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聖書の「言は神であった」の意味は?
聖書「ヨハネによる福音書」1-1にある、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」の「言(ことば)」の意味は、キリスト教ではどのように解釈されているのでしょうか? 神は「抽象概念」だという意味ですか、それとも、この世界は「言語」でできているという意味ですか、あるいは、全く違う解釈があるのでしょうか?
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ギリシャ語の Logos を「言(ことば)」と訳しているんでわかりにくいんでしょう。 ロゴスというのは「行いをともなう言葉」であり、「理性」であり、「宇宙の理法」のことでもあります。つまり「はじめにロゴスがあった」というのは、それまでの「カオス」の中から秩序が生じたことを意味し、「ロゴスは神とともにあった」とは、神の「言葉=行い」によって秩序が生じたことを示し、「ロゴスは神だった」とは、神が宇宙の原理であることを示している、と考えられます。 翻訳というものの限界を如実に示した例だと思いますね。
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- katyan
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まず皆さんのお礼は閉める時最後の人にありがとうございましたと書きましょう 神は抽象概念ではありません。世界を創造し、私たちを創造された神です。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- mmky
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素直にとるべきでしょうね。神=言葉 だったということですね。モーゼもイエスも神の言葉を聞いて伝えた人なんですね。つまり、聖書には、預言者(神の言葉を預かる者)は存在したが神自身はいなかったということなんですね。だから神は言葉であったということでしょうね。イエス自身も我が父といっているだけですね。父の言葉は聞かせられないが、我が言葉、我が振る舞いこそが父のみわざなりといっているでしょう。イエスにもモーゼや他の預言者にも天からの言葉はあったわけですから全知全能の神はいるということですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- neckon
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#5の方の言う「下手糞なギリシア語」というのは言い得て妙でして、実作者はアラム語話者だったと考えられています。いわゆる「日本人英語」というのと同じで、アラム語の構造が書かれたギリシャ語の中に残っているわけです。これは聖書研究の足がかりの一つになっています。 キリスト教の神概念は旧約と新約でかなり違っていると思います。旧約の神がそれ以前のフェニキア文明の神々の特徴をいろいろ取り込んだ「混生的な」神なのに対し、新約では一神教として整合性を保てるように、いろいろと整理している感じがします。ミトラ教の教義を借りてきたという説もあるようです(ちょっとあやふや)。ですから旧約の神に古代神話によく登場するような「荒ぶる神」の側面があり、新約ではこれが「理性の神」に変化していることは、とくに不思議なことではないと思います。 教会がどう考えているのかというのは、ちょっとわかりません。信仰の世界は論理では割り切れないところがありますし。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ZeroFight
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田川健三氏によると、ヨハネ文書のギリシア語は、インテリ外国人の書いた下手糞なギリシア語であり、新約文書の中でも一番下手糞だそうです。 gooを見ていると、時々、外国人の方が、わけのわからない日本語で、わけのわからない質問していることがありますが、あんな感じなのでしょう。 したがって、大まじめに考え込むことは無いと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- nacam
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これは、聖書の天地創造からですが、神が「光あれ」と言うと、光が誕生しました。 つまり、「光」ができる前に「光」という言葉が有ったという事を言っているのだと思います。 つまり、神が創造したものは、始めにその言葉(名前)があり、神がその名をよぶことによって、その物が創られたと解釈してよいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- char2nd
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「言」は「神」と同一であり、「神」の属性であり、その意志です。 岩波版新約聖書では、この部分を「初めに言がいた」と訳しています。つまり「言」を擬人化しています。 それは、このあとの14節にある「言は肉(なる人)となって・・・」に続くからです。ここでいう「肉なる人」とはイエスです。すなわち、神の意志をイエスという人になり、彼の口から「神の言葉」が人々に伝えられるようになります。 参考:「聖書名言辞典」、「聖書の名句」
補足
> 「言」は「神」と同一であり、「神」の属性であり、その意志です。 宗教なので、しょうがないのでしょうが、これだけだと正直言って、何を言っているのか私には、さっぱりわかりませんでした。済みません。(^_^;
現代のキリスト教諸派でどのように解釈されているのか は知りませんが、 宇宙人である神からのテレパシーを受けた(テレパシーを受けたことで言葉が聞こえた)(そこから、ヨハネならヨハネ自身の不思議な体験が始まった) という意味だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございました。 「言(ことば)」はロゴスだということでしたので、ロゴスについて以下のURLで調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9 「ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は神が定めた世界の神的な論理をロゴスと呼び、ときにこれを神とも同一視した。」と書いてありますが、このようなロゴスは、「論理」であり「天の摂理」を連想させ、理性的な感じがします。よく怒る人格神とは程遠い定義のように思うのですが、キリスト教の中では、ロゴスとしての神と人格神をどのように統一させて解釈しているのでしょうか? これは、個人様への補足ではなく、皆様への補足です。(話はそれますが、gooでは、皆様への補足が書けないのが、ちょっと困っています)