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今川義元は愚将?名将?

友人たちと“今川義元”について議論をしていて様々な意見が出ましたが、結論は出ませんでした。 今川義元は愚将だと思いますか? 名将だと思いますか?

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  • buchi-dog
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回答No.8

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。 学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。 義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。 桶狭間の合戦については、下記の本が詳しいです。 桶狭間の戦い 戦史ドキュメント 小和田哲男/〔著〕 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531 桶狭間の合戦について多くの史料を詳細に分析した、現時点で最新の研究成果といえるでしょう。 今川義元が討ち死にした時の状況は、「史実の三方ヶ原の合戦の時期に、徳川家康が、遠江に侵入した武田信玄を討ち取った」に等しい「奇跡の勝利」です。義元は、味方の城の後方の「安全な地域」に陣を張っている所を、予期せぬ織田軍の攻撃に本陣を破られて討ち死にしました。 西洋で史上最高の名将とされるナポレオンは「敵より迅速に機動し、常に自分の全力で敵の一部を叩く」ことを常にできる武将で、そのようにして連戦連勝してフランス皇帝に上り詰めました。信長の桶狭間での戦勝はナポレオンのやり方と理屈は同じです。 「義元は十分に名将といえるが、信長は世界の戦史上も稀な『超名将』であった」ということです。

MUD-Water
質問者

お礼

ありがとうございます。読んでみます。 私も義元が酒宴などはしておらず、後方の「安全な地域」に陣を張っていたと思っていたので面白く読めると思います。

その他の回答 (8)

  • sunset2nd
  • ベストアンサー率10% (4/39)
回答No.9

歴史は勝者の歴史です。足利の血筋で当時海道一の弓取りと言われた義元が愚将だとは思いません。敗者側から歴史を見るのも大事だと思います。

MUD-Water
質問者

お礼

なるほど。敗者側から歴史を見るのも大事ですね。 ありがとうございました。

  • quroppe
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.7

kindon98さんに同意見。義元は大国の将たるにふさわしい器量の持ち主だと思います。彼が名将か愚将かは、息子の氏真が、義元の死後たどった運命を見れば分かると思います。隣国相模の北條氏康・甲斐の武田信玄といったほぼ不敗を誇る名将たちがその威を畏れて駿河侵略の愚を悟り、また小国といえども主君に強い忠誠を誓っていた松平氏の三河を治め、尾張侵略のために対岸の服部氏らと同盟を結ぶなど、戦略に長けた武将であったと推察されます。 義元が戦略に長けたといっても、戦、つまり戦術に長けていたかどうかには疑問もありますが、織田信長に討たれたのは不運もあるような気がしています。 桶狭間の戦と呼ばれる戦のときに、酒宴にうつつを抜かしていた説を採って彼を愚か者扱いする人もいますが、織田信長も本能寺の変の前夜、京都に小人数で上り、息子の信忠などを呼んで宴を催したというし、豊臣秀吉も小田原征伐の時には城を取り囲んで大規模な酒宴を張っています。徳川家康は大坂攻めの道中、鷹狩りなどを楽しみながら悠々と陣を進めました。万里集九は長享2(1488)年8月17日に武蔵国菅谷に太田資康(道灌の子)を訪ねたときに、扇谷上杉方に対峙する前線基地であるこの地で、山内上杉方の彼が敵前で詩歌会などの風流をたしなむことに感激していますが、当時の武将は戦陣にあっても、こうしたたしなみは心得ていたのではないかと思われます。義元もおそらく、朝比奈泰能や松平元康、岡部元信などの武将が前線を固めていることも頭に入れたうえで後詰めに出たのでしょう。桶狭間の合戦における織田信長の進路にははっきりした記録がなく、したがって義元がどのような襲撃を受けたのか諸説を参考にするしかありませんが、彼が愚かであったという意見には賛同しかねます。

MUD-Water
質問者

お礼

「信長公記」には桶狭間のときに、義元が酒宴をしていたという記載はないらしいですね。 なので義元が酒宴をしていたというのは怪しいと思っております。 ありがとうございました。

  • jacta
  • ベストアンサー率26% (845/3158)
回答No.6

どちらかに分類しなければならないとすれば、愚将だと思います。 確かに、能力や生前の実績に関しては評価できるところも多々あります。 しかし、トップに立つ人間は常に結果責任なのです。義元の急死によって、今川氏が急速に衰退したことは事実ですし、そのような結果を招いてしまったのはやはり愚かです。 自分が勤める会社の敏腕社長が、たった一度のスキャンダルで会社を倒産させてしまった場合を考えてみてください。「あの社長は偉大だった」と思いますか? トップは結果責任なのです。

MUD-Water
質問者

お礼

義元の急死によって、今川氏が急速に衰退したのは、それは氏真の責任ではないですか? 信長の急死によって、織田氏が急速に衰退したことは事実ですが、それは信長の責任でしょうか? ありがとうございました。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.5

名将ですね。 愚将ならば家督争いに負けてますよ。 駿河をまとめ上げて武田を震撼させた張本人です。 特に、戦国時代は守護が蹴落とされるのは常識です。 そんな世の中で守護大名がそのまま戦国大名として残った数少ない家です。 よほどの才覚が無ければ生き残れません。 さらには駿河一国から三河遠江と勢力拡大も果たしています。 非凡と言えます。 ところがどっこい、一介の浪人から戦国大名まで上り詰めた当代の名将斉藤道三を鋭い目で観察していた織田信長を過小評価してあえなく事故死。 今川義元を打ち破った信秀の大軍を、少数の兵で打ち破って完膚なきまでに壊走させてみせた斉藤道三の采配に織田信長はかなりショックだったでしょう。 この信秀の大敗が無ければ織田信長も勝負手を見出せなかったと思います。

MUD-Water
質問者

お礼

確かに、守護大名が戦国大名として残ったケースは少ないですね。 しかし、織田信長を過小評価していたというのは、どうでしょうか? 私は信長を脅威に感じており尾張攻めを急いだのだと思っております。 ありがとうございました。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.4

ANo.2ですが修正。 息子がボンクラでしたので、天下統一までくらいが精一杯(幕府を開いても続かない)ではなかったかと。 家康の息子、秀忠がものすごく優秀とは思いませんが、氏真よりはかなりましではなかったのかと推測致します。

noname#113190
noname#113190
回答No.3

名将です。 彼の人生ですけど、最初から今川家の当主という座が約束された身分ではなく、花倉の乱という骨肉の争いを制して今川家の主となっています。 隣国の北条とも戦いますが、一旦は奪われた河東郡を奪還し、東の三河にも勢力圏を広げて今川家の全盛期を築き、武田信玄も彼の生きている間は駿河には手出しをしていません。 権謀術策に優れた、当時としては屈指の名将といえます。 一部には参謀の太原雪斎の手柄とする意見もありますが、将が優れていればこそ優れた部下も集まってくるわけで、これは朝倉家がせっかく明智光秀を迎えながら見限られたり、大友家が立花宗茂を活かしきれなかったりと、将の器量によりますから、義元の器が大きいからこそ太原雪斎が従ったと考えます。 器量としては武田信玄よりは上でしょう。

MUD-Water
質問者

お礼

同意見です。 義元の政策を太原雪斎の手柄にすりかえる意見がありますが、やはり義元の功績として評価したいですね。 ありがとうございます。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.2

私も#1さんと同じ意見です。 桶狭間の戦い=たった一回のささやかなミスが命取り という状態だと思います。 ただ息子がボンクラでしたから、信長を破って京に上ったとしても、天下統一を成し遂げられたかどうかは疑問が残ります。 ちなみに当方信長ファンです。

MUD-Water
質問者

お礼

やはり名将ですか。 ありがとうございます。

  • m2cherry
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.1

どっちかに入れないとダメなんですか? ^^A やられたら愚将なら天下人以外みんな愚将になりますね。 愚将の定義をどのように持っているかに違いますが、 無理にどっちかに入れないといけないなら名将にいれます。信長にやられたのは慢心もあったかもしれませんが、基本的に東海一の弓取りであり、当時天下人に一番近い位置にいたのは確かで、 負けたのは事故として認定されて保険が利きそうなくらいです。この事故がなければ間違いなく歴史は変わっていたでしょう。 と、思います。 特に思い入れがあるわけではアリませんが。

MUD-Water
質問者

お礼

愚将でもなく、名将でもなく、という回答でも大丈夫です。 私も桶狭間は事故のようなものだったと思います。 または信長の運が強すぎたのでしょうか。 ありがとうございます。

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