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乃木希典
乃木希典は多数の戦死者を出した頭の悪い愚将ですか?それとも攻略不可能と言われた旅順を落とした名将ですか?
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乃木将軍が二百三高地にあれだけ苦しまされたのは、彼の地に機関銃陣地があったことはつとに有名ですね。 日露戦争は、プレ第一次大戦ともいうべき戦いでした。日本軍に帯同した駐在武官の中には「機関銃はとてつもない兵器だ。これは次の戦争で中心になる兵器となるだろう」と予言した人もいたのですが、なにぶん極東の戦争だったので欧州各国の注目は集めませんでした。 その後、第一次大戦はご存知の通り塹壕と機関銃が猛威を振るう戦いとなりました。それに対抗するために、事前に大砲で砲撃をしたのですが、どれだけ大砲を集めて気が狂うほどの量の砲弾を使っても、あまり意味がありませんでした。ソンムの戦いでは、なんとたった1日で57000人も戦死しました。 ちなみに二百三高地でも日本軍としては空前絶後に近いほど大口径の大砲を大量に揃えて支援射撃をしたのですが、効果をあげることはできませんでした。攻略にあたって効果的だったのは、攻略用の塹壕を少しずつ掘り進めることでした。 だから彼の置かれた立場を考えると、どのような名将であったとしても苦戦したでしょうから誰がやったとしてもたいして変わらなかっただろうなあと、そういう意味では私は乃木将軍には同情的です。 本来であれば、無理攻めはせず包囲して監視下におくべきだったのでしょうが、陸軍が膨大な犠牲を出しても旅順要塞に力攻めをした理由は、旅順艦隊をいち早く陸側から壊滅させねばならなかったからです。 海軍は旅順港を封鎖していたのですが、封鎖のためにはそれ相応の戦力を張り付けておかねばなりません。しかし、遠くヨーロッパからあのバルチック艦隊がウラジオストックを目指して近づいていました。私たちは日本海海戦でバルチック艦隊が全滅したことを知っていますが、当時のリアルタイムで考えれば、来るべきバルチック艦隊との決戦のために一隻でも多くの軍艦を集めたいところだったし、万が一旅順封鎖が失敗するようなことがあれば日本の補給線は断ち切られて戦争そのものに敗北してしまうので、どれだけ犠牲を出しても力攻めしなければならなかったのです。 息子が戦死したと聞いたとき、あれだけ人様の息子を殺しておきながら自分の息子は死んでないということに引け目を感じていたために「それはよかった」といわなければならなかった、ということは親の立場として同情しますね。 明治天皇が崩御した後に殉死したのは、旅順攻略作戦であまりに多くの若者を殺してしまったことに対する自責の念がそうさせたのではないかな、と思っています。
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- ithi
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souzakaさん、こんにちわ。 実は旅順のような近代的な要塞の攻略法というのは日本はおろかヨーロッパ列強の軍隊でさえ、あまり研究していませんでした。もちろん、機関銃を装備するのはこの当時からです。だから、寄せ集めである第3軍司令部のメンバーでは想像力を欠いていたのです。攻城重砲など他にも色々準備がなされていませんでした。 また当時の大本営ですら、理解している人はいませんでした。日本で唯一理解している人はこの当時第4軍の参謀長だった上原勇作だけだったといわれています。 しかし、このような不手際が重なったにもかかわらず、近代要塞をわずか数ヶ月で陥落させたということは誇っていいことだと思います。したがって、愚将ではないでしょう。 また、ちなみにこの第3軍の観戦武官だったイギリスのイアン・ハミルトン中将は第一次世界大戦でトルこの要塞、ガリポリ要塞攻略司令官に任命されますが、失敗してしまいました。たぶんこの当時の経験を買われての任命だったと思います。
- oignies
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一般には、名将とされていると思います。
- tarohkaja
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司馬遼太郎坂の上の雲に愚将と書かれたために、 その説が蔓延したわけです。 ところが、 ロシアは日清戦争当時の要塞を大改造をしており、当時は「べトン」といったコンクリートで固められ(日本軍はそれをつかんでいなかった ⇒ 日清戦争の軍功から、参謀本部は乃木はすぐに落とせるだろうと思っていた) ロシアは「どんな戦力で攻められても三年は持ちこたえられる」と称していました。 それを、数か月で落としたのですから、ヨーロッパでは 「乃木とその将兵は奇跡をおこした」 と評価されています。 この戦いにはヨーロッパからの観戦武官が多数来ていましたが、乃木の用兵を批判した意見は皆無です。 塹壕を掘り進んで爆破するという、 むしろ、要塞戦、その当時の新しい攻城法を発明したと言っていいでしょう。 奉天の会戦では、日本軍の一団に対してロシア兵は 「乃木が来た」 と言って逃げ出した話もあります。 実際は乃木軍ではなかったらしいのですが。 司馬遼太郎は、乃木が編成した「白襷隊」についても、「決死隊だからといって白いたすきをかけさせては、月明かりか星明りの下では目標になるだけで愚策だ」 とも言っていますが、 機関銃という超新兵器の突進する人間の高さめがけての「十字放射」によって薙ぎ払われたのであり、 司馬遼太郎の視点はずれています。 司馬遼太郎は、 歴史資料を駆使して書いたと言っていますが、 使った資料が良くなかったと論証した意見があり、今その本を見つけ出せませんが、 たしか乃木神社の宮司が、司馬説の跋扈に危機感をもって、 誰だったかの雑誌論文を小冊子にまとめなおして乃木神社が発行したんではなかったかと記憶します。 その書名や執筆者の名前を思い出せず、申し訳ありません。
- mm058114
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こんにちは。 乃木希典は、『頭の悪い愚将』ではなく『普通の頭を持った多少戦略眼のない規則命令に忠実な標準的な将軍』だと思います。 乃木が第3軍司令官に任命された理由は ・当時の陸軍には、旅順攻略の為の作戦計画が無く、海軍の要請により急遽第3軍の編成の必要が発生した。 ・計画がなかったので、軍司令官要員がおらず、とりあえず当時最先任の留守近衛師団長の乃木が任命された。 ・その乃木には、日清戦争で、旅順攻略の経験があった。 ・軍閥の関係で、薩摩から軍司令官を出す力がはたらいた。あ また、その頃の陸軍の基本戦術は、中隊長を先頭に1個中隊が、目標に突撃するもので、師団長をはじめ末端の兵卒まで、それしか知らなかった。 反対に、それを破った戦術を取った、黒木大将が型破りな異色と言えます。 乃木に発せられた命令は、『旅順の完全攻略』で、それを忠実に守ろうとしたまでと言えます。 だから、正式に命令されない、海軍のバルチック艦隊来航までの期限は無視し、待ち望まれる早期旅順攻略後の奉天会戦に向けて望まれる北上も無視等、全体戦略には口を出さず、1個ずつ堡塁攻撃をし、要塞の完全攻略を目指しました。 また、彼の悲劇は、 第3軍の編成計画が無かったので、参謀長、参謀は、海外からの帰国者等、寄せ集めだった。 当初、第2戦級の作戦と見られ、戦力、資材等も不充分であった。 旅順攻略の基本計画がなかった為、命令は、非常に大雑把だった。 何よりも、陸軍には、永久要塞攻撃の操典が、存在しなかった。 結局、旅順要塞の攻略は、誰がやっても、大同小異だったでしょう。
- あずき なな(@azuki-7)
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そこだけで評価するのどうかと思いますが 誰も落とせなかった旅順口を落としたのだから名将だと思います しかし明治天皇の崩御に殉じたことを考えると愚将かも?
- FEX2053
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司馬遼太郎は「愚将」説ですが、彼も「あれだけの死者を 出しながら、陣営に"負け戦"の雰囲気が無かった」点は 高く評価しており、少なくとも「トップとしての統率力」は あったと考えていいと言っています ・・・要はスタッフがアホだっただけ、って話です。 もっとも、要塞攻撃という点で、あの頃の技術と各種の戦績 から考えて、あれだけの犠牲は当然とも考えることもできる ので、一概に「統率力しかない」と考えるわけにも行かない と私は思っていますし、そもそも論としてあれだけの要塞を 半年で攻略した、という点は評価すべきと思いますよ。