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ひとは カミの似像である。から すべて連帯責任か?
ひとは カミの似像である。この命題を次のごとく表わし提示します。そうだとすると――社会の現象はすべて 一人ひとりの人間におさまっていると見るかぎりでは―― あらゆる考えや振る舞いはみな 人びとにとって互いにその行為についての答責性を連帯して負う。 こう見るべきであろうか。あるいは それは 神の次元をあまりにも人間の次元に持って来過ぎなのであろうか? * 聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという見方を意味しうる こう捉えた結果を示しています。 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ☆ ここから: ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~ 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この社会の全体が ひとりの人それぞれに反映しているという見方です。 * ☆ そこでは 一人の《ひと》は 言わば梵我一如というがごとく マクロコスモス(ブラフマン神)とミクロコスモス(アートマンなる霊我)とが その霊(つまり ナゾ)の次元で通底していると人びとは見たらしい。仏(法身としてのブッダ)仏(ブッダターなる自性清浄心)一如とも言います。 ただし 《精神(記憶‐知解‐意志)》なる自然本性は すでに霊我なるアートマン(≒ブッダター=仏性)の《非思考の庭》からも離れて 《思考の緑野》に降りて来ています。 信じる:ナゾ:《非思考の庭》:ヒラメキ・直観 ---------------- 考える:精神:《思考の緑野》:社会 感じる:知覚:《感性の原野》:直感ヒラメキ しかもこの《ひと》なる存在に・その一人ひとりに 社会の現象のすべてがやはり通底している。したがって 人びとは互いに経験世界にあってその存在が言わば地続きである。 よって 基本的な考え方として 互いにこれこれの社会経験(特に事件などの出来事)について それが何故起きたか 起きないようにするにはどうすればよいかなどについてその答弁をそれぞれが等しく負う。――こう言えるか? ひとは 小宇宙(ミクロコスモス)であると言われるとき 小社会でもあるといった見方になります。小社会とは けっきょく社会全体のものごとと等しい。果たして どうか? と問います。 自由意志があくまで個人のものであり 個人の行為は個人に帰属すると見るときには 説明責任の連帯という考え方には どこか無理がある。かも知れません。みなさんのお考えをお示しください。 韓国人がウソつきであることについて 世界はともにひとしく責めを負うか?
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- 0fool0
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>韓国人がウソつきであることについて 世界はともにひとしく責めを負うか? 此れまでの全世界が、共に責任も権利も共有している家族であって、有史以来一度も殺し合いの無い歴史だったらねw 議論のレベルに達していない。 釈尊や基督への冒涜と変わらない、暴論だ。 どうして此のレベルなの? 先ずは守破離の「守」から行いなさい。
- umasimaji
- ベストアンサー率30% (6/20)
ヒトがカミの似像であっても、ヒトはカミにはなれない。ヒトの小宇宙が互いに通じていても、ヒトはそれに気づかない。 ヒトは、客観の中に存在せず、ただ主観としてのみある。想念空間にあるヒトは既にしてヒトではない。 ゆえに、根本原理が如何に論理的に保証をしようとも、ヒトの自らの行為や思想を普遍してはならない。 況してや、行為の結果の言質をカミに求めるなど、言語道断である。 韓国人をウソツキと考えるならば、責任の所在ではなく、まず、誰を欺いているのかをよく考えられたし。 それこそが主体としてのヒトである。
- SPS700
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ひとは カミの似像である。この命題を次のごとく表わし提示します。そうだとすると――社会の現象はすべて 一人ひとりの人間におさまっていると見るかぎりでは―― あらゆる考えや振る舞いはみな 人びとにとって互いにその行為についての答責性を連帯して負う。こう見るべきであろうか。あるいは それは 神の次元をあまりにも人間の次元に持って来過ぎなのであろうか? 僕は、人の存在は事実、神の存在は人によって違う(居ないと言う人も沢山いる)、だからカミを一部の人が、ヒトに似せて作る場合もある、と思います(ヒトとは違う神もどっさりいます)。 したがって初めの命題が逆ですから、「ひとはカミの似像」ではなくて、「カミの中にはヒトの似像もある」ように思います。ですから○国人が●でも世界の責任ではないと思います。
お礼
えすぴーえす700さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 僕は、人の存在は事実、神の存在は人によって違う(居ないと言う人も沢山いる)、だからカミを一部の人が、ヒトに似せて作る場合もある、と思います(ヒトとは違う神もどっさりいます)。 ☆ ここには 大きな主題または論点があると思います。 一気に結着をつけたいと思えば――そう思ってそうしますが―― 次の規定(定義)に拠りたいといまのところ考えています。 ○ 《かみ》は 《非知》である ~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知 (知り得ないと知った) 非経験の場 (因果関係が当てはまらない) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ない) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして 趣旨説明欄に触れました《非思考の庭》につきましては この《非知》なるナゾを――じっさいには《神》という言葉で・またはブラフマンという神の名で――心に受け容れたとき その庭がわが心に成る。こういうふうに捉えています。 つまりは 非思考の庭が――とうぜんのごとく 動態として―― 《信仰》のことである。と成ります。 さらに もう一つの論点は この非知としての神は 有るか無いかの問題です。 《因果関係から自由である》ことは 経験世界における有る無いをも超えていることです。有るとも無いとも 人間には分からない。 分かったら それは 《思考の緑野 ないし 感性の原野》において知覚・認識されえたことを意味します。人間の認識しうる事柄が 神であれば すべてのものごとが神であり得ます。 したがって この非知なるナゾの神を 人間は人によって自由に 有るとも言えるし 無いとも言える。 つまりは 有神論と無神論とは 互いを選ばない。対等である。有る神と言っても 無い神と言っても まったく同じことである。無神論は 無い神を神として受け容れている。ことになります。無神論も 信仰です。《考える または 可知や不可知》の問題ではないからです。 ★ だからカミを一部の人が、ヒトに似せて作る場合もある、と思います(ヒトとは違う神もどっさりいます)。 ☆ これは 非知なるナゾの神ゆえに ちょっと目を離せば 有ること無いことを織り交ぜてめちゃくちゃなかたちで 神のすがたを描いても 取りあえずは通って行くことが起きてしまいます。 イワシノアタマが神だと言っても それは ただ名前が 鰯の頭と同じであるだけであって あくまでナゾである神を仮りに理解するためにひとつの補助線を引いたものであるに過ぎない。アジノシッポという名であっても 同じことである。だから わが神の名は イワシノアタマである。――と言っても ここまでは 通用します。 仮りの命名として 普遍的な《非知》のことを イワシノアタマという名で指し示すことが出来るからです。決してその魚の頭を神として受け容れているわけではないと弁明することが出来ます。 ただし ところが 実際に神を《宇宙の法則》であるとか《南無妙法蓮華経という生命の根源》であるとか言われると つまりは その概念内容そのものが 神であると言われると それは 《考える》の問題にしか過ぎませんから 神として・また信仰として アウトです。 つまりは 《ヒトに似せて作る場合》と言いますか 《人がその精神という能力によって思考やまた想像をたくましくしてこしらえた場合》に成ります。その《生命》とか《科学的法則》とかの概念把握を得ている《ヒトに似せて作る場合》にあたります。 (もっとも《生命》は ナゾであり非知であるという見方があり得るとは思います)。 片や 思考や想像の産物としての神と 片やそうではなく 思考を超えていて我が心なる非思考の庭にいだかれる――ナゾであるから何が何だかワケの分からない霊としての――神とが 世の中にあると捉えられます。 この後者の神について ひとはカミの似像であると言っていますので まだ次のご批判は当たらない。こう思います。すなわち: ★ したがって初めの命題が逆ですから、「ひとはカミの似像」ではなくて、「カミの中にはヒトの似像もある」ように思います。 ☆ は当てはまらないように考えます。つまり 前者の《人間のつくった観念の神》についてのみ扱っておられる。と考えています。 したがって ★ ですから○国人が●でも世界の責任ではないと思います。 ☆ については まだ保留としたいと思います。
お礼
そうですね。 まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 韓国人をウソツキと考えるならば、責任の所在ではなく、まず、誰を欺いているのかをよく考えられたし。 / それこそが主体としてのヒトである。 ☆ 基本的に言って 《みづからを欺いている》のでしょうね。 たとえば 大統領は先だって 《国民を代表する大統領を冒涜(ぼうとく)する発言が度と(→を)超えている》と述べたそうです。 * 朴大統領 「恋愛発言」の野党議員を冒涜と非難 2014/09/16 14:08 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/16/2014091601850.html もしそうだとしたら つまりそうだとしても そのような行動に出るようになったのは 誰の何の所為なのか? 《空白の七時間》を自分が《演出》したのであり しかもいまだにそのことについて説明責任を果たしていない――司法当局が あれこれは 事実ではないと子供だましの答弁を繰り返すのみである――。このことについて 《自分を欺いている》と見ます。 (《恋愛》かどうかは 分かりませんし またそのこと自体を問題にしているのでもありません。死傷者の出る大きな海難事故が起こったというときに 七時間のあいだ行方不明であったというそのことについて 説明責任をまっとうせよと言うのみです)。 問題は 《主体としてのヒト》のばあい もし人間が神の似像であり 具体的に経験的なものごととして互いにその社会的な共生にもとづく《地続き》なるあり方をしているのであれば――こうであるとすれば―― この大統領や司法当局やあるいはそこで共に共同自治をおこなっている韓国人やと われわれ日本人も 法的にではなく人間として 同じような答責性を帯びている。のではないかというところにあります。 いくらなんでも それは 行き過ぎである。かも知れません。 このとき ★ 況してや、行為の結果の言質をカミに求めるなど、言語道断である。 ☆ とは批判されていますが じっさい問題としては《カミの似像》なる仮説(想定)は すでにその結論内容が推し出されたあとでは ほとんどどうでもよいと見なされることになっていると考えられるのです。 すなわち 経験科学ないし経験思想として 問題点を提出しているのであって 決してその推論が 初めの《神学》を後生大事にしてそこに依拠している――というわけのものではない。すなわち ★ ゆえに、根本原理が如何に論理的に保証をしようとも、ヒトの自らの行為や思想を普遍してはならない。 ☆ という命題には 違反していないはずです。 ★ ヒトは、客観の中に存在せず、ただ主観としてのみある。想念空間にあるヒトは既にしてヒトではない。 ☆ これは よく分かりません。《客観》を仮りに提出したとしますと それは 経験的な事態として提示していますので もしそれを客観だと言うとしても それを一人ひとりが認識したとすれば あくまで主観です。 主観は すべて――事実と対応していても――それとして《観念》としてあり得て《想念空間》にその人はあるとも言わなければなりません。つまり それが《ヒトではない》という規定 これも 納得は行きません。 ★ ヒトがカミの似像であっても、ヒトはカミにはなれない。 ☆ 《似像》というのは そういう意味です。 ★ ヒトの小宇宙が互いに通じていても、ヒトはそれに気づかない。 ☆ と言ったということは すでに気づいたという意味になります。そのほかのことではありません。その気づいたことは 経験事象についてです。空想の問題ではありません。