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豊臣秀吉について

豊臣秀吉は、なぜ自分が生きているうちに徳川家康を排除しようとしなかったのですか?織田家から政権を奪った秀吉なら自分の死後、家康が天下取りに動くことは分かっていたと思うのですが。上杉を家康領の隣に国替えしたのは、家康を牽制するためですか?

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  • takochann2
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回答No.1

専門家ではありませんが、秀吉は家康を排除しようとしていましたが、慶長伏見地震で作戦が頓挫したり、上洛して臣従を示したことにより排除する理由がなくなってしまったからではないでしょうか。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

その他の回答 (4)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2300/5115)
回答No.5

>豊臣秀吉は、なぜ自分が生きているうちに徳川家康を排除しようとしなかったのですか? 信長の息子である織田信雄・徳川家康連合軍との戦いで、秀吉は実質的に敗北しているからです。 秀吉は、敗北が濃厚になると「織田信雄と和睦」しましたよね。 家康としては「織田信雄の要請で戦っているのに、旗頭が無くなった」のです。 戦いの目的が無くなったので、家康軍は戦を止めました。 秀吉としては「家康。恐るべし」という考え方が強くなったのでしようね。 そこで、懐柔策にでた次第です。 >上杉を家康領の隣に国替えしたのは、家康を牽制するためですか? その通りです。 伊達家・徳川家の抑えですね。 結果は、家康の策にまんまとはまり「5大老の命令を無視したので、上杉征伐」となり軍を進めます。 これが実質的な関ヶ原の戦いの序章です。 上杉謙信の子孫としてのプライドを捨てれば、120万石は加賀の前田家と同様に守れたかも知れません。

  • gunsin
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回答No.4

チョット俺の力を見せてやろうと、小牧長手の戦いを仕掛けたら、 三河武士は思いのほか強く、負けちゃいました。 そこで、秀吉は考えました、戦えば、勝手も負けても、双方が深手を 負う、これでは、双方共が損だ、そうだ、徳川家康を、豊臣の家臣 にすれば、戦しないで、わしの、威厳も保てる。 妹の朝日を離婚させて、家康の正室とし、更に大政所を人質に 送りました。 家康は、わしの実力が秀吉と対等で有る事を天下に示せたし、 ここいらで秀吉の顔を立てて臣下になるか・・・ 深謀遠慮の世界で、お互い、腹の内は見せません。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.3

豊臣政権というのは、五大老と五奉行による集団支援体制となっています。 このうちの徳川家康が最終的に天下を取ったから質問者さん的にも「なぜ家康を滅ぼさなかったのか」になるわけですが、もし毛利輝元が天下をとったら「なぜ毛利を滅ぼさなかったのか」になりますし、前田利家が天下をとったら「なぜ前田を滅ぼさなかったのか」になったと思います。 形式的かもしれませんが、五大老は全て秀吉に臣従しているわけですから、それに対して口実を作って滅ぼそうとしたら、残りの4人の大老は「次に滅ぼされるのは自分だ」と思うことでしょう。また他の大名は「大老でさえ口実を作られて滅ぼされるなら、自分もいつ難癖をつけられて滅ぼされるか分からない」と怖ろしくなりますから、みんなで結託して反乱を起こそうということにもなります。 徳川家は後に武家諸法度で全国の大名を完全に屈服させますが、徳川家は一族衆の他に譜代(先祖代々)の家臣団を持っています。だから一族と譜代の家臣団を合わせた勢力があれば、他の大名が反乱を起こしても鎮圧できることが可能でした。 しかしそこが秀吉の弱味だったのです。農民から成り上がった秀吉には譜代の家臣というのはありませんでした。それに加えて元々が農民、今でいうなら中卒ヤンキーですから、一族にも優秀な人がいない。羽柴秀長というとんでもなく優秀な弟がいましたが、頼れる一族は実質的に彼だけでした。 秀吉は家康と小牧・長久手戦役で講和したときに、和睦の条件として家康に妹を妻として送っていますが、その妹は当時でも40歳くらいだったそうで、もちろん夫がいたので無理矢理離縁させて、「朝日姫」なる仰々しい名前を付けて送るしかありませんでした。そのくらい、一族に人がいなかったのです。 なので豊臣政権の維持のためには外様の大名たちの支持が不可欠でした。それが豊臣政権の弱点であり、それゆえに豊臣家は一代で終わってしまいました。 豊臣家にとって決定的に痛かったのは、一番頼れる存在で堺屋太一氏をして「日本史上一番の理想的なナンバーツー」といわれた羽柴秀長が秀吉より先に亡くなってしまったことでしたね。秀長が亡くなると直後に千利休が切腹させられ、数年後にいわゆる「秀次事件」が起きて豊臣政権は自壊していきます。どちらも「秀長が生きていたら絶対に起きなかった」ともいわれますので、カリスマ創業者であった秀吉が先に亡くなって、秀長が豊臣政権を仕切る体制になっていたらまた歴史は変わっていたかもしれませんね。

  • sebsereb
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回答No.2

小牧長手の戦いで、徳川家康は豊臣秀吉に勝ってます。 豊臣が徳川に戦争を仕掛けたら、徳川家康が勝ったのです。 小牧長久手を続ければ、豊臣は滅んでいたと思います。 いつ戦っても徳川が勝ったと思います。 秀吉の3万人の主力軍はたった500人の徳川の本田忠勝の軍に抑えられたそうで。 戦争したら勝負にならなかったので命あるうちは政権くれと秀吉は家康へお願いしたのでは。

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