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なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?
仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。 ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。 この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。 「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。 ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません. 一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。 よろしくお願いします。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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お応えをいただきました。 ★ (No.21お礼欄) 理解できない事実を どのように表現すれば良いのでしょうか? ☆ 承知しました。 考えが違うのは 仕方ないこととわたしも思います。 もしさらにご関心がおありでしたら 次のような質問でのやり取りを見てみてください。割り合いあたらしいものです。 【Q:スッタニパータのゴータマ批判】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8561787.html 【Q:美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8539819.html ☆ これらは ご質問への回答としてここで取り上げたスッタニパータの文章やマーガンディヤーの話にかかわるものです。 【Q:われわれは各々が ブッダであると何故言わないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8545041.html ☆ これは ぎゃくにゴータマがブッダ宣言をしたということを逆手にとって質問しているものです。誰でもじぶんが目覚めた者(ブッダ)だと言えるのではないかと問うものです。 じつは ほかにもかなりたくさん類種の質問をして来ております。ゴータマについての誤解をただそうとし またブディズムの良し悪しについて おもにそのマチガイを指摘しつつ 問うて来ております。 このここでの回答は これでおしまいですが このようにお答えするかたちで考えて来ております。
- 0fool0
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ふーるです。 ポイントは目覚めても何も変わりません。 大悟を得れば死ななくなる様な事はありません。 目覚めた今日と、無明の昨日とで、見た目には何も変わりません。 それが判ると判らないとです。
お礼
回答ありがとうございます。 間を置いて申し訳ありません。 分かり難い、という意味での宗教的な回答が多く、時間を取ってみました. 自分の側に多少の変化はありましたが、それを深まりとは思えませんでした。 要するに分かりません. 悪しからず.
- 0fool0
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No.4/11/14/22です。 >ただし、こういった言葉を使う人は、誠実でなく、真面目でないと思います。 その通りだと思います。 他人の人生に対して、身を粉にしていたら何日生きていられるか・・・。 それともご質問者様は、独り立ち出来ないほどの幼児なのでしょうか? 私に出来るのは自分で立とうとしている人間に立ち方を指南する程度です。 立てるか立てないかは本人次第なのです。 私は聖人では有りませんし、有徳の使者でもないです。 そういう導師を望むのならばそれこそお釈迦様にでも御すがりするしかないでしょう。
お礼
何度も、何度も、ありがとうございます。 私は「そのような導師」も、お釈迦様の御加護も望んでおりません。 最初の質問通り、「目覚める」とか「目覚めた」ということを、もう少し深く知りたいと願うばかりです. 深い意味を、具体的に説明できれば、私の様な小人でなく、人類一般、人類全般、の糧となるやも知れない、と思っての質問です. ともあれ、何度も何度も、ありがとうございました。
- 0fool0
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No.4/11/14です。 >「言葉を超える」という言葉は、このような言葉でのやり取りをするサイトには、相応しくないと思います。 実はここで論じられている全てが、世界の何処かの書物に記されている言葉ばかりです。 ご質問者様の質問はそもそも本を読むか、読んだ人に聞くかの違いに過ぎません。 釈尊は『我(釈尊)を拝んで何とする』との言葉を残しています。 教えることも教わることも出来ないのです。
お礼
再々再回答ありがとうございます。 《教えることも教わることも出来ない》、 こういった思考思索の域を超えた、将に神がかり的な説明は、前回の回答とともに、宗教関係者が一様によく使う手法です. ただし、こういった言葉を使う人は、誠実でなく、真面目でないと思います。 宗教は、科学的な説明の困難な部分があることは承知しておりますが、あなたの現在の説明段階では、表現を尽くさずに逃げているように思われます。 人のアイデンティはもともと、生まれと育ちが創るものであることに、全く疑念を持ちません。 必要なことをタイミングよく教わり、それを糧とすることに疑念を抱く必要はないと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.12です。 ★(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、大事な所を、正邪などの相対的な概念の言葉で語られてしまうと、急に白けてしまうのです. あなたの言葉でなく、引用された文章の言葉が、結局は過去の観念を上塗りするものだからでしょう。 だから、僕の疑問に対する回答は、こちらの方面の記述には無いと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じつは 引き合いに出したマーガンディヤー事件としてのゴータマ・ブッダの話は 伝承の部分が多いものです。 ですが 問題は そのひとつの核心部分としての話は スッタニパータに書かれているということ これを見逃すことは出来ないでしょう。 次のようです。そこでマーガンディヤは 美女マーガンディヤーの父親です。 ▼【 第4 八つの詩句の章 】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm <9、マーガンディヤ> -------------------------------------------------------- 835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」 836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」 837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」 838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」 839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」 840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。 842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。 843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。 844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。 845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。 846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あなたは ご自分の考えにとって都合のわるい話は 《希望するものではない》と言って見ないようにしているだけです。 すなわち ★★ なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか? ☆ ゴータマ氏の自分についてのブッダ宣言に――何の根拠もなく つまり根拠がないからこそ――騙され あたかもマインドコントロールをこうむったかのごとく そう呼ぶナラワシをつくってしまい 人びとはこれに従っている。こういうひとつの見解を寄せました。 ですから 見解の相違はあるにしても 問題が違うとか自分の希望するものではないとかという理由で 回答を打ち捨てることは ゆるされていません。
お礼
長い時間を 置いたことをお詫びいたします 長い長い回答を ありがとうございます あなたの回答を 捨てたつもりはありません。 しかし、理解不能に陥っているのかもしれません. また 理解が浅いから 理解できないのかもしれません. そのような疑問があったとしても、理解できない事実を どのように表現すれば良いのでしょうか? 許すとか、許されないとか、そういった言葉を人に言ってはなりません.
- Y Y(@yy8yy8az)
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『絶対的なひびき』 「目覚めた人」という表現に“絶対的なひびき”を感じるのは当時の人が「ブッダ」に“絶対的な、あるいは完全な、あるいは完成された”精神を感じて、こう表現したのではないでしょうか。 でも、生身の体を持つ“釈尊”もまた最小限の生理的欲求はあったはずで、それを思えば厳密には釈尊=神とはならないと思います。 いわば、体に宿った心を神の心に同化できるようになった、と云う事を“悟りの世界”と言ったのでしょう。 命あるうちは、これで良しと云う事はなく、はたから見れば「覚者」であっても、その内容は常に努力をしていたようで、それは仏教に在っては“念仏”であるらしく、法然上人の 「我は惟佛(ただほとけ)にいつかあふい草(ぐさ)、心のつまにかけぬ日ぞなき」 というお歌から想像するに、釈尊もまた常にこうして“修行”し続けたんだと思います。 明治から大正にかけて活動された“あるお坊さん”は、この心を例えて“霊恋”と表現しています。 「目覚めた人」とは、われわれが「覚者」を通して“神”を見ての、或いは見たと想像しての表現なのかも知れません。
お礼
回答ありがとうございます 時間をおき、申し訳ありません. 一つの見解ではありますが 僕の考えている方向とは.全く違っています. どうも、ありがとうございました。
- midnightcrawler
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>この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。 解脱した状態ではないでしょうか。 解脱は、原語ニッバーナで「火が消えた」の意味ですから、おそらく煩悩の火が完全に消えた状態だと思います。 真理の無知→貪欲→怒り という三毒の説明が解りやすいかも知れません。 真理の内容は、争いがありますが、縁起(全ての物は因果の流れの中にある)と三相(諸行無常・諸法無我・一切皆苦)で良いんじゃないかと思います。 万物は因果の流れの中で無常であり執着に値しないとわかれば、欲望から離れます。 欲望から離れると、手に入らないことから生ずる怒り・落ち込みから離れます。 これが瞑想により実感できるのが解脱ということだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 非常に分かりやすく、明快な回答を、ありがとうございます。 「解脱」も魅力的な境地ですが、目覚めたという意味でのブッダという言葉とは、違っています. 真理、縁起、因果、などの様々な疑問を、解脱に因って欲望から離れるということよりも、目覚めているから解脱する必要がない.という様な、境地を探しています. もし僕の理解に、誤解があったら、是非ご指摘ください。 あなたの言葉に同意はしていませんが、全くの不同意ではありません. しかし、何か、不自然なものを、われわれ日本人の先入観に訴える様な何かを感じるのです。 どうも、ありがとうございました。
- abc2008
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確かにブッダとは目覚めた人を意味しますが、それには二つ程の意味があり、まずは一つ目に目覚めたものとは、自身の内奥に素晴らしい卓越した能力があることに気付いたのです。その力とは、あらゆる願いを満足させ、病気に対する自然治癒力を増大させ、先を読み、真実を見極め、悪を寄せ付けず、いかなる苦難困難をも悠々と乗り切っていける、まさに鬼に金棒、ポパイにほうれん草、孫悟空に如意棒みたいな、つまり、使わなければ絶対損する、後悔するというパワーのことで、よく何処そこにパワースポットがあるなどと言う話を聞きますが、本来は誰もが自分の中に計り知れないパワーを持っているということで、結局、チルチルミチルの青い鳥の話にあるように真に価値あるものは極めて身近にあるのですが、灯台下暗しと言うか、なかなかそれに気が付かないのが現状のようです。それで他力本願的に自分以外の何かに求めてしまうのでしょう。 それで釈迦は、これを打破して誰もが本来持つ、無上の宝ともいえる内奥の存在を教えんがために仏教というものを創始したのですが、当初は、そのような素晴しい力が自分自身にあることなど誰も信じないし、また寄らば大樹の陰、他力本願的傾向が強い人々のために方便として様々な架空の人物を登場させては、それぞれに願いを叶えてくれる者、病気を治してくれる者、すべてを見通す者、悪を退治する者、苦悩を癒してくれる者等々、それらの力を擬人化して解り易く説いていったのです。その擬人化したものが様々な教経に説かれる大日や阿弥陀などの何々如来や薬師、観音、普賢、文殊などの何々菩薩ということなのです。 このように人々の傾向性に合わせて説いていくやり方を隋他意といいますが、最後に法華経を説いて、今までのものは自身の持つ能力を理解させるための下地作りであり、そのための方便であるから用いるべからずとして、ここで初めて釈迦はその本意を明かし、これがいわゆる隋自意というものですが、つまり、法華経において、今まで説いてきたあらゆる仏菩薩が持つ卓越した力が本来、万民の胸中にこそあり、それを欲しいままに使って揺るがない幸福境涯へと誰もが変わっていけることを説いたのです。もし人々の機根(理解力や受け入れる能力)さえ優れたものであれば、いきなり法華経を説いて済んだことですが、その当時の人々としては致しかたなく、何十年も掛けての騙しだましの化導という手法を取ったのです。 次に目覚めるの覚は、覚(さと)るとも読めるのですが、もちろん、この場合は悟ると意味は同じなのですが、それで悟るの定義ですが、その悟るという言葉の字体が表しているように立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知することで、それは『心』こそが本当の自分自身、つまり本質であって、鏡に映る肉体はその心の所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分自身そのものであるということに気付いたのです。 それで、釈迦以外にもこのことに気付いた著名人としては、かのデカルトがいますが、それは『我思う、故に我あり』という有名な言葉を残していますが、つまり、思う心があるからこそ自分は存在するというもので、肉体というものは、運動する機械と捉えて、その本質である心がそれを操作するということで、早い話がアニメのガンダムのモビルスーツとパイロットの関係を思い浮かべてもらえば解り易いかと思われます。 結局、人は目に見える物を以ってしか判断しない傾向性があるので、色も形もないが事実存在する心が自分自身の主体であるとは考えられず、肉体という鏡に映る客体を(心があればこそ認識しているのにも係わらず、その点に気付かず)主体として捉えてしまって、本末転倒しているのが実状で、つまり、本当の自分ではない無常の肉体に執着して、その挙句に苦悩を生じてしまっていて、その反対に色も形もない心こそが本当の自分自身と気付けば、元々、色も形もないが故に肉体のようにいずれ朽ち果てることもない常住のもの、つまり、我々自身は本来、不滅ともいえる存在であるということに確信が持てるようになり、それで、いわゆる生老病死を克服することができるようになるのです。 つまり、悟るとは、認識錯誤の無常のものへの執着ゆえの苦悩から離脱し、常住永遠のものへの確信による歓喜安穏への転換ということで、それは必然的に四苦の苦悩からの解放を意味し、いわばこれが解脱ということになるかと思われます。 ともかく、覚悟という言葉がありますが、仏教上の意味するところは、迷いを脱し真理を得ることとあるように、本来、自分の内奥に素晴らしいパワーがあり、しかも自分が永遠の存在で、時には肉体を所有したり離れたりしての生死、生死を繰り返しつつ、その持つ力を自在に発揮させては、その時々の生活(生命活動)を遊楽していけることを確信できれば、そけこそ仏陀といっても差し支えないかと思われます。
お礼
回答ありがとうございます 間をおいて、申し訳ありません. 結論にはほど遠いのですが、ここら辺でここでの質問は終わりにします. どうも、ありがとうございました。
- hokekyou333
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回答No15で回答した者ですが、今、30分ほど時間が取れそうなので、急ぎ別な観点から回答させていただきます。 すべての宗教の起こりは、私達が森の中で心静かに社会生活を営んでいただろうと思われる、まだ言葉による物事の分類や分析が進んでいない時代(人類の発祥が80万年前だったとすれば、こちらの方がはるかに私達の記述をもととした文明史よりもはるかに長い期間だったわでです)には、まだ発生していなかったというのが私が推理しているところの考えです。 その頃にも、太鼓などの音楽文化にて 大自然や生活や感動や恋の伝達とかいった言葉だけではとうてい伝ええない深い感性の伝えあいはあったと思いますが、 宗教はあくまでも、後に、言葉によるさらなる論理脳の面の発達が始まることから、部族と部族の頭による分類から 対立や対立者への疑いが始まり、家族は家族どうし村は村どうし、むしろ論理脳の発達によりかえって分裂も起こり、さらには個人と他人の間にも、前回の回答で書いた内側の黄身の部分の実質が消えてゆき、無意識的に他人と我とを区別してしまう脳作用が起こり、自我も発生し、 争いが起こりはじめ、とくに欲望と欲望との衝突による争いがおこり、そこにお互いの視点も、その自我の内側から見てしまうため齟齬もおおきくなり、 そこに「権威ある」道徳の必要性が、社会的に要請されるようになり、宗教が生まれてきたのだと私には思われるのです。 ところが、その権威がつよい権力と結びついたり、内的強制により欲望が曲がった形で押さえられ、かえって爆発してしまったり、偽善とか本音とたてまえの分裂とかが起こりはじめ、どんどん精神的には社会的にも歪が起こってしまうことに気が付いた人たちもいて、 それがブッダやキリストなどの、もっと総合的な宗教の希求を訴える人たちへとつながったというふうに考えられるのです。 そのうちブッダは、前回の回答で書きましたように、今となってはそのブッダご自身の真意はわかりかねるところ、 ただ、現在の私達が、その仏教思想の大きな流れを本質的に総合的にひも解かんとする時に、そこに浮かび上がってくる本質の深さから、そんな世界への最初のエネルギーとなり発火点となったブッダの存在を、 やはり私達は、謙虚に、彼のような人はまさに「目覚めた人」と呼ぶにふさわしい方だったのではないかと、憧れと尊敬の念をいだくのが自然な私達の推理脳の在り方だとわたしはですがそう思っているのです。 動物が進化し、やがてその動物の脳の中に、「「物事をみつめる」」脳が生まれた時から、私達人間という生物が誕生したというふうにも私は考えているのですが、 これは、同時に、赤ちゃんが、おぎゃああああと生まれた時点では大人の猿よりも劣った脳でありつつ、またたくまに猿の脳を追い越して、仲間としての本能的認識を越えてお母さんに同じ人間を見つけ「友」とみつけ、微笑む日が来るときには、その「人間脳」の誕生を意味するのだと考えてみると、 この最初の人類たちの脳が、最初に「見つめた」ものは、物事の分類の基礎となる認識の世界よりも、感性の目覚めをともなうような本能からの感性の解放のような世界だったのだと私には思えるのです。 始めて、どの動物は、木々を吹き渡る心安らぐ風の音を、そのような安らかな音として聞き分け、青空を青空として、雄大な空を空として、流れる雲が流れる雲として心に入ってきて、その雲がやがてあかね色に輝く時、その間に、 彼らは、初めて一番星を、一番星として、その言葉以前にも認識し感動して、目と目を見交わしあったのだと思うのです。 「友」と「友」の自覚の中でです。 今そのへんを詳しく書くゆとりがないので残念なのですが、だいたい言いたい事わかっていただけたでしょうか。 つまり、彼らは、感性に関しては、「めざめたひと」たちであったということなのです。 仏教思想の歴史も、またその以前のブッダご自身が口ずから説かれていたことの内容も、おそらく、論理脳の発展はそのままにて、どうしたら宗教以前の「しぜんな人間性」の心の世界にもどれるのか、ということの総合的人間性の希求やその論理の世界だったのではないでしょうか。 すみません、書きたくなることは山のようなのですが、時間が来てしまいました。 かんたんにですが、今回は「目覚めた人」というあたりについての回答を書いてみました。 それが「空」とか「縁起」とかの思想とどうつながっているのかについての私の考えについては、あとは質問があればなんとか、そこに絞って書いてみます。 時間がとれるなら、こちらからも積極的にもう少し詳しく書いて行ってみたいとも思っています。 宜しくお願いします。 では、今回はこれで失礼いたします。
お礼
何度も回答、ありがとうございます。 あなたの回答には、情熱的で真面目なものを感じ、心地良く思います。 しかし、卵の黄身、白身、殻、の例えは仏教の教えというよりも、あなたが構築した心象世界のように思えます. あなたが使われる、慈悲と愛も、僕にはその違いが明瞭には分かりかねます。 仏教やキリスト教などの伝統宗教ばかりでなく、どの種類の宗教も、新宗教でさえ、時間を経過しただけ、空間が広がっただけ、関わった人数が多かっただけ、どんどん変化してゆきます。 それはその宗教の問題というよりも、宗教を求める人の側と、無理難題に無理矢理こたえようとする、宗教の側の大きすぎる欲望に、問題や原因があるのでは無いでしょうか。 僕なりに、真面目に読ませていただいたつもりですが、僕の疑問への回答とは、あなたの回答の趣旨が違いすぎるように思いました。 ただ、仏教の原点に関する僕の質問に際して、あなたの宗教観の原点を開示していただいたことには、敬意を表します. もしかしたら、不愉快かもしれませんが、他にも気付いたことがあったら、お教えください. どうも、ありがとうございました。
- kurinal
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こんばんは。 一人の人間として見る時「ゴータマ」、 「仏教」では(既に「神格化」があって)「仏陀(ブッダ)」、 その尊称が「釈迦」、と思います。 >「ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。 この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。 「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。」 「判った人」では、どうでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 言葉に拘っているわけではありませんので、「判った人」でも良いと思います。 僕は、脳や、精神や、心の、どの様な状態なのかを知りたいのです。 そういった回答を求めているのです。 よろしくお願いします。
お礼
ずいぶん長い時間をかけての回答 ありがとうございます 半年の時間を経て 僕なりに考えもまとまってきましたが あなたに示していただいた 方法とは 違うところで、結論は出そうな気配です.. どうも、ありがとうございました。