宗教になった理由は「普遍的な隣人愛」の教えゆえですね。でも教義にユダヤのローカル思想が含まれている点が悩ましいことなんですね。このローカルの教えが多くの人々に迷いをもたらしているわけです。 ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。イエス様も長生きしていればもっとすっきりしていたと思います。3年は短かすぎますね。 ☆ というのであるなら、ユダがイエスを売ったとしても、それは予定の行動であった。ならば、このユダにしてもパウロと同じようにキリスト者として起ち上がって生きたとしてもおかしくないと思えるのですよね。 そのように考えられますね。でもユダはパウロと違って罪の重さに耐え切れるような人物ではなかったということでしょう。パウロは救世主を屠る側に立ち弟子まで石打で殺してます。それでもその罪を背負って信仰に生きました。強くて立派なかたですね。後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。救世主やその弟子を屠った極重悪人の自分でも救われるのだからといいたかったんでしょう。宗教的な者の中にはこのようなお方もいるということですね。ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。 更に:弟子の仕事に着目してください。 イエスのような大救世主が世に出る時はその舞台を成功させるために多くの取り巻きが同時に出るのです。縁ある弟子ですね。弟子の仕事は師を守って師により多くの法を説いてもらうのが仕事です。たとえ師が迷っても身を挺して守るのが弟子の務めですね。ペテロよユダよおまえは・・といわれても動じずに守るべきだったという考えもあるのですね。イエスの愛の教えには差別が一切無いのですね、たとえ娼婦・悪人・殺人者であってもです。 「それ故舞台劇には裏切り者も予定されていたのかもしれません。ユダも自殺せずにパウロのように罪を背負って信仰者として生き抜けばまた別の道が開けたと私も思いたいですね。もしそのようであったならユダの福音書にも大いなる福音があったでしょうね。」これは私個人の感想です。
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- arayata333
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《4次元を超えた》? 超自然のことですか? 超自然というとこうことならそうですよね。 自然界しか見えないといっても自然の根拠は《無思考》あるいは考えることの不可能な謎の上にたっているのですから、 超自然を否定できる人はいないはずです。 ただ 神とは その時人間の心が発見した価値とか意味の世界をともなう超自然です。 一見、この考えはただの都合のいい謎の解釈とおもうかもしれませんが、 わたしにとっては最後にはこれがむしろ自然なことと思えているということです。 なら、その>突然変異<なら いつかやってくるに決まっているというような感じでしょうか。 わたしにとっては議論するという問題ではなくて感性の発達の問題です。 またまた感性の世界となってしまいましたが^^。 それでは これで。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 今回は 《世次元を超える》と《復活》という話題の二点とも 舌足らずだったようです。 ★ 復活 と 突然変異 ☆ については 等号で結ぼうとしたのではありません。 《復活》は 将来への希望のような宿題です。いますぐ どうこうということではない。とともに つねに この経験世界(つまり 四次元世界)を超えたところから いまにも 何か 光が差すということかも知れない。といった《希望のような宿題》です。言いかえると ▲ 永遠の生命 ☆ のことです。奇妙奇天烈 前代未聞 奇想天外 驚天動地のドグマです。これを与えるために キリストは この世に来たし 十字架上に去って行ったという物語のことです。あくまで 一人ひとりの主観の問題です。 ちなみに ★ 心 ☆ をも超えていますよ。 では では。
- arayata333
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最近、話題となったダビンチ・コードについては 私も知りません。 これは、ただの映画ビジネスのための作り話と思ってました。 それで興味が無かったのです。 * 「使徒行伝」とかは読んでませんでした。 聖霊とか異語という言葉は 怪しげ^^ですが、 ここからキリスト教が世界に広まったことを考えると、感慨深いところですね。 ご紹介ありがとうございました。 * 私の方からの回答は、私が一番重要だと思っていた次のbrageloneさんの質問の方へ移らせていただきます。 * なお、一言だけ付け加えますが、 私はへんなキリスト者かもしれません。 キリストの復活を事実とは思えないでいるからです。 つまりそのへんは キグルミさんに似てるのかもしれないわけです。 パウロ達の 布教の使命感からの方便のような形でパウロ達によって創作されたものと思い込んでましたし、 今でもそのような経過で生まれたのだと思えています。 ここが使徒行録とかを読んでなかった人間ということなのかもしれませんし、 その辺は自分でもよく解かりません。 ただ、それだからといって、キリストの言葉を理解できるだけでも、あるいはそれに近い状態でも復活には意義があるし、 神の信仰の内に、自然に復活も自然だと思いこんでるので、 ともかくキリスト教のいう復活は、ほんとうにあると思っているので、 問題は無いと思うのですが。 もちろん、それはキリストの言葉から教わったから、気がついたというか この考えにいたったことです。 すごい世界ですよね。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ キリストの復活を事実とは思えないでいるからです。 つまりそのへんは キグルミさんに似てるのかもしれないわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 四次元を超えるかどうか――また超えたとした場合 それを 人間の想像の産物として 捉えてしまっているかどうか――で その人の思想は 違って来るはづです。 アニメの世界で 登場人物が 《四次元を超えた》と言ったら そういう物語の世界だと思ってしまう。これは 精神ないし理性の天井を超えたくないと言い張っているのだと思います。 だれも――キリスト者のだれも―― ★ キリストの復活を事実 ☆ だと言う人はいません。上のように無根拠の世界を想定している つまりは 信仰の世界をも わが主観に 持っている。そのとき ★ 復活 ☆ についても 将来すべきものとして 臨んでいる。という意味です。突然変異が起こらないとも限らないじゃないですか。 それでは また 新しい舞台にて。
- arayata333
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またまた、「もっと強くなりなさい」というキリスト者からの叱咤激励と受け取りました。 ありがとうございます。 ただ、日本の「恥」の文化について、その何を持って閉じられた美学とするのか? そのへんがよく解からない鈍感な者ですので、(あえて、という形でもありますが) 質問させていただきます。 わたしは、「真心」の無い世界での道徳文化は 非常に危うい世界、逆の世界も多々生んでしまう世界、偽善や嘘のみか反逆としての悪の衝動さへ生んでしまいかねない世界とは思っていますが、 道徳もまた すばらしい世界であり、かつ「真心」を一度知った人間の知能には命がけで守るべき大切な、よりいっそうの「べき」の世界と心得ています。 そのへんを brageloneさん式に言えば、先に《信仰》が必要となるのでしょう。 私たちの命が与えられている存在であることの気づきとそういう《はからい》の下の私たちであるという社会性に気がつくべきだということなのでしょう。 そして、その上での道徳として、ユダ以外の弟子達は伝道に命をかけたということを 今回のコメントに記したのでしょう。 が、立派であるかどうかという価値の世界を そこではどう扱うのでしょうか? * アメーバが努力してるかは知りません。 ゴキブリがなんら努力して生きてるかどうかは知りません。 虫のことはこの際無視するとしてもです。 では 動物はどうなのか? すくなくとも 神よりは努力しなければ生きられない存在ですよね。 では人間の脳が 置かれてる状況を考えた時、人間はどうですか? どんな屑でさへ、 神様よりは立派じゃないのですか? これを言うと(別にむずかしいことではないと思うのですが)頭がこんがらがる人もいるかとおもいます。 そちらには、個人的には言う必要なんて無いことでしょうが、ここは、出来うる限りことを解かりやすく書いてみたいです。 多少 頭のこんがらがる人がいたとしてもです^^。 * つまり、 やっぱりユダは、 わたしよりは「立派」であった可能性があった“かもしれない”ということは、 別に内向きとかいうことではないということだと思うのですが どうですか? ということです。 * さらに 事をはっきりさせるべく、 二つの円で説明してみます。 一つの円には、その内側にさらに小さな円がいくつも入っています。 もう一つの円には、中心点があり そこから放射状に円を突き抜けて外側に矢印がたくさん書かれているという 便宜上の図です。 円が個人の意識と考えてください。 円内の円の意識には 怒りとか悲しみとかの動物にもある感情の他、 人間ならば「人への感謝」とか「人への尊敬」とか さらには「愛」とか「慈悲」とか 、それこそ「恥の文化」とか「道徳」とかいう言葉で表わすこともできる概念の円さへあるのですが、 すべては見返りをどこかに隠し期待しているところの大きな自己円に閉じられた世界です。 もう一方の、円の中心点は、それを言葉にするなら「幸せ」とか「幸福」として定義できるものがその点なのですが、 これを知的には真の信仰とか「真心の源泉」、あるいは哲学的に厳密な意味合いとしては「リスペクトの源泉」とか、 あるいは神話的には霊の息吹とか、いった一点があり、それが個人の意識を超えて 他の「友」への世界に向かってゆく線として考えるわけです。 この二つの円の 動物にもある状態から 人間のみの開かれた円への過程が この場合の人生修行の道場^^です。 * キリストは、開かれよさらに開かれよ、そして生物でありつつ、もっと強くあれと、私たちをいざないつづけていますが、 二つ目の円を獲得しない人たちにても努力それ自体の価値というものはあると思います。 そういう人たちが 人生道場にて命がけの勇気を振り絞って「べき」を実行する姿を 私は 私より「立派」としか表現しようがないです。 * ともかく、ユダのことは、 あのレオナルド・ダビンチが 応援者になってしまった悪者ユダのイメージとは真逆の人間ではあったのかもしれない。 その可能性に brageloneさんが感銘を受けたのだと思ってしまったということです^^。 読解力の浅さで笑。 別に弁明するほどのことでもないのですが、 この議論の真意のあたりをより鮮明に解かりやすくできたらと思い またまた付け加えておきました。 * 「まごころ」の宣伝に命をかけるべき人間が “「べき」の人”≒“恥の文化”に負けてはならないところですよね。 叱咤激励 ありがたく受け止めさせていただきます。 がんばります。 ありがとうございます。 奥が深いですね。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 ローマ人 つまり 非ユダヤ人で 百人隊長のコルネリウスの話は 覚えておいでですか。 ▲ コルネリウス (聖書) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E8%81%96%E6%9B%B8) ☆ すでにイエスが 復活して 弟子たちが ふたたび 活動を始めていたときのことです。 ペテロに奇妙なまぼろしが現われました。 ▲ (使徒行伝)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 10:9 ・・・ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 10:11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 10:12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 10:13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 10:16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。 ・・・ ☆ そのあと ペテロは コルネリウスのところへ行って 話しました。・・・ 10:28 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 ・・・ ☆ コルネリウスが 自分には 天使が訪れて 「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ・・・た。 ・・・ペトロを招きなさい」との指示を受けたと明かした。 10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 ・・・ 10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうして(これを ひとつの契機として) ユダヤ教イエス派は クリスチアニスムへと 開かれたのだと思います。 * ダヰ゛ンチ・コードは 中身を知らないので よく分かりません。くしゅん。
- arayata333
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実は 自分自身のあり方について迷ってます。(自分のこれからの表現の道とか、社会とのつながりとか… の実践前夜にての迷いです。) その道が正しいかどいうかが、今一解からないのです。 (ポルノのことではないですよ^^) それで、実はこの哲学カテをさまよっているという感じであり、 これからいよいよ迷いの内容について本格的に質問しようかなとところに来ていたのです。 いらいら とかではないのですが、 あせりはあったようです。 * たしかに私は 神話的なこととなると理解するのがほんとに大変ですーー;。 しかしユダについては、 1000827313さんの文をまるで理解していなかったように思えてきました。 そこが やはりあせっているところなのでしょう。 ★他の弟子達には、「恥」がなかった。 ↓ >日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか?< 日本の「恥」の文化を知るはずの者として、 ここを見逃していたのは恥ずかしい点でしょう。 ユダは、もしかしたら私など爪の垢を飲んでもいたらないようなすばらしい人格者だったのかもしれない。 ということですよね。 そこまで考えたことは いままで一切ありませんでした。 でも、その可能性もたしかにあるのですよね。 あるいは そうとすら考えるべき地点というものがです。 そこをbrageloneさんの方は 気がつかれた。 わたしの方は あせっていて読み飛ばしてしまった。 なにか変だなとは思いつつ。 こんな失敗を私はしてしまったようです。 わたしには、「かどうかは解からない」という点が 新約聖書については大事な点なので(判断できないことは判断しないことを堅持したいので、) ここでの対話は やはりここまでとしますが、 一点 落ち度がありましたので付け加えておきました。 今 深く考えさせられています。 ありがとうございました。
補足
arayata333さん arayata333さんも 弱音を吐かれるのですね。 やはり わたしの能天気ぶりのほうが 勝ちましたか。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★他の弟子達には、「恥」がなかった。 ↓ >日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか?< 日本の「恥」の文化を知るはずの者として、 ここを見逃していたのは恥ずかしい点でしょう。 ユダは、もしかしたら私など爪の垢を飲んでもいたらないようなすばらしい人格者だったのかもしれない。 ということですよね。 そこまで考えたことは いままで一切ありませんでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえ わたしは そうは考えません。 恥ぢの問題が 裏切ったペテロ以下の弟子たちに ついてまわりますが 問題は それを超えています。天地が――復活によって―― ひっくり返ったのです。イエスは もう死んでしまったか われわれは かれを否定してしまって 情けないことよと言って 済むことではなかったのです。世界の果てまで この良き知らせを告げよと 復活のイエスは 言いつけたのです。 これは ほとんど 命令です。殉教さえ厭うなとまで 命令したのだと考えます。もちろん ペテロたちは 望むところだったのです。はづかしいと言っている場合じゃなかったでしょう。 そこで ユダは どうだったかです。自殺は 別としても その後 自分の福音書を著わす以外に 何もしなかったとすれば なぜかと考えざるを得ません。自分ひとりの恥ぢや美学の問題に こだわる場面ではないと思うのです。理由があるとすれば よほどの理由内容だと考えざるを得ません。分かりません。 そういう問題であり 問いについての局面です。 1000827313さんの議論で わたしが 注目したのは ユダが イエスを立てるところです。理解者であるというだけではなく イエスを称えている。そこから あぁ 聖書のユダ版もありうるかなと思いました。あとは これまで書いてきたような立ち場に わたしは います。 結論の方向は ずっと 同じようだと思っていましたよ。たしかに あせっておられるという感覚はありましたけれどね。 いづれにしましても 美学なら美学でいいですが 開かれた美学にしてくださいね。
- arayata333
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この「ユダの福音書」自体についての質問は ユダについての興味(弁護の心)からつい回答を書いてしまいましたが、 私にはその内容について読んでみて難しすぎます。 わたしに解からない「たとえ話」をキリストが話したからといって それは私には解からないだけかもしれないだけです。 ですのでグノーシスの考え方とかその福音書とかを否定するというのではないんです。 でも わからないものを 何か回答するということは? 難しいというより不可能に思えます。 書きましたようのアウトゲーネスのあたりから後は まったく理解不能だということです。 (多々 他の点で、いくつか面白い点とかは無いわけではないのですが、とりあげるまでのことと思えないということもあります。) もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。 その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。 でも それ以前には 私には 論議なら無理そうです。 私に解かる 興味のある点というのは、 この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか という疑問だけです。
お礼
No.12の補足欄に掲げた次のサイトの《グノーシスの神話 》を読みました。取り上げるに足る内容を見出せ得ませんでした。 ■ 《グノーシスの神話 》~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismythtop.html 神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』 神話2 『ポイマンドレース』 神話3 ヴァレンティノス派プトレマイオスの教説 神話4 『三部の教え』 神話5 『アルコーンの本質』 神話6 『この世の起源について』 神話7 『バルクの書』 神話8 シモン派の教説 神話9 『魂の解明』 神話10 マニ教の教説 神話11 『シェームの釈義』 神話12 マンダ教の教説 神話13 『アダムの黙示録』 神話14 『フローラへの手紙』 神話15 『ユダの福音書』 神話16 『大いなるセツの第二の教え』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 評価が低い理由あるいは それらの特徴を記します。 (1) おおむね 聖書(旧約・新約)の記述を基軸に据えている。 (2) 言いかえると 聖書の創作に先行するものではなく あとで 《神智学》のごとく 瞑想・観想・分析・思索をおこなった結果だと考えられる。 (3) 独自の内容を主張しうるかに見えるところは 天地創造を始める神(エローヒームないしヤハウェー)の その前史ないし前身ないしさらに奥の神の世界を プレーローマ世界として いくらか ゆたかに描き出した点である。 (4) けれども それも 神の観想にしては あまりにも 心理的また心理学的な記述内容に片寄り ほとんど 取り上げる価値がない。 (5) ヘブライイスムとへレニスムとの融合というべき中身があるかに思われる。けれども 前者からは 霊(息)や智慧などの概念を取り上げ 後者からは ひとつに ギリシャ神話 もう一つに プラトンらの哲学(イデアなどその神秘思想にかかわるところ) これらを 素材としているわけだが おおむね 文学の問題であって 信仰や思想の深みに欠けるように見える。 (6) どうして 優秀な人間が このようなグノーシス主義に 価値を見出すのは 分からない。平面的な知識に満ちているだけのように受け取った。 グノーシス主義の方がたには わるいけれども これは わたしは 摂りません。
補足
arayata333さん あたらしい進展もなく わたしのほうも 煮え切らない思案中の態度をつづけていて 解せないというふうに おっしゃっているのかも分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。 その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうも この判断に尽きるように思います。今の時点でです。 《ユダの愛》 これについても ひととおり 評言を述べましたし あとは ユダの福音書に もし そのように隠れた意味合いがあるのなら それを支持する人たちは 明らかにすべきだというように考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは たぶん 感情的な敵対心のようなものが わざわいしたのだと思います。イエスを ユダヤ人が殺害したのだ・だからユダヤ人は 悪だというような 単純な間違った図式が 横行して来たようですし ユダも その図式の上で捉えられていたのだと思います。 《売り渡し》は 好ましくない行為であることに違いありませんが 要するに ほかの弟子たちのことをも含めて つねに 問題は 裏切り行為からの更生にあると考えます。それが 弟子たちには 出来ました。パウロも できました。ユダは どうかという問題にもなると思われます。 一たん 引きあげましょうか。ユダの福音書を読んで 仮りにすばらしい奥義があったとして それを見過ごしたとしても それほど あやまちであるとは思えません。そのときには そのときに 新たに 対処すればよいと考えます。 ○ イエスは ナザレ人で普通の人間であると同時に キリストとして神の独り子であり かつ 神である。 ☆ このドグマは――けっきょく 三位一体論ですが―― さらに 探究するのもよいと思います。 しばらく様子を見て 締めましょう。
- arayata333
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すみません。 新約聖書には感銘を受けている者ですので、回答をしてみましたが、こちらの「ユダの福音書」については、 どうも私は学者とか神秘家ではないせいか、理解がとどきません。 たとえば、 宇宙の元始に、「至高神」が存在したというくだりや、その説明とかに別に矛盾とか感じるわけではないですので、その点なら私たち《哲学者の信仰》の世界との間の違いとかを考えることは出きるかもしれませんが、 その後の「アダムとエバ」にいたるまでの“宇宙論?”は、 無思考となってしまう世界というよりも どんな意味のありえる「たとえ話」なのでしょうか?と思えてしまいます。 たとえば、ユダが天文学者だったとして、では当時ビックバンとかそれ以前の混沌のエネルギー界?とか あるいは地球が出来てからもその中の生命の進化の過程とか どれだけ知っていたかも疑問であるところを、 そのキリストの話の中に「混沌」という言葉がでてきたところで、それがビックバン以前と関るのかも私たち現代人にも解からないですし、関ってたとしてもその意味合いは解からないですし、つながり具合も解からないですし、 ましてそれを当時の天文学者に「たとえ話」で話したって何が理解できるというのでしょう。 そうではなくて、私のような 霊能力とか神話理解力(直感力)とかを理解する能力のない一般人には、 キリストは旧約聖書に反逆した人ととらえるしかなくて、 アダムとイブの物語にしても、 むしろ神は原罪なんかと関るような存在ではないとはっきり示した人なのだと思い込んでました。 原罪とは別な「アダムとイブ」のたとえ話というお話なのかもしれませんが、 あまりにも抽象的というか荒削りすぎてともかくわたしに回答できる世界ではなくなってしまうことになるかと思います。 シュタイナー(神智学から人智学へと移行した人ですよね)のような人ならばその意味合いをキャッチできるのかもしれませんし、 brageloneさんなら やはり何がしかの正しさや、キリストのメッセージを理解できるのかもしれませんが、 わたしにとっては 高校生の時に読んだ4つの福音書の中のキリストの言葉とはまったく異なって なぜか理解不能となってしまう世界なのです。 アウトゲーネスが「自ら生まれた者」というのも謎めいていますが、例えはこれが生命の誕生を意味するとしたとしても、いったいなんというへんてこなたとえ話なんで笑。 無数のアイオーンが、アメーバのこととか細胞のこととかであったとしてプレーローマ界が 命の連鎖の生命のことを意味するとか、 かってに考えていっても同じことです。 わざわざ 私たちにとって解かりやすいたとえ話を 3年という短期にて語ってくださった方が なんで宇宙のはじめのこととなると こんなにもわかりにくいたとえ話となってしまうのでしょうか? シュタイナーのような人が では このへんをどう解釈するのかについて興味が出てきますね。 そうそう、私はヨハネの黙示録ですか これも読んでいません。 もしかしたらこれも似てるのかもしれませんね。 これはカトリックとかでも認められてる福音書ですよね? その黙示録では 預言が書かれてるとか? 最後の審判とかも そこからの解釈のようですね。 でも私はたとえば最後の審判なんていう荒削りの未来論をなんら信じていません。 復活というのは私にとってはもっと、ともかく現実的な地点の哲学の話です。 そういう福音書は、もともと私には理解できない世界なのかもしれません。 * ただ、私と100082731さんとbrageloneさんとの共通項は、 ユダの弁護団だという点があるかと思います。 かのレオナルド・ダビンチの描いた最後の晩餐の絵の中でも ユダは悪者ですよね。 くわしく何か考えたわけでは無かったのですが、これには以前から違和感がありました。 >そうしますと 次には ○ ユダによるイエスの理解とは いかなるものか。 ☆ ここに議論は行きつくのではないでしょうか。< ということでは、 キリストの演出というふうに今回書きましたが、 別な可能性として、ユダもふくめ弟子達のみんながキリストがつかまる事態の意味合いとかを理解してなかった様子をキリストが その心理とかを読み取っていたというふうにも解釈できます。 弟子達に手伝ってもらわなくたって 捕まる演出はいつでも出来たでしょう。 ただ、私の場合は、そういった推理は あくまで推理にすぎなくて、どっちか決める問題とかでは?無いのですが… ? * 「笛吹けど踊らず」、 なるようにしかならない弟子達の理解力の時代的な限界を そっと生きたことの一例ではあったと思います。 * 歴史的興味としては、 ではユダは、キリストの言われる「王国」を 実際の王様であるキリストが実現するものと思い込んでいたかどうか? これはおもしろい観点ではあるかと思います。 だからキリストを試したのだという心理なら 学者らしい心理としてありえそうです。 他の弟子達は 実験なんて最初から頭に無かったところ、 これだけすぐれた知性と迫力の在る人なら このまま追っ手につかまっても平気なのかな?とかユダという人は思っていたかもしれないし、 文字通りの復活も期待していたのだと思います。 “このお方は 復活してほんとうに王様になる方なのだ、 あるいはそうかもしれない、試してみたい。 ” そんなふうな程度の理解者でしかなかった可能性もあるという事です。 もちろん、そのへんが解かったら「おもしろそう」ではあるのですが、 その逆の可能性もあります。 つまり 書かれているとおり、ユダだけ以前からキリストの十字架の意味も復活の真の意味も理解していて そっとその実行に一番ふかく関ったのであり、 それを他の弟子達が誤解したのだ。 といった感じの推理です。 * でも、 そのどちらであっても それは私の中の神への信仰のようなものや、キリストへの信頼の世界とは関係ないことなのです。 * ユダの弁護団としては、 あくまでキリストを裏切ったからと言って、なんら悪人ではないという点を大勢のキリスト教徒たちが理解してない点は指摘したい気持ちとなります。 私たちだってキリストの言葉を理解しきっていないではないですか。 まして十字架の意味とかを。 神の言葉であるならなおさらではないですか? なのにそれが理解できないで つい犯してしまった行為がなんで罪なんでしょう。 これこそキリストの 反原罪論の意味を理解していない最大の罪^^かもしれません。 (愛《わけへだてのない》と原罪論とは 矛盾します。) ここが、 ユダの論議としては、その点が私の中では一番重要と思えるところです。 そしてこの重要な 反原罪論以外の論議であるならば、 わたしの方からの回答はここまでとせざるを得ません。 そういう能力がまるでないからです。
お礼
arayata333さん よく勉強されているのですね。シュタイナーのことも わたしは 暗いですし。 ご回答をありがとうございます。 今回 質疑応答を何度か読み返すのですが そして たぶん――おっしゃるように―― ユダの心意気には それがあると分かったのですが それだけれども 同調するわけには行かない。断定して言えば そこから 何も生まれないのではないか。そのひと筋の涙の悲願が貫かれているように思われると同時に どうも その愛は 外に ひとに対して 開かれていないように感じる。こんなところなのですが こんなところなのですが 今まだ 断定して 1000827313さんやほかの方々に対して 応答するまでに到っていない。というような現状です。 今回は わたしが 《きよらかなおそれを持たない愛は 愛ではない》とか 《しなやかな くじけることのない 弱さを身につけていないのでは まだ 愛ではない》とか言って 文学的であるのに対して ararata333さんは ★ 原罪論 / 反原罪論 / 愛〔は 共通に提議していますが〕 / 《王国》論(《メシア=クリストス》は そもそも 聖別された王のことでしたから) ☆ といったように理論で 向かおうとしていますね。 ユダが もし イエスを理解していたとするなら ○ 王となるという政治革命説 ☆ は 捨ててもよいと思いますが 果たして いかが 考えておられるのでしょうか。《ユダのクリスチアニスム》のほうは。 この後の議論の進展を待ちましょうか。
補足
お礼欄のあと 書いております。 arayata333さん 議論に巻き込んでしまって と言いますか その議論が なかなか 決着のつかない状態にあって と言いますか 中途半端なお気持ちでいられることと思います。 一点 お伝えいたします。 非思考なる信仰は その形態が いくつか ありえると考えられます。たとえば 聖書として記された内容の以前に 神(そして 無神でさえも)とわたしとの非思考なる関係が 成り立てば そこに 信仰が芽生えています。ここから 信仰は その自己表現の形態を それぞれとして 表わす。これら諸形態が 互いに 形態の違いを超えて 類型的に同じ信仰という心のあり方だと まづは 認容することから すべての話は始まるのだと考えます。 たとえば わが国の 神道――つまり 国家神道は 論外だと思いますが 市民のムライスムから芽生えたシントウ―― これは 信仰の一種類だと認められないわけではありません。 《もののあはれ》と言います。英語で 《 Ah-ness of things 》と言うそうです。《 Ah-ness 》とは 《あぁ Ah ! ということ》です。向こうから なぞの何ものかがやって来て わたしは 非思考の状態にある自己を知る。わづかに そこで このなぞを受け取り 受け容れる。この受容が 《あぁ! なること》だと言うわけです。 ついに 文章表現もされなかったわけですが この《あはれ》において 一種の信仰の形態を成しているのではないか というわけです。多神なり汎神なりは 《一なるなぞの何ものか》の種々の現われと見なすというわけです。 いかがでしょうか。こちらは いかなる信仰の形態に対しても 白紙の状態を保つ必要があると思うのですが いかがでしょうか。
- arayata333
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すみません。 わたしの中には もしウィキペディアに書かれているように、書かれた年代からはユダ本人が書いたものではないというのが考古学的な見解ならば、 おそらくそのとおりだろうという前提がまずあっての回答なのですが、 その前提はそちらのコメントと共有された考えと考えてよろしいでしょうか? No13の方は書き終えてから死を選んだと書いてますが、そうすると、まず、ユダが歳をとってから思い出して書いたものがユダの福音書ということになったりしますが、 それ自体不自然ですよね。 たぶん、その自殺も、それですとユダの福音書にも書かれてないのですから 無かったと考えたほうが自然です。 他の“わたしが読んだ福音書(高校生時代に)の記述”は、弟子達がユダとは袂を分かつこととなってしまい、かってに書き加えた嘘という解釈となってしまいます。 いずれにせよ、簡単な矛盾の交錯です。 そして 私はこういうことにはなんら関心は無い者なのです。 しかし、 その「ユダの福音書」の中には、 ともあれキリストの言葉とかが出てきますよね。 意味不明なキリストの「笑い」?(健康的な笑いかどうかもよく解かりません?)とかの描写もです? キリスト教の歴史もかなり複雑なこととなっているのですね^^。 そのキリストの言葉の内容なのですが、 これは「たとえ話」とは言えませんね? もしたとえ話だとすると、 私が読んだキリストの言葉が 実際の生活や社会に即した例え話でありつつ《無限》に深いとしか言いようの無いものを私の脳に与え続けているのとは、 かなり異なる内容ですよね。 ユダに対してだけは、別な宇宙論的?な宇宙エネルギー的な世界の「たとえ話」をしたということなのでしょうか? 私は こうした物語については、別に信じません。 仏教の阿頼耶識論は、多年代において多くの人によって書かれていると言われていますが、 それは確かに 8識論にしても9識論にしても、内容は8識を二つに分けて表現したかどうかの違いでしかなく ちゃんと同じに、最後は仏界である9識親王の都という識の世界を説いていて、整合性はとれている世界なのですが、 ある年代の記述に 7識と8識の間に 突然 宇宙エネルギーの世界が登場します。 集合的無意識が 宇宙のエネルギーとつながっているかのような、そんな感じの論法です。 (宗教の権力化への過程を示す内容だと私は思っています。) でも すくなくとも神学を語る哲学者なら これは否定すべき点です。 あくまで 神は私たちに何もしてはいないのです。 ただ単に 神を信じる人をえこひいきして天国につれてってくれるような不平等な心の狭い したがって信用差へ出来ないような方ではない (むむ…) だけではなくて、 さらには何もしてはいないはずだということです。 なんども書きたくなることですが、 神はすでに、 あまりにもすばらしい世界を与えられている存在なのです。 その贈り物がすばらしいからこそ、私たちは何があっても信じるという信仰を発見できたりするとも言えます。 その意味での神の方から神であるにもかかわらずキリストになったという考えは私にはありません。 あくまで、キリストが語る神とはについての説明も その他の言葉も ともかくわたしには奥が深すぎというもので、 考えるほどさらに深くなってしまうのですから、 だから 神みたいな存在という感じの世界なのです。 神が人間を助ける存在として存在しているならば 一気にすべてを進化させればいいじゃないですか? たぶん、 そのへんの考えは brageloneさんとすでに共通だとは思うのです。 たぶん 例によって例のごとく、そちらの書き方はどうしても解かりにくい思考回路反映となってしまうのでしょう^^。 >つまりは このような会話は 何も為されていない。イエスは 何もこのようには ユダに 語ってはいない。< というあたりが、 神の「何もしない存在である」点の解釈だということなのでしょうが、 こうなるとオコリザルさんに近いぐらい(premeapeさんすみません。)文学的で ついていくのが大変です^^。 * 直接 庶民キリストの迫力(だだの無名のだれも知らなかった大工さんなのに?)にあっとうされ、思わず弟子として直接に記録したのだろう私が昔読んだ福音書類とは違って、 ともあれユダ福音書は 創作された物語であるというのが私の解釈です。 一見解、一推理なのですが(神でないのにそういう真実はわかるはずないです。) とすれば、 その福音書に書かれているキリストの言葉が 神の言葉を示しているかどうかを問うのであるのなら、 私には それも答えようがないのですが? あるいは 興味の無い部分となります。 ただ、このことは けして「ユダの福音書」の物語に なんら深い意味合いが無いとかいう見解とかではありません。(敬意に値する思索の努力の跡はみえかくれしてると思います。) でも、 神の言葉と言えてしまうような内容自体は すでに私が読んだ福音書でも語られてる内容と同じこと(URL、当然読みましたが)でしたから、 そこからの見解からは、やっぱり作り物、あるいは偽者には違いないと思うということです。 キリストの愛とか言葉の深さを起草すれば、 別に三位一体論という表現も成り立ちますし、キリストが神という表現もなりたつと私は思いますが それで学者どうしが喧嘩するのは、 もしかしたら何も理解してないのではないかと疑えてしまうところなのですが。 …。 ずれまくってるかもしれませんが、 私の方からの回答はこんな感じになってしまいます。
お礼
補足です。 上の第一点の中の次の部分に 補足します。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし ☆ のほうですが これは やはり ユダに対する神による指示や言いつけだとは考えられません。《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。 ☆ すなわち イエスを売り渡したことは すべてユダの自由意志による自由な行為であるという意味に解釈します。これが 《愛》だという見方が 提出されているという事態だと思います。 わたしたちの抱く《愛》が――愛という最大限に広い概念であるゆえ―― その内容として ただちに確定し得ないのと同じように ここに提議されたユダの《愛》も 当人の自由意志にもとづく内容を持った概念であり その行為であるという――まづは 基本的に同一の――出発点(認識)に立つものと考えます。そこから 話し合いは 始まるものだと。 そうしますと 次には ○ ユダによるイエスの理解とは いかなるものか。 ☆ ここに議論は行きつくのではないでしょうか。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 二点あります。 人間イエスであり神キリストなる存在が ユダに対して 取った振る舞いについての《三つの可能性》の内 次の(う)は もう少し詳しく述べるべき内容がありました。 ☆☆ (う) 人間イエスは (あ)と同じく 何も言わないのだけれど 神キリストは 言外において ユダ自身に語った。 ☆ この仮定における語った言葉 すなわち特に ▲ 「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」 ☆ ですが まづ ▲ すべての弟子たちを越える存在になるだろう ☆ は 内容が きちんとした存在論の問題ではなく 文学的な表現の綾の問題であると考えます。なぜなら イエスの復活後は 弟子たちは 皆 同じように 聖霊に満たされた。また 仮りに天国における序列として《ほかの者たちに越える存在》であるのならば わたしは その議論から降ります。意味がないと考えます。 したがって ▲ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし ☆ のほうですが これは やはり ユダに対する神による指示や言いつけだとは考えられません。《そういう経過をたどるであろう》と伝えているだけだと解釈します。 ● (ヨハネ福音5:19-20)~~~~~~~~~~~~ イエスは 言われた。「はっきり言っておく。子〔なる神〕は、父〔なる神〕のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。・・・」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《大食漢で大酒飲み》だと揶揄されたイエスですが そういう中立のものごとを除いて 基本的な行動は すべて 父なる神の思いおよび行為と同じであったと捉えられます。――けれども ユダが ここで説明されているように 《神が かれユダに その行なうところを指示した》とは 考えられないのです。確認していませんが せいぜい 光となってか あるいは 夢に現われるかして 伝えるのではないでしょうか。とりあえず この試行を提出します。 《イエスの理解者 つまり ユダ》とそしてイエスとは 思いや行動が やはり 違っていたと考えます。 もう一点は 相手の議論については その可能性のすべてを慮って 認容することから始めなければいけないと思うことです。 そうすると あたかも 現在の聖書の裏側から ともかく イエスの物語のたしかにユダ版というべきものが 現われてくるかに思えます。1000827313さんのANo.13へのわたしのお応えのあと 再考するわけですが これは かろうじて 《信念あるいは信条》として 成立するかに思われるということです。《人間的な あまりにも人間的な》です。 ですが この《信念》とわたしたちが取り上げている《信仰》とは 容易に区別することがむつかしい。信仰の構造を互いに議論し合えば 違いが分かってくるでしょうけれど ただちには むつかしい。まづは ユダの福音書が 成り立ったと見なして そのあと さらに互いに 異同を知るようにすればよい。こう考えます。 なんと言いますか わたしは 迷走しています。ただし たとえばシントイスムに対しても それは ひとつの信仰の形態であると認めた上でないと 話は 始まりません。民主主義なる迷走 ということで・・・。それにしても ★ ユダに対してだけは、別な宇宙論的?な宇宙エネルギー的な世界の「たとえ話」をしたということなのでしょうか? ☆ ですよね。変わっていますよね。つまり よくぞ ここから 1000827313さんは 信仰もしくは グノーシス理論を導き出して来られたものですよね。 ちなみに arayata333さん グノーシス主義は どうも 《人智学》のようでもあるようですよ。
- 1000827313
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brageloneさんのようにアウグスティヌスの告白をそれ程勉強したわけでもなく、むしろユダヤ教に近い自分を感じています。キリスト教は外典、疑典、死海文書、ナグ・ハマディ文書などをちらちら見た程度ですので、あまり深くお取にならないで下さい。 以下に質問にお答えしている心算です。ユダの弁護団の一人として。 (1) イエスについて 文章に遺した。そして パウロのようには 宣教をおこなうつもりはなかった。ということでしょうか。 ☆ はい。そのように思います。ユダが自分のなさなければならない事をなし終えて、尚且つ宣教に携わるには余りにも誇り高かった、と考えてもよいのではないでしょうか。ユダによる福音書(邦訳:ユダによれば)は確かにグノーシス的ではありますが、見つかったのはコプト語の写本です。コプトは原始キリスト教を引き継いだ一派と思いますが。だから、第一回ニケア公会議(325年)でのアレクサンドリア主教のかばん持ちであったアタナシオスは三位一体論を述べ、異端として追放される事七回で追放先で死んでいますね。 現在のニケア信条は381年になってやっとアリウス派を異端としてから認められたものでしょう。従って、ユダによる福音書が其の前に書かれているとするとグノーシス的であっても不思議はないと思います。これを書き終えて、死を選んだ、しかも呪われた死に方、木を使っての死。ユダの美意識だなんて言うとお叱りを受けそうですが・・・ (2) イエスが 自分を祭司長らに 売り渡す役を ユダに託した。これを受けただけではなく ユダは したがって その意味について その後の磔刑によるイエスの死までも 分かっていたということでしょうか。 ☆ はい。全てを理解していたと思います。自分のなさなければならないことを、十全に理解し実行したと思います。確か最後の晩餐はゲッセマネの園での出来事の跡でしたね?そこでは、イエスが苦しい胸のうちを血の涙をもって父なる神に訴えていたと思いますが・・この苦い杯を飲み干さなければならないのかと。 (3) ちなみに――小さいことですが―― イエスは 公の場ですでに顔を知られていたと思われるので ユダが手引きする必要はなかったようにも思うのですが。 ☆ 仰る意味は良く分かります。イエスは弟子達にも「ラビ」と呼ばれていました。お偉方は「ラビ」と言う言葉は聖書の中ではよい意味に使われることはないと仰っています。しかし、現代のラシとも思われるアンドレ・ネールはイエスは「ラビ」と尊敬を持って呼ばれていたとヘブライ語から解釈していますが。個人的にはユダのイエスに対するお別れの挨拶と取っております。 (4) (1)に戻って・・・・ ☆ グノーシス派では「明るい光」を受けて初めて一人前になると言います。その光を求めて精進していたと。サウロも「明るい光」を受けて落馬し、眼が見えなくなっています。まるでグノーシス派ですね。(失礼な物言いですが・・・) (5) ・・・ 生前には 誰ひとりとして 人は イエスの意味が分からなかったということです。・・・ ☆ はい。ユダただ一人を除いて。ひょっとしてイエスはユダにだけ打ち明けていたかもしれませんね。 差別発言になりますが、魚を取る事以外に何も分からない人達には、この様な深遠な真理は理解しがたいものだったのでしょうと思います。 (5-2) その意味では 以前と以後それぞれの情況において 人は 互いに みな対等・平等なのだと考えます。 ☆ “以前については”そう思います。ただ一人を除いて。それは誰も十字架の死、復活を知らなかったと言う意味です。 “以後については”聖霊が降臨してからは、弟子達は異言を使って話し始め、各国の人を驚かせたとありますので、“以後については”弟子達は同じように、対等になったと思います。 (6) 早い話が ペテロを初めとする弟子たちは 初めかイエスの復活のあと かれらの信仰も復活するというふうに 分かっていた。そういう人たちを選んだ。 ☆ とは考えません。疑いのトマスなどと言う弟子もいたくらいですし、パウロが出てくるまでは皆ひっそりと隠れて住んでいたと思います。 (7) そうすると ユダは どうして その仲間に入らなかったか。 ☆ (6)と同じ答えです。イエス自身も死と復活を理解していたとするとゲッセマネの園のイエスの祈りはおかしなことになります。選ばれた弟子達は眠りこけています。 (8)の答えになるか分かりませんが、イエスと同じく木で死ぬと言う呪われた死に方を選んだユダは、日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか? ユダの死は「ユダの福音書」を書き終えた後なのか、誰かに語った後なのかは分かりませんが・・・
お礼
補足です。きびしい評価基準を提出します。 ○ 《愛には おそれがない。きよらかなおそれがある》~~~~ 愛は おそれを知らない。愛のあるところに おそれはない。しかも 相手に自分勝手な欲求をぶつけているだけではないだろうかという清らかな不安を感じ 相手に対する単なるおしつけの愛になってはいないだろうかという清らかなおそれを つねに 持っている。 ここまでが 人間能力としての理性のできることである。この領域を超えては みこころのままにという祈りになる。 きよらかなおそれは あなたに 決してくじけない弱さを与える。崇高なしなやかさを身につけさせる。 このこちらの方のおそれは 愛のないところには無い。単におそれを知らないことは 愛がなくても起こりうる。 〔* アウグスティヌスの文章から発展させたものですが どういうわけか 申し訳なく思いますが 出典を いま 特定し得ていません。あしからずご了承ください。《三位一体論》だとは思います〕。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 自死をえらぶことは――戒律の問題ではなく―― 《弱さを誇ろう》という しなやかな弱さに欠け きよらかなおそれを持たないように 思いますが いかがでしょうか。
補足
1000827313さん 大論文です。クリスチアニスム・ユダ派を名乗れる もしくは 正統クリスチアニスムを主張し得るまでの内容を 捉えられました。そこまでのことは 知りませんでした。 ご回答をありがとうございます。そして わたしの不明をはぢ これをお詫びするとともに しかも そのように性格づけられた信仰類型を お勧めするわけにはまいりません。絶対にです。人間的な あまりにも 人間的な。うつくしい あまりにも うつくしい。ゆえです。 ★ イエスと同じく木で死ぬと言う呪われた死に方を選んだユダは、日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか? ▲ 〔ヰキぺ:弟橘媛(おとたちばなひめ)〕~~~~~~~~~ 走水の海(現在の浦賀水道)に至った時、夫の日本武尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘媛は海に身を投じる。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E6%A9%98%E5%AA%9B ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 信仰の質は ちがうかも知れませんが このとき 姫は ▲ ・・・菅畳八重・皮畳八重・きぬ畳八重もちて波の上に敷きて その上に下り坐しき。・・・ ☆ 《木》でこそありませんが 描像の重なるのを見ます。そのとき うたった歌は 夫のことを思い ▲ さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも ☆ だそうです。《はりつけに立ちて》であったかと連想するほどです。あるいは ▲ (大伴家持:万葉集巻四・4094番)~~~~~~~~~~ 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 ・・・ ・・・ 《海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ》と言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ ・・・ * この歌が 先の戦争時に 《復活》したことについては 《ヰキぺ:海行かば=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0》を。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち いまは おおざっぱな類推をほどこそうとしていますが ▲ 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ ☆ というような心境(もしくは 1000827313さん説では 霊に満ちた境地)をおっしゃっているように感じました。あるいは よくは知りませんが 例の葉隠れの《忍ぶ愛》 この類型です。 このかたちに走る人を 放っておくことは出来ません。 ユダは 人間イエスを神キリストと知っていて かれが 最後に《ほふられる羊》となるために――おそらく ひそかに―― 《売り渡し》の役を引き受けて 手伝いをする。これを イエスもキリストも 仮りにヤハウェーも 言いつけることはないと考えます。アブラハムに その子イサクをほふって生け贄とせよと たしかに 言いましたが これをよろこぶ神ではありません。止めます。 ★ これ(福音書)を書き終えて、死を選んだ、しかも呪われた死に方、木を使っての死。ユダの美意識だなんて言うとお叱りを受けそうですが・・・ ☆ ここが 弱いと思います。イエスの復活のあと とうぜんのように ユダにも 仕事が言いつけられたはづだと考えます。死ぬことはない。つまり 死ぬにしても その意味を わかるようにして往くでしょう。《殉死》というのは 迫害なりを受けたということでしょうか? 自分ひとりの 内向きの 美学ではないでしょうか? ペテロには 例の大きな風呂敷の夢が訪れましたね。ユダヤ民族だけの福音なのではないと。ユダは 《忍び》過ぎです。あまりにも 忍び過ぎています。生きている者の信仰であり 必ず 光が当たるようになるそれです。そのために《走る》ことは 必要だと考えます。それを 美学が 怠らせることは ないはづです。・・・ いかがでしょう。
- arayata333
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別に師走という事ではないのですが、 肉体労働者は現場に左右されます。 日曜日も今回休めなかったこととかで、 しばらく「対話」を離れざるをえませんでした。 急に対話から離れる形となってしまい、何かと気にかけられてしまったようです。 でも私の場合、こうしたことに加えて体力的な限界とかもあります。 時々どうしてもこうなってしまうとご理解ください。 * ユダの福音書の話は始めて聞きましたが、参考URLによれば、考古学的にも後から書かれている福音書(?の解釈?)のようは書物であるようですし、 そこに新たなキリストの言葉が出ているならば私にも興味がありますが(興味なんてものじゃないですが) そうでも無さそうですし、 たぶん、それが>注目される<ことになったりしたのは、 新しく発見されたことと、“なんとそれが「あのユダの福音書!」”というマスコミ的は取るに足らない「注目」を意味してると思います。 キリスト教徒とか神学者とか歴史学者にとっても かなり面白い出来事ではあったということなのでしょけど、 わたしには関係ないことです。 brageloneさんのその>意義<を知りたいという希求も、おそらく次の点なのかと思われました。 >ユダは イエスから ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」 ☆ と言われていますから。< その点の解釈さへ深ければ、後から神学者が書いた「ユダの福音書」という名前の書物であろうと、とるに足らない出来事なのではないか? ということなのだろうと思ったのです。 この唯一演出と思われるキリストのこの言葉の意図はいかに? というあたりから何かのヒントとなるものが出てくるかとおもいます。 ユダは十二使徒の内に入るのでしたっけ? それとも本来十三使徒だったところを裏切りのその演出によって除外される形となったのでしょうか? そのへんも私には興味が無いので憶えてないですが、 ともかく「うらぎり」とう行為をユダにだけさせた話となっているわけです。 ほかの人たちは 海に乗り出す漁師達だったりともかく庶民だったところユダだけが知的な人だったわけですよね。 私の考えは単純です。 漁師達、大自然と労働に明け暮れる人達のほうが、宗教以前の森の魂に近かったため、より天国に近い人(子供を抱き上げて「このような人たちが天国に入る」と語ったように)だと 最後の最後に示す必要が 大工さん哲学者(キリスト)としてはあったということなのだろうと思えるのです。 「大工さん哲学者」などというのはキリストに対して失礼でしょうか? しかし私は キリストに対してはそれをどう考えても煮ても焼いても失礼にはならないと思っています。 「キリストこそ、ユダのように自責の念で煉獄に落ちよ、」とか仮に言ったとしても キリストは笑ってるだけでしょう^^。 その演出意図は、私の解釈ではですが、旧約聖書という学者の書いた読み物を最後に粉砕するためです。 もう一度 新鮮な心を取り戻し、何も着飾らない野のユリの美しさに目覚めるべく、いや今度こそゆるぎない自然本性の人間のふるさとへ帰還すべく、 キリストが生まれた土地の律法を一度打ち破り それこそ葬り去り、完成された律法である愛を復活させるためだと思います。 もし、ユダが聖書の記録のとおり、自殺したのだとするならば(私はそんなこと別に信じてないですが^^) キリストはたぶん《知らなかった》でしょう。 へんなキリスト解釈でごめんなさい。 でもキリストは人間です。 あるいは神が人間となったのであっても(そういうことも考えられないわけじゃないです。 もともと相対的は世の中を作った、あるいはその創造に関った》どっちでもいいですが^^《のが神なら神も その意味では相対ですからね。 絶対とは人間にとって“《非思考》=《絶対》”ということですよね。) そんなふりをしたのではなくて、科学的に私たちとおなじ生物の脳で生きられた存在であるはずです。 いずれにせよ、中途半端な《事》としてはどうしても考えられません。 未来のことはキリストも 類推程度しか出来なかったということです。 ここがたぶん神学者たちとかと私の考えとかの違いなのかもしれません?が、 べつにただ当たり前の考えだと思うのですが? あくまで 携帯電話のケの字すら知らなかったはずということです。 いや九九の掛け算だって知らなかったかもしれないわけです。はっきりと普通の人間でもあっということです。そうとしか考えられません。 でも「天国」については たぶんですが現在に至るまでこの人より知ってる人はいなかったと思いますよ。 ↓ ということは、 ユダの「福音書」というたぶん後の学者の創作物は、内容も取るに足らないのではないか? ということをこそ、すでにイエスの演出が物語っている、というふうにも思えてきませんか? もちろん、人が一生懸命創作した世界を馬鹿にしてるということでも、尊重しないということでもないですし、 学問もまた、 私たちがもう一度ふるさとの新鮮な心を取り戻す過程のあがきでありかつ貴重な糧の一つとなりうるものではあるでしょう。 でも、私の考えでは、もしその出来ごと(あとから発見されたこと)に>意義<があるとするならば、 それは、 ユダの意味や、罪とか悪とかは無いものとして考える思索法を これを機により鮮明に考えることかな。 と思いました。
補足
arayata333さん しばらくでした。ご回答をありがとうございます。 どうも しっかりと ユダ論を問い求めて来なかったつけが まわって来たかなとも 思い始めています。それは ★ ・・・発見されたことに>意義<があるとするならば、 それは、 ユダの意味や、罪とか悪とかは無いものとして考える思索法を これを機により鮮明に考えることかな。 ☆ のためにも しっかりと おさえておく必要があるように思うようになりました。 まづ 次の資料を見つけました。 ● ユダの福音書の内容(英文)=【資料α】 http://library666.seesaa.net/article/18180701.html ● ユダの福音書(試訳)=【資料β】 http://library666.seesaa.net/article/18179396.html ☆ ですから 今からあらためて ユダ論を みなさんとも ともに ひととおりのことを 行なっておきたいと思うのです。 arayata333さんのご議論を受けて 今回 わたしが 考えたことを述べて 口火が切れればよいと思います。 arayata333さんのご見解の内容は 次の一つの視点(信仰内容)を さらに際立たせて 基軸とすれば さらによく ユダについての見方が 現われてくるのではないでしょうか。 ○ 【命題γ】 信仰のドグマ(論証し得ない想定)として ナザレのイエスなる人は 神の子で 神なるキリストであった。人間であると同時に 神であった。 ☆ ところで ユダの福音書の中で いちばん注目される箇所として 質問趣旨に挙げた論点( d )があるようで これは 次のように イエスがユダに言ったという文章に 確認できます。 ▲ 「しかし、あなたは彼ら(* 弟子たち)全てに勝るだろう。というのはあなたは私が着ている人間を犠牲にするだろうから。」(資料β) ☆ ちなみに いま一つ別の翻訳をも掲げておきます。 ◆ 「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」――《神話15 『ユダの福音書』》 http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth015.html ☆ そのあと 《密告》の場面がつづき 終わっている。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 律法学者たちはユダに近づいて言った。「あなたはここで何をしているのか?あなたはイエスの弟子だ。」 ユダは彼らの望むように答えた。そしてユダはいくばくかの金を受け取ってイエスを彼らに引き渡した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで 考えたことは 次のようです。【命題γ】です。つまりは ◆ お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし ☆ という言葉は 何ら神秘的な内容ではなく ふつうの人間の言語で述べられ しかも そうであるばかりか 《包む・肉体・犠牲とする》というような経験的なものごとを表わすもので成り立っています。けれども これを言ったのは おそらく――わたしの試考ですが―― 人間イエスではなく 神キリストであったのではないでしょうか。 つまりは このような会話は 何も為されていない。イエスは 何もこのようには ユダに 語ってはいない。 しかも ユダ福音書の記者は 神キリストが ユダに そのように 《密告》の前に 語ったのではないかと 解釈して 事件を捉え直しつつ 物語とした。 そうすれば 他の福音書とも整合性をもって 読むことができるように考えます。最後の晩餐において ■ (マタイ福音26:21-25) ~~~~~~~~~~ 一同が食事をしているとき、イエスは言った。 ――はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろう としている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これなら 実際に 人間イエスが言った言葉としても ありうると思われますが ほんとうに言ったかどうかは 分からないとも考えられます。可能性としては (あ) イエスは ユダの行動について 何も言わなかった。 (い) 人間イエスとして 言っておかしくないことを言った。つまり 上のように《裏切り(引き渡すこと)》をはっきり言ったり その《しようと思っていることをしなさい》と言ったり。 (う) 人間イエスは (あ)と同じく 何も言わないのだけれど 神キリストは 言外において ユダ自身に語った。 ☆ すなわち このように 三つの可能性があるけれども それらの基礎には 《人間イエスであり 同時に 神キリストである存在》という想定があれば 全体として 整合性を捉えられるように思われるのです。 取りあえず ここまでを できましたら たたき台にして ご見解をおしえていただければ ありがたいと存じます。よろしくどうぞ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
brageloneさん、貴方は本当にいい方だな。 わたしの短絡な考えと発言に、おおらかに持している(ようだ)ね。 “神がヤコブに負けた理由”、前に訪問はしていたけれど、今回また、きちんと頭に読み込みましたよ。 こういうことってよくありますね。 神は、ヤコブに負けることをいつも願っている、と存じました。 そしてそれで終わらさないで、執拗に繁栄の約束も取り付ける。 これも神が期待していることなのだと存じました。 神話、人の状況、そして伝えごと・お教え。 それらを伝える仕方。ということをよく見なさい、というbrageloneさんのご指摘と理解できます。 このことはNo.8の、お礼と補足でも詳細にご説明されておられます。 そして私もここの補足とお礼の趣旨は同感、理解肯定しております。 一部、ご認識が私としては齟齬すると、思われます。 そのことは、今は黙過したいと存じます。 そのことを除けば、実は、No.8の、お礼と補足は、私のNo.8の投稿自体にほとんど重なる存じます。 むしろ発展させたり、異なる面からのご所論として理解しております。 常習癖、そして、慎むべきこと。については承りました。 さぞbrageloneさんのご宸襟を悩ませたことでしょう。対面での往来ではないので、留意します。いろんなことの行きがかりや状況の中のことであったにしろ。咽喉まで出掛かっている反省と陳謝の言辞は、不当な言辞の書き込みにいたることが、brageloneさんのご理解を頂くことではないことですので、口に出すことは致しません。あしからずご免ください。
お礼
★ ヤコブ物語 ☆ で 教訓を引き出されたことは 何のつながりもなく ただ 互いに人間であるという関係のみによることながら お悦び申し上げますが その質疑応答を 参考にご紹介したのは そのためではありません。 ○ 語源の解明 ☆ の問題です。デタラメであることが かんたんに分かるはづです。この一事が万事だと解して間違いない事例として 掲げたものです。 なぜなら そういう問題に すでに ご投稿の内容では 触れておられる。その事由からのことです。すべて わたしは 受け身です。 どうか 質問に対する回答として 投稿してください。
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補足
mmkyさん なるほど 解けましたね。この場合は――つまり ユダの場合は パウロとちがって―― 結果がすべてだということですね。 まづは ご回答をありがとうございます。 ★ ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。 ☆ という見方も おもしろいですね。そして そういう見方でしたら わたしが ふと思った見方 つまり ☆☆ ユダは あまりにも 自分の内面にとどまり 閉じこもったかたちで 考えをめぐらしていたし その自分の考えをイエスに問おうとしなかった。思いこみで 行動を起こしてしまった。 ☆ という中身に 通じているところも出てくるように思えます。神がゆるすと言っているのに 自分は ゆるされたくないと言い張っているように見えますから。 ★ 後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。 ☆ この観点も 何人かの人が 触れていると思います。わたしも みづからの見解として 触れるべきかなと思ったりしたことがありましたが 表現としては これまでには 出て来ませんでした。夢の中の議論であるように 思われるからです。さらにいろんな見方が出されていくでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうなんですけれど つまり わたくしも そういう視点で ものを言うことも 説明の一環であると思うんですけれど これも まだこれまでに 表現となって 出て来ません。端的に また批判するようになるかも知れませんが 正直に 言えば そのように明確に言ってしまうと なおまだ 人間の憶測を抜け切れていない状態が あらわになるのではないか こうおそれられるからです。 これも いろんな見方が出されて 練られていくことでしょうね。あるいは ただ単に わたしの今の状態が 浅くて 分からないだけなのかも知れません。 ありがとうございました。一件落着のようですね。むろん 書きましたように つねに 問い求めていくのですし 表現やそれの感受の仕方が 或る程度は 歴史とともに 変わっていくかとも思いますから つねに こころを開いていたいと思います。mmkyさん 今後とも よろしくお願いいたします。 * 次にも新しいご回答をいただいております。学術的な観点なり いろんなご見解を摂取していきたいとも思います。