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なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?
仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。 ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。 この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。 「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。 ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません. 一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。 よろしくお願いします。
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カンタンに言えば、ありのままの今を感じられるようになったってこと。 たとえば、人はあれこれ考えるよね。 それって今のことなじゃいよね。 「あの時、こうすればよかった」とか、「これからどうなるか」 みたいに思考が今から飛んじゃってるわけ。 それが、一切なくなるのが悟り。 普通の人なら、一瞬できても、5分と続かないだろうね。 もうひとつは評価しないこと。 たとえば、人は人と会うと、「気が合いそう」とか、 「こいつイヤだ」とか評価しちゃう。 そういったことを一切しない。 ありのまま。 これが悟りだね。
- 0fool0
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ブッダの言葉の正確な意味は私にはわかりません。 一般に言われる様に『目覚めた人』という意味なのでしょう。 『目覚めた人』とは真理に目覚めた・気付いたで良いかと思います。 >「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか 目を閉じて生きていた事に気付き、目を明けて生きる事です。 これを具体的に記す事は出来ません。 勿論、質問者様が色々と調べられた通り、様々な言葉で語る事は可能です。 しかし結局は、この一点になります。 ちなみに迷いは決して消えません。 迷わなくなるのではなく、心の有り様が惑わなくなるのです。 別の言い方だと、 苦しみが無くなるのではなく、苦しみと共に有り続ける事です。
お礼
回答ありがとうございます。 ご自分の言葉でご説明いただき、有り難く拝受します. しかし、《迷わなくなるのではなく、心の有り様が惑わなくなるのです。 別の言い方だと、 苦しみが無くなるのではなく、苦しみと共に有り続ける事です。》 という言い方に、もう少し深く突っ込むべき何かを感じます. ともあれ、ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
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ブッダ=目覚めた人=悟った人=迷いのない人 迷いのない人 我われは迷ってばかり。 迷い、苦しみ、嘆き、悲しみ、怒り、恨み、そして楽しむ。 釈尊は目覚め、人の楽しむ姿さえ「苦」の世界であると観た。 このように「明らかに見極める」事が出来たので「目覚めた人」と云われた。 池の中に居ては池そのものの全貌を見ることは出来ない。 池から抜け出して、離れてこそ、池そのものを見ることが出きる。 釈尊は修行を通して「人間」を脱出したのだ。 脱出とは、わが身に執着している心から離れ、大本(おおもと)の精神に「帰趣」すると云う事。 人は人や自然との交流によって、喜びを感じたり、怒りを感じたり、恐れたり、心穏やかになったりする。 釈尊は、大本の精神と交流できたので、そうした人の悲喜交々を明らかに見極める事となり、だから「目覚めた人」と言われた。
お礼
回答ありがとうございます。 《ブッダ=目覚めた人=悟った人=迷いのない人》 こういう言い方は、分からないわけではありませんが、このままでは勝手に理解されてしまう様な気がします。 できれば、「根本」でなく「大本」、「帰趨」でなく「帰趣」などの言葉の違いとともに、もう少し違った切り口で解説していただければ、《目覚めた人=悟った人=迷いのない人》も、理解が深まる様な気がするのですが.如何でしょうか? どうも、ありがとうございました。
- EFA15EL
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それこそここでは書ききれない気がするのですが、 要するに仏教に於ける最上級の「悟り」を開いた者ということになります。 それって何なのよ、って話は仏教を深く学ぶと言う事とイコールです。 そんでもって、仏教史上ではそこに辿り着いたのは開祖である釈迦だけ。 だから釈迦=仏陀と言う訳ですね。 その「釈迦」ですが、これは本来は部族の名前。 釈迦が王子だったというのはご存知かと思いますが、 釈迦族の王子だったんですね。 というわけで、「釈迦」というのも尊称というか通称みたいなもの。 じゃあ彼の名前は?というと「ガウタマ・シッダールタ(カタカナ表記には様々あります)」です。 大体に於いて宗教指導者ってのは後々いろんな尊称がつけられるものでして。 彼の場合はそれが「釈迦」であり「仏陀」である、と言う事ですね。 イエス・キリストだって名前は「イエス(ヘブライ語で言えばヨシュア)」ですが、 後に尊称(というか何と言うか)として、キリスト(ヘブライ語で言えばメシア)がつけられたんですね。
お礼
回答ありがとうございます。 名前の由来をお教えいただき、ありがとうございます。 「悟り」に、等級があるのですね. 低級の悟りならば、誰でもたどり着くのでしょうか? どうもありがとうございました。
- a_hona
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苦悩ある存在である衆生から、苦悩なき存在である仏(ブッダ)になる教えが仏教である。 また、無明ある存在である衆生から、智慧ある存在である仏(ブッダ)になる道が仏道である。 貪瞋痴が定戒慧に転じた状態を覚りと言う。 釈迦牟尼は覚ったのでブッダ、目覚めた人と言われる。 受け売りやけどね。こんなところで。
お礼
早速の回答、ありがとうございます。 《貪瞋痴が定戒慧に転じた状態を覚りと言う。》 ここが分かりません. もし再答が可能ならば、よろしくお願いします。 どうも、ありがとうございました.
お礼
回答ありがとうございます。 あなたも、ご自分の言葉でご説明いただきありがとうございます. しかし、語法として、「一切しなくなる」「評価しない」「一切しない」という、否定しておいて肯定の部分について言及しない言い方は不完全です. 肯定部分の細事があなたの脳裏にしかないからです. もし、この言葉を理解していただけるなら、ぜひ肯定部分の思念や思考の記述を求めます。 よろしくお願いします。