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われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは
ないでしょうか? あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか? あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか? さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか? その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか? この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。 ご教授を乞います。 減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは? ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。
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bragelonneさんは、よく聖書からの言葉を引用しますので、それに習って私も、手元の仏書(明治から大正にかけて活動されたお坊さんの書)からの引用を試みました。 ‘逆質問’についてです。《》内は私の解釈ですが、自信が無いので?を付けて於きます。 三縁(さんえん) 如来《神?》より衆生に対する光は三縁にて、即ち恩寵である。恩寵〔光明〕を被(かふ)むる人の信仰に三心あり。近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、に対する関係にて。如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》とが衆生の三心の関係に三縁となるわけである。 親(みおや) 子(こ) 智慧‥‥‥‥近縁‥‥‥‥〈形式〉‥‥‥‥信念 慈悲‥‥‥‥親縁‥‥‥‥〈内容〉‥‥‥‥愛念 同化‥‥‥‥増上縁‥‥‥〈活動〉‥‥‥‥欲念 以上です。 全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。 あまり物事を深く追求できる頭ではないので、このくらいで勘弁してください。 うまく説明できませんが、bragelonneさんの質問の趣旨はなんとなくですが、分かっているつもりです。この回答はどうでしょうか。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「わたしたちの誰もが一人ひとり釈尊の再来であると言いたい」 bragelonneさんのこの気持ち、 これは、 すべてのものに仏性は備わっている、と見ているということですね? 私にはそのように受け止められます。 キリスト教と仏教とでは、どちらがbragelonneさんにとって、心持がいいですか。 私は仏教が肌に合うので仏教から学んでいます。だから聖書もその視点から読むことになり、その信仰の根幹は共通しているのだなぁとよく思います。 例えばbragelonneさんが取り上げた聖書のことば、「あなたは私の背面を見るであろう。私の顔はあなたに現れないであろう」といった言葉を、仏教では、「見仏」といっても肉眼でみえるわけではない。心が感じるのである。ということを言っているのだと、受け止められるのです。
お礼
みなさんへ。 ブッダ観について 次の質問に引き継ぎたいと思います。よろしくどうぞ。 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html
補足
yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。わたしも No.20の rain_nil さんにお応えしたように みなさんのおかげで この質問ではこころがやわらがしめられて来ています。(前回No.21は わざと怒りを表わそうとしていた嫌いがあります)。 ★ キリスト教と仏教とでは、どちらがbragelonneさんにとって、心持がいいですか。 ☆ 本音を申すならば――だいたいつねに本音をずけずけ言う人間ですが―― 組織や教義を持つ宗教はきらいです。個人の内面におさまる信仰のみでよいと思っている人間です。 キリストのキの字も出さずに こころの対話ができるならそれにこしたことはありません。 ブッダは この質問趣旨のように 観念の像としてすでに固まっていますので これを解きほぐすことからはじめるのがよいと考えています。 ▲ (親鸞:末燈抄 22) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『宝号経』にのたまはく、 弥陀の本願は行(ぎょう)にあらず、善にあらず【万行を修めること を求めているのでもなければ 諸善を積むことを条件としているわけで もなく】、ただ仏名をたもつなり。 名号はこれ善なり 行なり。行といふは 善をすることについていふことばなり。 本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには【心得た上は】、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。 本願の因は能生(のうしょう)する因【直接の原因】なり。 能生する因といふはすなはちこれ父なり。 大悲の光明はこれ所生(しょしょう)の縁【間接の要因】なり。 所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対他力》は 神の恵み――《風は気ままに吹く》――に相性がよいでしょう。 律法規範ないし道徳規範ないし善行をおこなえば すくわれるという方程式は 関係ないと言います。もしくは その方程式が人びとと世界を拘束するという観念から自由であらねばならない。その観念から自由であって初めて 善行も――それとすれば――活きる。 ○ 神は三位一体だと言われます。父と子と聖霊です。 ○ 光にたとえられます。光源が父であり その発耀が子であり それらの明るさ・暖かさが 聖霊だと言います。 ☆ 《本願の因:父》と《大悲の光明=所生の縁:母》というたとえと 微妙にちがいがありますが 《絶対他力》の基本においては 同じような見方をしているでしょう。 なおブッディスムには ほかに――わたしの憶測によれば――二つの信仰類型が考えられると見ています。 (1) いまの絶対者――阿弥陀如来と神――を想定し このもとにゴータマを含めてそれぞれがブッダである人びとと世界はあると見る。 (2) 同じくゴータマ・ブッダは 人間であると見る立ち場であり しかも 阿弥陀――無量光・無量寿という絶対――を立てずに そこは 無(空)とする信仰。つまりは 一般に無神論という信仰。 これは 無神という神 無という神を けっきょくは《絶対》の位置に立てている。 (3) ブッダを神と想定する立ち場です。言いかえると ゴータマという人間が 同時にブッダという神であると想定するものです。イエスという人間が キリストという神でもあるというのと同じ類型です。 これは もしブッディスムが ブラフマンという究極の実体を否定しているとすれば ありえない立ち場かも知れません。でも大日如来を立てこれがブッダと等しいというとすれば けっきょく クリスチアニスムと同じ類型になるでしょう。 でもけっきょくは どの類型においても 《絶対とわたし》の非思考における関係形式(これが信仰)は 共通です。どうでしょう?
- Y Y(@yy8yy8az)
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以前、bragelonneさんの「人はあやまちを赦せるか」といった趣旨の質問に参加したとき、私のブログに立ち寄られたのではないでしょうか。 たぶん「渋柿・・・」のたとえ話から検索されたのだと思いますが、そうですとこの‘お坊さん’の文章にはある程度接していることと思います。 弁栄上人(山崎弁栄)の意志を継ぐべく‘光明会’という組織があり書籍はそこで発行されています。 光明会では上人を‘弁栄聖者’と呼び、ホームページで紹介しています。 私は会員ではありませんが、縁を切りたくないので、毎月の会報(小冊子)を取り続けています。 そこから受ける印象は、エリート集団のようで敷居が高いという印象です。 また、弁栄聖者は‘釈尊の再来かと思える’とか聖者の指導する念仏は直線道(近道)であるとか、念仏の目的は「見仏」にある、といったような教団の‘思い入れ’に抵抗があります。 ですから私は上人の残された書籍「光明体系」を現代の仏典として心のよりどころとし、学んでいます。 情けないけど念仏の実践なんてしていません。
補足
yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。 《渋柿》から今回 たどり着きました。ほんの少し読みました。いきなり辛口批評ですが 弁栄さんは 何でもかでも《心意気》で議論も感化も持って行っていませんか? ▲ 宗教の精髄は感情にあり。 ☆ と言うごとくにです。明治以前の生まれだそうで 広げて明治人としますと やはりその謹厳実直さと言いますか あるいは当時として選良は襟を正していたと言いますか そのような雰囲気としても窺われるように思います。(早とちりでしたら あらかじめごめんなさい)。 つまり何が言いたいかと言いますと わたしはアマテラス(精神・理性)主義を嫌って どちらかと言えばスサノヲ(感性・ただし意志も・つまりは行動)主義なのですが これが――当然のこととして――万能であるとは思っていないわけです。 ★ 聖者の指導する念仏は直線道(近道)であるとか ☆ に結びつけたくはありませんし 結びつけてはいけないと考えます。 ★ 念仏の目的は「見仏」にある・・・に抵抗があります。 ☆ これは ちょうど《顔と顔を合わせて神を見る(=やはり見神と言います)》は無理で せめてその《背面を見る》の問題に呼応しているかも知れません。 以前のわたしの質問をいま読み返してみたのですが →【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html わたしは淡々と応答を進めて行っているようです。特に yy8yy8az さんのところで そうであるように感じました。 いまは むしろ怒りや不満を持ってこの質問などを問うています。感情をぶつけるかたちででも 一般的な見方に立てるようになったのか それとも敵対心をも芽生えさせてわざと世間を狭く渡ろうとしているのか。自慢をも伴なってしまうかたちで言えば おそらく両方なのではないかと考えました。 わたしの場合は 信仰つまり非思考においてはその名のとおり淡々として保持していると思いますが 一般に自己表現においては 怒りや嫌悪の感情を隠さずにいます。そして そのように弁栄師とは別の方面において同じでしょうかどうでしょうか 心意気を表わすかたちで進み行こうとしているようです。 浄土系でしたら やはり親鸞にももとづくことは大事ではないでしょうか。というのも 歎異抄をも上回る末燈抄に 信仰の類型についての議論があるのを最近見つけたからです。その類型は一般性を持つと考えています。 ★ 情けないけど念仏の実践なんてしていません。 ☆ わたしも大昔に親鸞の徒となったとき 称名はしなかったですね。弥陀による《摂取不捨》は 聞いてありがたいが その観念で固まるのは自己のはからいである。そのはからいを無くすことも はからいである。ではどうするべえ? といつも考えていました。 わたしたちの誰もが一人ひとり ★ 釈尊の再来 ☆ であると言って行きたいのですが どうでしょう? 互いに同等であるという意味になります。例外はないという意味です。 議論を交える対話は お嫌いですか?
bragelonneさん、ありがとさん(^^ (河原でキャッチボールをした後のような、気持ちになれました) またいつか。
お礼
rain_nil さん こんばんは。 それはよろしかったです。 わたしもみなさんともキャッチボールしている感覚です。 途中からみなさんがたのもしく感じられ――おかげさまで――楽しくもなって来ました。 こちらこそありがとうございました。 またお会いしましょう。 われらが日本をよくしてまいりましょう。
観念は人を支配しない。 人が観念に執着しているから、彼は悩むのである。 潔くよこしまな考えは捨て去り、明るい心を人は取り戻すべきである。
補足
rain_nil さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ○ 精神(こころ)は大海のごとくであって 事件やひとの言動やあるいは頭の中に描く観念は 心理の作用であるに過ぎない。海面に波風が立つというに過ぎない。 ★ 観念は人を支配しない。 / 人が観念に執着しているから、彼は悩むのである。 ☆ とおっしゃるとおりですね。 しかも この表面を行き交う心理の動きが 嵐や台風のごとくであって 長いあいだつづくとなると 精神も落ち込んでしまう場合があります。 落ち込んだと思わなくなってしまう場合さえあります。あるいは これは《わたし》でないと はじめは分かっていたのが もはやその《うわべの偽りのわたし》でもいいやとやけくそになって忘れてしまい 居心地がよくなる場合さえあります。 いまでは DNAから行けば 同じ人間が過去にいたなどとは考えられません。しかも《前世のわたし》という観念がまかり通っています。《輪廻転生》という観念が――たましいのお遊びとしてならまだしも―― 大のおとなが真剣に議論する的になっています。 台風が一過性ではなくなっています。一過性であっても また来て欲しい どんどん来て欲しいという心理に変わって来てさえいます。 六道輪廻を断ち切ることが出来ると宣言したブッダが 自分も過去世には 気の遠くなるような時間にわたって生まれ変わり修行をして来たとのたまいます。方便としての説教なのでしょうが 一向にその効果は現われません。 効果がないどころか 方便が方便でなくなり いまでは 前世のわたしだとか輪廻転生といった観念が 多くの人びとの頭を支配しております。心のただの表面での動き・そこにおける何回にもわたる吹き晒しによる刷り込み これがあたかも人を支配しているかの様相を呈しています。 ★ 潔くよこしまな考えは捨て去り、明るい心を人は取り戻すべきである。 ☆ そうなのですが――そのとおりなのですが―― 多勢に無勢ということもあります。やはりどこまでもこころの表面に起こる波風であることに変わりはないのですが 一過性のものも年中行事にでもなると あたかも頭の中で格上げの操作が行なわれるのでしょうか おのれの分身であるかのごとく扱われるようになります。 ★ 潔くよこしまな考えは捨て去り、明るい心を人は取り戻すべきである。 ☆ という命題をひとりの人間がこの社会の中で実践していくにはむつかしい部分があるようです。そういう実践をしようものなら かえって波風が強くなって当たって来ます。 ま この波風もふつうの批判であるならまだしも ただのののしりが雨あられのごとく降ってくるという現象であることが多いようです。わたしも質問者としてじゅうぶんこの現象を味わって来ました。ここではその結果は 質問じたいの削除とあい成ります。 つまり海面のうわべに立つ波風も 一回ごとの動きが常態化してくると 人びとの頭の中を支配するかのようにまでなるという現実の一端ですね。このことをお伝えしようとしました。 しかも ブッダはこの悪循環に悪影響を与えているのではないか。こういう問いです。前世の自分 その因果応報の説。あるいは さとりという遠い空にある星をかかげたことにより 一方ではたしかに夜空に光る星なのですから 人びとにのぞみを持つことを促している。しかも他方では このきぼうの星の――観念としての――存在が 世の中のいやなことに対するガス抜きにもなっている。 昨今はならなくなってもいるようですが 社会のアマテラスお二階さんが 和を以って貴しと為すと号令をかければ たいていのあたまは 右を向いたものです。おとなしくなったものです。聖徳太子も ブッディスム関係と言っていいですから。 切りがありませんので 球をそちらにお返しします。
- KungFuStar
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>仏性がすべてのひとにそなわるというのなら 特別のサイトに行かないと答えが>かなわないというのは おかしいですから。 >いまこのように考えております。 その前提が、何故その結論に至る根拠になるのかが分かりませんが、 質問の解決の糸口を見出すという観点から見れば、ここにこだわらずに広く専門分野の門をたたいてみた方が話が早いのでは?というのが私のできる回答です。人は平等に味覚が備わっているから、特別な人に聞かないとワインの味が分からないのはおかしな話ですから っていうのも変でしょ? そして、主さんのテーマはすでにディープですよw 仏性がすべての人にそなわるのなら…実際備わっているのでしょうか?という点もあるわけですし。その結論は科学的なものか、哲学的なものか、信心によるものかって議論にもなるわけだし。キリがないわけです。 それではノシ
お礼
KungFuStar さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まづ 専門家のもとに行くことに何の問題もなく むしろ当然答えを得る度合いは大きいわけです。 それでも行かないというのは もし行って答えが得られたなら あらためてこの場で報告を兼ねたような投稿なり質問なりをすることになります。その途中の過程を採りたくないという気持ちです。 もっと言えば いまこのわたしの質問内容を表わしたような文章は見たことがないのがひとつです。あるいは アーラヤ識において不可変性としての種子があっては――諸法無我の説にとって――おかしいといった議論は読んだことがありますが その疑問について答えは出ていないと書いていたと思います。 そのように考えるなら 問題は はっきりとブッディスムには 自己矛盾があるということではないか。こう思っているかぎりでは 自分から動きを起こしたくない気持ちでいるわけです。ですから以前でしたら 誰に対してでも 質問攻めにしていましたが いわば今は問いと疑問の熟していくのを見守るという姿勢のもとにあって ただしこの場で最近やたらにブッダについての話が多いと思われたので問い質したいと思ったものです。質問を出すなら 勉強になります。 ★ 人は平等に味覚が備わっているから、特別な人に聞かないとワインの味が分からないのはおかしな話ですから っていうのも変でしょ? ☆ これについて 《変》だと思わない立ち場なのです。素人としてのワインを飲んだ味 これでじゅうぶんだという立ち場なのです。 観念のワイン論――その中身を知らないから わたしはこう言えるのかも分かりませんが――から自由になるべきだというのが 質問の趣旨ですから。 ★ 仏性がすべての人にそなわるのなら…実際備わっているのでしょうか?という点もあるわけですし。その結論は科学的なものか、哲学的なものか、信心によるものかって議論にもなるわけだし。キリがないわけです。 ☆ ブッダ観に限るなら ひとそれぞれの主観によって判断すればよい――こう考えています。またこの考えについて 批判を与えてくださいという趣旨にもなっていると思います。 ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
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bragelonneさん。 その‘恵み’は、仏教で言うところの‘慈悲心’であると受け止めても、異存はないでしょうか。
お礼
yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 慈悲心 ☆ というのも 複雑なのではないですか? 【Q:慈悲は 経験現実か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html をわたしも問いました。まだ釈然としていないところがあります。要は たとえば仏性の不可変性が 諸法無我(つまり不可変なる実体はない)の説と抵触するはづです。 仏性にもとづく自己表現 ここに《慈悲》が伴なわれるかと言えば どうなんでしょう? もし ブッダはあくまで人間であるという前提に立つならば この慈悲を 理論的には 誰もが人間として実践できると帰結されると思われます。 だとすれば 神の愛としての《恵み》は この人間の実践する慈悲とは別です。 しかもさらにややこしい事態をともないます。 わたしたち人間が それぞれ自分の知性と努力とで ほかのひとに対して そのひとの持ち前のちからを十二分に発揮することができるよう お手伝いをするというそれとしての愛が実践されるとします。この人間の経験的で 悲しいかな 移ろい行く可変的な行為としての愛に 実際に 神の恵みとしての愛が はたらくという現実がありうると考えます。 それは ですが けっきょく 恵みであり われわれ人間のはからいによるものではないわけです。いわば神が勝手に愛としてはたらいている――風が気ままに吹いた――というものです。 ぎゃくにお訊きしますが では このとき《慈悲》はその愛に重なっていますか? その慈悲の行為の主体は 誰ですか? 人間ですか? ブッダですか? このように考えます。いかがでしょう?
- KungFuStar
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仏教についてのディープな話なら、尽きることがないと思いますので、 最適と思えるものを紹介することにします。 ニコニコ動画の生放送のコミュニティで「ニー仏」さんという方が夜枠で放送しています。(日曜は日中) チャット形式で質問OKですし、メールや掲示板、スカイプでも受けてくれます。 http://ch.nicovideo.jp/community/co16537
お礼
KungFuStar さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。もう少し以前なら 質問攻めにしていたと思います。じつは ブッディスム探究は 昔の個人的なときのことは措くとしてここでの質問は 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】( noname#80116 はわたしです)。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html から始まっています。その後どうも――経典をすべて勉強する問題とは違って―― 基本的にブッディスムには弱点があると考えるようになりました。それについて追い追い質問して来ています。今回もその一環です。 ですからそういう意味では 基本的にこの場で探究をつづけたいとは考えます。 ★ 「ニー仏」 ☆ さんのサイトでは ▲ 今年中に出家の予定 ☆ という人の質問に 「ニー仏」さんが答えていたのですが いまはせっかくですが この OKWave の場で進めていこうと考えます。ぎゃくに 「ニー仏」さんにこちらに参加して欲しいと思います。 ★ 仏教についてのディープな話 ☆ 微妙ですね。このおしえの深い意味はどうなんですかといった探究とは いまは 性格を異にしています。基本的に ブッディスムは 現代において存在理由があるのか。この観点からですから。 たぶん 「ニー仏」さんのように一手に引き受けて対話をおこなっておられるのでしたら この観点での問題をも扱っておられるでしょうが いまここを去って あちらへ行くという考えは起こりません。ここは 《ディープな話》は実現不可能だということになるのは おかしいと考えます。なぜなら 仏性がすべてのひとにそなわるというのなら 特別のサイトに行かないと答えがかなわないというのは おかしいですから。 いまこのように考えております。
直球で、つまりbragelonneさんは何が知りたいのかを尋ねてくれるとうれしいのだけど。。 つまり自分(回答者としての私)はそういうことが知りたい。 いまのところ、話が複雑すぎて理解できない。この状態で答えても、アバウトな感じ(自己流解釈)の回答しか出せないから、困ってる。 みんな何かを知りたくて質問してるわけだから、他の質問の傾向についてとやかく言う必要は無いんじゃないかな。 ただ、自分(質問者)は知りたい事を質問できて、回答者はそれについて答えてくれると。質問者は自分のために問い(自利)、回答者は質問者のために答える(利他)。 回答者は、質問者の本当に知りたいことが知りたい(利他=自利) 質問者は、回答者から本当の心を聞き出したい。(自利=利他) 自分(rain_nil)の、人と交わす問答の理解はこんな感じ。 素晴らしいじゃないか。人が言葉を交わせると言うのは素晴らしい。 だからやっぱり、言葉はちゃんと伝わらないと、寂しいよね。 静かにしてないと、相手の本音が聞き出せないよ。 言うまでもないことだけれど、本音を語るのは難しい。 全面的に相手を信頼していないとできないから。 そして、さらに難しいのは、相手の本音が聞けること。 僕は後者を目指したいね。 自分は真実を探してる。人生はそのためにある。だから、かけがえのない人々とは、本当の言葉で語り合いたい。何にもとらわれることなく、誠実に尽くしたい。 bragelonneさんはどうかな? 本音で話せてるかい? お互い、まだまだ精進のいるところかな(笑い
お礼
rain_nil さん ご回答をありがとうございます。 ★ 本音で話せてるかい? ☆ 取りあえず 前回(No.11補足欄)の後半――つまり《わたしは前回 次のような評言も添えていました》からあとの部分です――や あるいは ほかの方への応答ですが 直近のNo.13補足欄の後半での問いをあらためて ここに引き合いに出したいと思います。 ○ マーガンディヤー事件 ☆ これは おおきな問題だと思いますよ。ブッディストは特にはっきりと 自分の見解を述べるべきだと考えます。 →【Q:慈悲は 経験現実か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html そのNo.15補足欄お礼欄あたりから 議論が始まっています。(質問者= noname#80116 は わたしです)。 ゴータマ・ブッダの欠点をあげつらうためではなく 《さとり》の内容にかんして 道徳規範化したときの固さつまり頑なさつまり もはや思考が柔軟でなくなるということを指摘しえているはづであり ここで言う《観念のブッダ像》の思わざる支配の問題が見えてくると考えます。参照箇所は長いですが。
回答番号:No.7です。 私の回答は、他の回答者さんのお礼の ○ ブッダは 神ですか? ○ 仏性は 誰にでもそなわっていますか? ○ 人間なら誰でもブッダになれますか? を元にして回答しました。 そして、自分の回答へのお礼の内容を読みました。 私は、質問者さんがいったい何を求めているのだろうかと私は思いました。初めの質問文を読み、その他、他の方のお礼等もお読みしましたが、はっきりと解りません。 質問の意図や求めているものが解っていないのに、回答しても、きちんとした回答はできません。 お謝りいたします。質問者さんの初めの質問の意味が解らず回答して、質問者さんが求めいるものと離れた回答をしてしまい申し訳ありません。 また、誰しも仏性を備わっていないような書き方もしていることも申し訳ありません。そのような気はなかったのですが、もっと明確に、誰しも仏性は備わっていると書くべきでありました。表現方法が不十分でありました。 また、仏性の度合いも、仏性の開花の度合いという意味で書いていましたが、それも表現方法が不十分であること認め、謝罪します。 私の回答へのお礼の内容に対し、「こうであると思います」というものがありますが、それは、質問者さんの本来の質問の意図に沿っていないので、そのような回答しません。 もし、本来の質問の意図に沿っていなくても、目を通したいというのであれば、お書きします。
補足
RF2244 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 たぶん わたしのことですが この質問者は ずけずけとものを言うばかりでなく 大風呂敷を広げて山師のようなことを言うとお思いになったことでしょう。これは 半分は 意見交換の進みを早めようとする意図によるものです。残り半分の半分は ブッディスムに対して やはりその思想内容があいまいであるとわたしが考えることにおいて 怒りを持っていることによるものです。あとの半分つまり全体の四分の一は わたしのくせによるものです。 おおきな顔をして言うことではありませんが 少しでも和解をめざします。 でもどうも わたしの勘違いもあったのでしょうか。別に和解を求めて言っておられるようでもないですし わたしの意図が分かりにくいのはそれとして きちんと対話を推し進めていただいております。 さて例によって 決して興味本位によるのではなく 話をおもしろくして問うてみたいと思いました。こうです。 (1) 《わたしはブッダである》と宣言するひとが――宗教組織とは関係なく―― 出ないのでしょうか? (2) 出ないとすれば何故でしょうか? (3) むしろすべての人が そう宣言して生きるのが ずっと建設的だと考えます。 (4) ブッディスムを揚棄することができると考えます。つまり ブッダが もはや頭の中の観念の像として もやもやとした形で あるいは 何か固定した形で 刷り込まれている状態は解消するのではないでしょうか? (5) なぜそのような解消や揚棄が必要かと言えば こうです。ブッダを持ち出すときには何かと言えば そのさとりの境地からはわたしはほど遠いのですがうんぬんという表現が 口をついて出てくるのを聞くからです。 (6) 宗派がちがうとおっしゃるかも知れませんが 《自未得度先度他》と言う場合があります。《わたしはさとりからは ほど遠いですが・・・》というのは 謙虚そのものを表わしているかと言えば 必ずしもそうとは限らないのではないでしょうか? (7) なんでゴータマ・ブッダに遠慮ばかりしなければならないのでしょう? かれの欠点をひとつ挙げるとすれば 例のマーガンディヤー事件での振る舞いや発言にあると考えます。 (8) かと言って 一方で 一人ひとりが見解を異にしてもいいわけですが 他方で なぜ宗旨宗派が先に来る場合があるのでしょう? (9) 仏性をなぜすべての人にそれぞれ見ないのでしょう? もしくは 仏性などないとはっきり言わないのでしょう? こういった疑問を持ちます。いかがでしょう?
- Y Y(@yy8yy8az)
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bragelonneさん。 bragelonneさんの使われている‘恵み’という言葉を‘愛’と受け止めてよいでしょうか。
補足
yy8yy8az さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ bragelonneさんの使われている‘恵み’という言葉を‘愛’と受け止めてよいでしょうか。 ☆ これは次の文章でのことですね。 ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが クリスチアニスムの場合には ○ 知性や人格あるいは社会への貢献の努力――むろん これらを貶ることではありません そうではなく その上にということですが――によって ひとはすくわれるのではなく ただ恵みによる。 ☆ と捉えます。恩恵というのは そのまま《ただ(無料)》ということであり 《風は気ままに吹く》という意味です。それゆえに 《非思考》なのです 信仰は。親鸞の言うごとく《はからいによってではない》というわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あと 聖書からの引用にも出て来ています。 ▲ (ヨハネによる福音書1:17-18) ~~~~~~~~~~~~ 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合のお答えとしましては こう考えます。 ○ ここで《恵み》は その内容をくみ取って《愛――神の愛――》と言いかえられますが 言おうとしていることは もし《愛》という言葉を用いるなら 《神からの一方的な愛》を言う。 ☆ と思います。その人間の状態が 愛されるに値するかしないかにかかわりなく 愛が注がれるということを言うはづです。 パウロは 当時としてはあたらしいユダヤ教徒――つまりイエス教徒たち――を 伝統のユダヤ教徒として迫害していました。 ▲ わたしはあわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。(=風は気ままに吹く) ☆ というごとく そんなパウロには 神の息吹きが吹きかけられ 神を指し示したイエスのことを全世界につたえるという務めが与えられました。 パウロという人間の意向・努力あるいはたとえば資格ですとか能力ですとかそれらの条件のようなものには一切関係なく 愛が注がれた。その一方的なあり方をくみ取って 恵みと呼ぶのだと思います。
補足
yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。 またまた引用ですが。神はモーセに次のごとく言ったそうです。 ▲ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~~~~~~~ 見よ 私の傍らに一つの場所がある。 私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。 私はあなたを岩の頂上に置こう。 私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。 私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 私の顔はあなたに現われないであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 〈如来《神?》より衆生に対する光〉 これが上のように ○ 如来(=神)の後ろ姿をひとは見る。 ☆ という関係だと思いました。むろんこの関係が 《信仰=非思考》です。 ここからは わたしのほうの解釈で応対してまいります。 ★ 全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。 ☆ まづこの命題がお互いに得られたようですね。 ▲ 神がひとに言うには:あなたはわたしの貌(かお)を見て生きることはできない。 ☆ どうもこういうふうだと考えます。 ▲ 私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。 ☆ これは 類型的に当てはめるにすぎないことですが イエスが地上にいたあいだ イエスは自分が父なる神の独り子であり父は子にそのすべての力をゆだねており子である自分自身も神であるという意味合いのことをすでに言っていたにも拘わらず弟子たちをはじめとして 人びとは誰も そのキリストであることが分からなかった。ことに対応すると言われます。 人びとは その《威厳≒威力》の手で蔽われていて分からなかったという解釈のことです。はりつけの十字架上に死を死んだあと 弟子たちには生前にイエスが言っていたことの内容が分かってしまったということのようです。そういう一連の過程としてのはからいは 知恵であり愛(意志)であると言えるでしょう。つまりおおまかに言って ◆ 如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》 ☆ といったところでしょうか。細かいところで突っ込めば 《理性》は 理性以上の理性でしょうし 《感情》は感情以上の知覚のはたらきであるでしょうし 《意志》は 意志中の意志なのでしょう。 その――《三縁》と言いますか――三つの面(おもて)(つまり実際には その背面)は 《形式・内容・活動》に当てはめてもいいかと思いますが それらが ◆ 信念・愛念・欲念 ☆ という概念に対応するというところは まだよくつかめません。 ◆ 近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、 ☆ というところですね。と言うのも: ○ 非思考(つまり なぞ のことですね)としての信仰は すでに《如来とわたしの関係》において その関係の全体として成り立っていると思いますし。 ○ 《愛》は 神の愛と人間の愛とがある。つまり 如来=神の側のはからいとしての慈悲=恩寵・恩恵=恵み=愛と そして この《愛》の似像(にすがた)としての相対的な人間の愛――《衆生縁ないし法縁としての人間における経験的な行為たる慈悲》でしょうか?――とがある。こう区分できるでしょうし。 ○ 《欲》は どうなんでしょう? ――もし如来のうしろ姿をでも見ることができたのなら それに倣ってわれわれ人間も はなはだ不類似ながら多少は似ている愛=慈悲のおこないをできると言っていいかも知れません。その人間の意志のことを広く意欲と言えるかも知れませんし ○ あるいはむしろ時には《おれはうしろ姿だけではなくその顔を見たのだ》と言い出して意欲に任せて如来の無縁の慈悲そのものを実践できるのだと吹聴するようになる。このような欲望のことを言うのかも知れません。 さらに詳しい方に 解説やらそのあとの展開やらをお願いしておきたいと思います。どうなるか分かりませんが 記しておきます。 * そのお坊さんの名前を出しておかれたほうが みなさんのためにも いいと思いますよ。