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晩年の豊臣秀吉と天下の仕置き
- 豊臣秀吉の晩年について、彼が果たして残される力を振り絞ってどのような青写真を描き、天下の仕置きを行うかについて考えてみました。
- 晩年の豊臣秀吉は打って変わり、陽気なイメージとは裏腹に残酷な処刑を行ったり、朝鮮出兵という愚策を行ったりしましたが、彼が残される力と理性を活かして何ができたのかを考えます。
- 秀吉の晩年には、五大老・五奉行制度や大名間の私婚の禁止など、秀頼や豊臣家の将来のために手を尽くしていたことが知られています。もしも私たちが晩年の秀吉の立場であるとしたら、彼のように政策や政略を行い、豊家百年のために何を成し遂げるべきでしょうか?
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こんばんは。 私はそれほど面倒に考えませんけどねぇ・・・ 家康の徳川を一揉みにしてしまえば良いことです。 秀吉のこと、少々難儀にしても朝飯前の芸当でしょう。 家康が大阪に仕掛けたようにすれば良いのです。 小牧、長久手の頃なら知らず、負けるわけがありません。 秀吉なき関ケ原であれでしょうに・・・ 不安の芽と思えば余勢をかって、 isokenさんには申し訳ありませんが伊達も同様です。 それから、適材適所に加藤なり福島、前田を配置すれば良いだけのこと。 内政はそれからでも間に合うことです。 どなたか朝廷と仰る? 平治の乱以降どれだけ実体のないものか・・・ まあ、ここいらで。 お目でとうございます。 良いお正月でしたか? 奥様孝行は出来ましたか? 今年もどうぞよろしくお付き合いください。
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- izuhara
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家康を軍事的に滅ぼす意見を見て、疑問に思ったことがあります。 どの時点でその手段に打って出るのかということです。 秀吉の晩年であれば、それは実質的に不可能です。なぜなら、秀吉の死後も朝鮮出兵は続いていたからです。西国の軍事力の多くが動員されている中で、果たして徳川家を滅ぼす大動員をかけることができるでしょうか。まずは朝鮮からの撤兵が優先となりましょう。 朝鮮への重い軍役を負担した直後に、果たして諸大名が大した罪もない家康討伐に単純に従うかも疑問です。おそらく、反対意見が続出し、家康との間に立って討伐を回避しようとする動きが大規模に出てくると思われます。有無を言わさない討伐とはいっても、それらを納得させるだけの理屈は必要です。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >家康を軍事的に滅ぼす意見を見て、疑問に思ったことがあります。 >どの時点でその手段に打って出るのかということです。 それはそうでしょう、朝鮮半島へ軍事的なコミットをした後であれば、仰る通り不可能です。 ですから小田原攻め~朝鮮出兵の段階で、既に徳川を抱き込む事を決心していたのでしょう、当時の家康は秀吉に対し、文字通り犬馬の労を取っておりましたから、彼の洞察力を曇らせるに充分でした。 但しその機会を逸した事が、後の豊臣家滅亡を招く最大の要因ではあります、それはもう間違いなく。 >有無を言わさない討伐とはいっても、それらを納得させるだけの理屈は必要です。 私はそうは考えません。 何故なら朝鮮出兵には、動員された大名を満足させるに足る、加増という反対給付がほぼ無かったが、徳川を攻め滅ぼすとなると、少なくとも彼らの目の前には、250万石という人参がぶら下がる事になります。 加えて戦国乱世生き残りの大名家は、余程の例外を除き、ほぼ全てが力の信奉者です。 例えば大坂両陣前夜に於ける、徳川の豊臣家に対する挑発は、後世の我々からすれば、言い掛かり以外の何ものでもありませんが、当時その点を言い立てる大名が皆無でありました。 更には大坂両陣に於いて、少なくない豊臣恩顧の大名、加えて上杉・毛利を始めとして本邦津々浦々ほぼ全ての大名・小名が馳せ参じ、先の天下の主の遺児を寄って集って攻め滅ぼしている現実を見るに付け、全盛期の秀吉が徳川家に対し、如何に言い掛かりを付けて攻めようとも、何等問題は無かった、そう考えますが・・。
- 0fool0
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ん~~~・・・・ 何時間か考えたのですが思い付きません。 何と言っても家康が居るのが、全てのネックなのですよ。 他にも問題はありますが、何より250万石の国力と、実戦経験が他の大名と余りに桁違い過ぎるのです。 無理な話ですが、家康に殉死を迫る位かなぁ・・・と。 勿論、徳川家の当主が豊臣家の為にする理由が100パー無いので、秀吉の見苦しさを増すだけですが。 または病死に見せかけた暗殺ですが、家康だってそんなのは折込済みですから、まず成功はしません。 まぁ、現実的な手は秀吉存命中に秀頼を関白職に付かせる事位ですかね。出来る事は。 あとは五大老の廃止・・・、か入れ替え・・、どっちも難しいなぁ・・。 そもそも家康を信じているからこそのシステムですからねぇ。 まさに狼の羊番。 はい、手詰まりです。 取り合えず関白にさえしておけば、豊臣家は残せたとは思うのですが・・
お礼
回答ありがとうございます。 >何時間か考えたのですが思い付きません。 何時間も考えて頂いて、本当に恐縮です。 >何と言っても家康が居るのが、全てのネックなのですよ。 >他にも問題はありますが、何より250万石の国力と、実戦経験が他の大名と余りに桁違い過ぎるのです。 秀吉亡き後の、豊臣から徳川への権力の流れは、これはもう歴史の必然でしょう。 仰る通り、他大名との比較に於いて、家康の場合その戦歴・大局眼ともに他を圧しております。 それを後世の我々は、判官贔屓そして豊臣家という前政権の主の余りの憐れさといった観点から、関ヶ原でこうしておれば、或いは家康がどうのと言い立てる訳で、私の質問もまさにそれ。 つまり他の回答者様も言っておられるが、仮に豊臣百年の繁栄に思いを馳せたとするならば、秀吉の生前に於いて、有無を言わさず徳川家を滅ぼす以外の選択肢は無かったのでしょう。 >まさに狼の羊番。 おお、それは言い得て妙、まさにその通りですね。
- izuhara
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大変興味深い質問でした。頑張って脳みそを使ってみました。 関ヶ原の戦いに至る重要な要因は ・前田利家の死による豊臣恩顧大名の対立の激化 ・上杉景勝の討伐 にあると思います。 前田利家の寿命が史実どおりであるならば、対立を解消しておく必要がありますが原因は朝鮮出兵の秀吉の対応にあるわけですから、対立の芽をつむことはできそうにありません。 次に景勝の討伐ですが、その原因は景勝が転封したてで国の仕置きができていなかったことにあります。蒲生氏の代わりに家康の牽制を期待されたわけですが、それが仇となったわけです。五大老の一人と位置づけられる景勝を広大な領地にほぼ転封させたために、直後の秀吉の死で上方にとどまらざるを得ず、家康が主導権を握ってから本格的に国の仕置きに取り掛かる羽目になったわけです。そしてそれが征伐の原因となる、と。 これを防ぐためには、景勝の大幅な転封をやめるべきでしょう。越後に接する一部の地域のみを加増とし、景勝がいなくとも新領の仕置きができる程度とします。会津を中心とする旧蒲生領については、あえて徳川家に与え(分裂の可能性を期待して、結城秀康がいいかもしれません)、引き換えに関東の領地の一部(上野あたりがベスト)を本来景勝に加増されるはずだった石高に充当します。 上杉景勝・・・旧蒲生領のうち越後隣接郡と上野(北部)を120万石となる程度に加増 結城秀康・・・旧蒲生領に転封(上杉領と接するように11万石相当) 徳川家康・・・下野は徳川領 旧蒲生領残りを加増 引き換えに上野の一部を上杉領に ※転封の代償として秀康・家康にはあえて多少の加増も考慮 これが可能なら景勝征伐の要因はなくせると思います。家康の牽制も継続させられます。景勝が家康と結城秀康に挟まれる形となりますが、史実のような大規模普請とはならないので、征伐には至らないと予想します。 もっとも、豊臣家を支えうる人望の厚い大大名(それが利家だった)がいないかぎり、家康が主導権を握ることは防げないでしょう(徳川家に内紛を起こせれば別ですが)。ですが、関ヶ原のような大規模な合戦とそれに伴う反家康派大名の一掃は回避することができます。家康が主導する豊臣政権となりますが、家康が軍事的に圧倒している状況ではありませんので、将軍就任のような豊臣家に変わる支配秩序を形成することは困難です。秀頼が成人すれば、雌伏の時を過ごしつつ勢力を温存していた三成・宇喜多秀家ら豊臣恩顧の大名が支えてくれます。それらを率いて、専横を理由に家康討伐も不可能ではないでしょうが、徐々に実権を取り返しつつ、家康が1616年に死ぬのを待った方がいいかもしれませんが。
お礼
詳に入った御回答を賜りまして、誠にありがとうございます。 豊臣系大名の対立の激化はともかくとして、上杉景勝の移封の取り止め、加えて越後に隣接する領国の加増ですか、それは興味深い。 まあ秀吉としては、仰る通り徳川と伊達に睨みを効かせる役目を期待したのでしょうが、恐らく上杉景勝にとっては迷惑以外の何ものでもなかったでしょう。 これは全くの想像なのですが、上杉としては徳川嫌いも確かにあったのでしょうが、その本音は新たな独裁者出現の阻止にあった、つまりその理想は合議制に依る天下、或いは元亀天正の群雄割拠の再来をこそ願っていたのかも知れません。 ・・とするならば、関東と奥州の回廊である会津の地で、120万石を領しておれば天下の騒乱に巻き込まれる事必定、一方の越後はいざ中原の騒乱に於いて僻陬の地であり過ぎますが、天下に色気を持たなかったとすればこれほど最適の地はない訳で、そこでの加増となれば、上杉にすれば願ったり叶ったりであったでしょう。 ところで秀吉の思惑として、会津に上杉そして箱根以西の東海道筋に豊臣恩顧の大名群を配する事で、家康を座敷牢に閉じ込めるという意図があったはず、まあ関ヶ原に於いて当該大名群は、それは見事に徳川方に寝返りはしましたが・・。 そして上杉討伐に関する申し状を見る限り、家康の言い分はやはり言い掛かり以外の何ものでもありませんでしたから、仮に上杉でなくともどこぞ違う大名の瑕疵を言い立て、やはり関ヶ原の如き天下分け目の決戦は不可避であった、何しろ家康は乱を願っておりましたから。 そしてなし崩しに徳川の天下へという流れは止められなかった、そう考えます。 >家康が主導する豊臣政権となりますが、家康が軍事的に圧倒している状況ではありませんので、将軍就任のような豊臣家に変わる支配秩序を形成することは困難です。 これも想像ですが、自分の亡き後、家康が豊臣政権の中枢に座り権力を握る程度の事は、秀吉としても内心止む無しとしていたものと思います。 何しろ秀吉亡き後、家康の力量は有象無象の他の大名の追随を許さないものでしたから。 ところが彼の予想を遥かに超えて家康は豹変し、遂には豊臣家を滅ぼしてしまう、流石の秀吉もそこまでは考えが及ばなかった、・・とすれば彼の生前に於いて、天下の軍を率いて徳川を滅亡させない限り、豊臣家の明日はなかった、そういう事かも知れません。
- あずき なな(@azuki-7)
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追記です よく知られた秀吉の辞世の句で 浪速のこと「も」夢の又夢 と言うのが一般的ですが 実は 浪速のこと「は」夢の又夢 と言うのが正解らしいです しかしテレビ的に聞こえが良いという理由で「も」の句で普及してしまった様です
お礼
再度の回答を賜り、感謝致します。 >よく知られた秀吉の辞世の句で 浪速のこと「も」夢の又夢 >と言うのが一般的ですが 実は 浪速のこと「は」夢の又夢 >と言うのが正解らしいです それは知りませんでしたが、やはり「も」の方が、語呂がいいというか収まりがいい、そう感じます。 尚「浪速」よりもむしろ、「浪花」か「浪華」の方が、より大坂らしさを感じるのは、私だけでしょうかね?
- koiprin
- ベストアンサー率23% (72/306)
権力の保全であれば、まず第一に家康の暗殺に全力を尽くすでしょう。 徳川が最大の実力者ですから、暗殺を謀りつつ、徳川領内の金山、銀山などは直轄にしますね。 次に度量衡の統一と貨幣経済への移行ですね。米市場の整備と豊臣が唯一通貨発行権を掌握することで、平時に発展する経済の肝を握れます。 次に厄介なのは、朝鮮に出ざるを得なかった武士層の解体ですね。信長が兵農分離をうまくやったおかけで職業軍人が増えてしまったので、彼らに再度手に職を付けさせる職業訓練学校が必要ですね。農業、商業もありますが、まずは公共事業として街道の整備や治安維持のための今の警察のような組織を作って武士層を配置換えする必要がありますね。 貨幣経済への移行であれば、土地に縛られずに異動することが容易になりますので、早い段階で商業主義に移れるはずです。 これは家康のような堅物の凡人には発想ができないでしょうから、秀吉の面目躍如といったところの施策になりますね。 あとはスペインとの交易関係ですね。砲艦外交をおしすすめていたスペインとは交易を続けるメリットはありますので、キリスト教と仏教の対立構造を維持しつつ、文物の流通を進めるという外交が良いでしょうね。歴史通りであれば、オランダがやがてスペインは危険だと告げ口してくるはずですから、そこからはオランダとスペインとの対立関係を作りつつ交易を続けるという形でしょうね。 対立関係を維持させつつ2枚舌交易を続けるという施策、唯一の通貨発行機関となるという施策を三成あたりに遺言しておく感じですかね。 お金の力を理解している秀吉ならではの施策が、その後の歴史の流れから見ても権力構造を築く上で重要なポイントとなっていますので、そう難しくはないでしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 >権力の保全であれば、まず第一に家康の暗殺に全力を尽くすでしょう。 やはりそうなりますか。 家康が唯々諾々とは武力に屈しない御仁である事は、先の小牧・長久手の戦いで実証済み、全盛期の武田信玄にすら屈しなかった三方ヶ原と並んで、或る種家康生涯の勲章でもある天下周知の事実ですから、正面きっての宣戦布告は避けたい、そして何より大義が無い、そういう事でしょうね。 >徳川領内の金山、銀山などは直轄にしますね。 豊臣政権が最大の特徴とした貨幣経済重視故に、国内の金山・銀山は、ごく一部の例外を除いて遍く豊臣家の直轄地となっていた、私としてはそう認識しておりましたが、違うのでしょうか? >貨幣経済への移行であれば、土地に縛られずに異動することが容易になりますので、早い段階で商業主義に移れるはずです。 >これは家康のような堅物の凡人には発想ができないでしょうから、秀吉の面目躍如といったところの施策になりますね。 秀吉が領土にさほど価値を見出さなかった証左として、景気よく諸侯に大封をばら撒いており、その最盛期に於いてすら豊臣家の直轄領は、徳川家の足元にも及びませんでした。 その一方で、大坂を中心として流れ込む物産に対する商権、或いは許認可権を握っていた、商業を尊しとしていた政権である点が、後の徳川政権との最大の相違点であろうかと思われます。 >お金の力を理解している秀吉ならではの施策が、その後の歴史の流れから見ても権力構造を築く上で重要なポイントとなっていますので、そう難しくはないでしょうね。 仰る通り、功罪相半ばする徳川政権最大の特徴は、豊臣政権下に於いて、貨幣経済に傾きつつあった流れを、実質的な米本位制に逆行させた点にある、それが歴史に鑑み、良かったのか悪かったのかは別として。 何はともあれ、斬新な切り口での御回答に感謝致します。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
まず手始めに… 完子を入内させます(とりあえず政仁親王=後水尾天皇あたりに) 完姫はご存知 秀吉の跡取りと目されながら朝鮮で死んだ羽柴秀勝(織田信長の七男にして秀吉の養子)の一人娘 史実では後年 公家の九条家に嫁ぐ方です 秀吉は太閤ですから完姫の入内で朝廷との結びつきは磐石となります (この手法はのちに秀忠もやっていて結果はご存知の通り大成功でしたね) 後は内政です もはやここにおいて大義名分なしに家康を潰す事は不可能でしょう 最大の懸案は家康なのです 家康を関東に移封したのは小田原攻めの報酬ですが 実際は大阪から遠ざけるための手段です 警戒心の強い秀吉のこと野心家はみな遠国に移封となっていますね しかしまた人身掌握にも長けていたのが秀吉 ここは家康を旧領三河・駿河・遠江に戻し甲斐信濃も与える これにより秀吉に不満を持っていた旧三河家臣団も納得となります 更に 豊臣家の跡継ぎは秀頼とするのは致し方なしとして 家康の次男 結城秀康に関白を与え家康の移封で空となった関東を与えるのです 結城秀康はご存知家康の次男ですが秀吉の養子となったために徳川家の家督を継げませんでした この措置によって家康・秀康双方が納得します ここまでしておけば秀吉の死後 家康の挙兵には大義名分がなくなるので謀反はできなくなります 単純な手法ですが私が秀吉ならそうしました
お礼
azuki さん、早速の御回答ありがとうございます。 >完子を入内させます(とりあえず政仁親王=後水尾天皇あたりに) 朝廷との緊密化ですか、そこには思いが及びませんでした。 >最大の懸案は家康なのです 無論そうでしょう、私の質問も家康の処遇の如何が大前提です。 >警戒心の強い秀吉のこと野心家はみな遠国に移封となっていますね この点は、仰る通りですね。 家康は当然の事ながら、ざっと見渡しても蒲生氏郷・黒田官兵衛他出来物の野心家は、皆体よく遠国に追いやられておりますから。 >家康の挙兵には大義名分がなくなるので謀反はできなくなります 果たしてそうでしょうか、徹底した実利・実力主義者の家康には、大義名分なんぞ蛙の面に小便、彼の野心が止むとは、私には到底思えませんが・・。 何しろ方広寺の鐘に刻まれた、国家安康・君臣豊楽というありがたい言葉ですら、政略の道具に使う御仁ですから、息子が関白に担がれ関東を拝領したとなれば、むしろ渡りに船と考えるのではないでしょうか? そもそも結城秀康が、実父家康よりもむしろ養父秀吉になつき、元来豊臣そして秀頼贔屓であった事は遍く知られた事実ではありますが、やはり血は水よりも濃いもの。 秀康の代はまだ良いかも知れませんが、彼の早世後関東二百数十万石と東海五ヶ国百二十万石の合算四百万石弱の勢力を、東海道筋に置く事の脅威には、疑問符を付けざるを得ません。
お礼
こんにちは、回答ありがとうございます。 >家康の徳川を一揉みにしてしまえば良いことです。 その後の豊臣政権に関しては、家康に対する処遇が全てでしょうね。 我が国の歴史上最大の人間通とも思える秀吉にして、自分の死後当然家康が相対的に浮かび上がる事に、想いが至らなかったのか、何故無理にでも潰してしまわなかったのか、不思議に思うところです。 >秀吉のこと、少々難儀にしても朝飯前の芸当でしょう。 >家康が大阪に仕掛けたようにすれば良いのです。 健康な肉体を持ち、健全な精神を宿していた頃の秀吉ならば無論そうでしょう。 ところが自身の衰えを認識し、そして家康の忠勤振りを見るに付け、政権内に取り込むといった方向に、徐々に気持ちが変わってきた、つまり神の如き洞察力に翳りが見えてきた証左かと思われます。 豊臣政権最大の実力者、並びに執権職程度の処遇は止むなしと、恐らく心の中では不承不承容認していたのでしょうが、豈図らんや、秀吉の死を境とした、家康という御仁の豹変振りまでには、想像力が及ばなかった。 それはそうでしょう、自分に膝を屈した律儀・忠勤振りと、彼の死後豊臣を虐め抜いた家康の悪辣さ、前後のこの落差は歴史に類を見ませんから。 ところが一方で石田三成にこそ、秀吉の深層での憂慮が投影されていた、つまり三成こそが秀吉の分身であったのかも知れません。 >不安の芽と思えば余勢をかって、 >isokenさんには申し訳ありませんが伊達も同様です。 伊達は勘弁して下さい!、終生秀頼公に忠誠を誓いますから・・。 ところで余談ですが、先の自身の質問に於いて思い出した、司馬遼太郎氏原作のTBSの開局記念ドラマ「関ヶ原」が無性に欲しくなり、DVDを取り寄せたのですが、これがもうNHKの大河ドラマを遥かに凌ぐ凄い豪華キャスト。 先ず森繁久弥(徳川家康)と三船敏郎(島左近)の共演が、私の乏しい想像力では思い浮かばない他、丹波哲郎・三國連太郎といった名立たる大物俳優が、それぞれ福島正則・本多佐渡辺りを演じておりますから、想像がつくかと思いますが。 まあ森繁久弥さんという方の表現・演技力はとにかく凄い、徳川家康という懐の深さと冷厳さを併せ持った武将を見事に演じられている一方で、石田三成を演じた加藤剛も、その一本気な気性を現すにまさに彼ならではのはまり役でして、この両者のコントラストが見応え充分です。 最後になりますが、明けましておめでとうございます。 今年も宜しくお付き合い下さい。 さて新年早々マカオに到着した翌日、猛烈な吐き気と下痢をもよおし、早速香港人の医者に診てもらいましたら、腸炎との事で大笑いされまして、山海の珍味どころか毎食お粥、体重も3kgほど減らしまして当然観光は無し、それはもう散々な正月でして、ほうほうの体で成田に辿り着いた次第。 女房殿は呆れ果て・諦め気分で、どこぞに一人で観光に出掛けたみたいでして、何やら借りをまた一つ増やした気分です。