まず乃木家廃絶ですが、質問者はこの間の理由を承知して見えると思いますが、一応書いておきます。
本来の乃木伯爵家は大正元年9月13日、当主:稀典の自刃によって絶家します。
後継ぎである息子2人は明治37年日露戦争において戦死、この時点で稀典は乃木家の廃絶を考えていたようで、万一自分が戦死した場合、身内が継ぐことのないように、弟:集作を38年に大舘家に養子に出し、後継ぎを消します。
そして明治40年の家族令改正により「相続人が6ヶ月以内に家督相続の届をしなければ爵位返上」という事を見定め、これで伯爵は自分で終わりと安心します。
そして実子以外乃木家を相続させない事を遺書にしたため自決し、大正2年4月29日絶家、4年9月12日爵位はなくなります。
ところが13日、大正天皇の思し召しにより旧主家の「毛利元智」を乃木元智として(新)乃木家が誕生します。
ところが稀典の遺言は広く世間に知られており、反対の声があがり、脅迫・抗議文が(新)乃木家に集まり、家族はノイローゼになり、夫人が自殺未遂したとの噂まで広がります。
当主としては爵位を返上したくても天皇の「聖断」であるからそれは不可能、針のむしろ状態になります。
お尋ねの恋愛事件は昭和4年のことで、手元の資料には詳細がありませんが、大した事件ではなかったのを地方新聞が大々的に書き立て、結果元智一家は長府に居られず神戸に転居、ここでも家族の問題が起きて、昭和9年9月26日爵位を返上、11月30日平民:毛利元智となります。
因みに、よく比較される東郷平八郎の東郷侯爵家でも昭和10年平八郎の孫:良子が家出したとセンセーショナルに報道されましたが、真相は学習院のレポートが遅れて家出し、喫茶店でバイトをしていただけとか。
乃木家に関しては中途半端にしか分からず申し訳ありませんが、所謂「赤い貴族」とは別の次元の話で、多分家庭崩壊により娘がちょっとぐれた程度のことがスキャンダラスに報じられたのではないでしょうか。
具体的なことは識者に譲ります。
お礼
大変、ご丁寧な回答をありがとうございました。初めてこのコーナーを活用させてもらいましたが、このように具体的な回答をいただき、驚いています。助かりました。 実は夏に、明治末期の函館と函館を訪れた文学者たち(啄木や藤村)をテーマに少し話す機会があり、その背景としてどうしても日露戦争後の明治時代の雰囲気を説明する必要があったのです。そこで鶴見俊輔・橋川文三らの「日本の百年」シリーズを読んでいたところ、先の乃木大将一家の末路のところに出会い、気になっていたのです。 でも、あの時代にも現在の「イラク人質被害者」や「北朝鮮拉致被害者」などに対するバッシング(ちょっとでも国の意向に反対したり発言する者への)はあったことに今更ながら驚き、日本国民の脈々たる深層心理のようなものを感じざるを得ません。 そんなことで、今回初めて質問してみて本当によかったです。ありがとうございました!