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三内丸山遺跡の復元された建物
- 三内丸山遺跡では多くの建物が復元されており、いくつかは大型掘立柱建物や大型竪穴住居です。
- この遺跡で復元された建物の姿を想定する際、特に縄文時代の建築様式を基にしています。
- 大型掘立柱建物の伐木方法については、焼いて倒す方法が推定されています。
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>この遺跡では多くの建物が復元されていますが 上部構造はあくまでも推定です。 正倉院や伊勢神宮などの古建築物や銅鐸に描かれた絵から建築学的知見を取り入れて再現しています。 大木を使った柱の列は吉野ヶ里遺跡や、出雲大社遺跡からも出土しています。 厳密に上部構造がこうだったというのは未だ研究中です。 時間的なデザインの推移変化もこれからでしょう。 >どんな方法で大木を伐り出したのですか。 石器というのは作り方次第で、現在の安い小型ナイフ程度の切れ味はだせます。(カッターとは別の肥後守とか呼ばれていたナイフ)動物の皮を切ったり剥いだりすることは充分できます。上手くやればお刺身も出来ます。 (こんなことをセッセトやるのを実験考古学といいます) 楔を使えば大概の大木は倒せます。 >焼けた跡があるそうですから、焼いて倒したと推定されているのですか。 生木はちょっとやそっとでは燃えません。 腐敗防止処置は表面を炙るだけです。 >大型竪穴住居 竪穴式住居については、小型のものが、各地からそっくりそのまま倒壊したものが見つかっていてほぼ正確に復元できます。 >集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。 どのような社会制度であったのかは、正確には解っていません。 民俗学の知見から推定しています。 これからも、各地から色々なもが出土するでしょう。楽しみにしていてください。
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- chiha2525
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他の方の回答どおりなのですが、ご自身が紹介のサイトに年表がありますね。世界史とのからみも分かる、なかなか良いものだと思います。 http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/jomon/main.html 建築物の上部構造は、伊勢神宮のつくりなどを参考にしての想像なのですが、神社を研究している人から言わせればまったくのデタラメらしく、縄文時代の建物が伊勢神宮の建物と関連があるとは考えられないらしいです。 吉野ヶ里遺跡の再現でも、堀の外に木柵をつくり、それでは堀の意味が無いと指摘されたり、どうも考古学の再現はおそまつなものが多いようです。 質問者さんも指摘されているとおり、遺跡の期間が1000年ほどもあるのに、その間のものを一緒くたに「再現」している部分もあります。 あと出雲大社の遺跡は13世紀ごろのものなので、そんなに古くないです。
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ご回答ありがとうございます。 遺跡の「公式サイト」という名を信用して画像を見てしまうと、とんでもない誤解をするおそれがあるということですね。 吉野ケ里遺跡公園はずいぶん前に一度だけ見ましたが、堀の外に木柵があったとは気づきませんでした。 柵のすきまが狭すぎて、迎え撃つ攻撃がしにくいのではないか、という意見は聞きました。 それにしても、一見して、立派すぎると思いました。 >縄文時代の建物が伊勢神宮の建物と関連があるとは考えられないらしいです。 そうですよね。両者の間には3千年の隔たりがありますから。 地元の遺跡を立派に見せたいものだから、他の遺跡に負けないという気持ちがあって、建物をより大きく復元しているような気がします。 大変参考になりました。
- technatama
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1000年以上も続く遺跡であれば、様々な年代の遺物が地層毎に重なり合って発掘されるものだと思います。 遺物類の年代測定をもとに、5500年前から1500年間続いていた遺跡だろうと推定しているのではないでしょうか。 当然、建物の類は、何代にもわたって新しいものに建て替えられているはずですから、放射性炭素による年代測定結果があったとしても、年代幅がある内のどの年代を採用するかは、不確定なものだと考えます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この遺跡は、ネットの画像でしか見たことはないのですが、 「この遺跡は、ここが最も栄えていたおよそ○世紀ごろの様子を復元しています」という説明があれば、と思って質問しました。
- technatama
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三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末までを中心に、およそ1500年続いた大規模集落の跡地だとされています。 今から5500年前頃から始まっているそうですから、紀元前3500年頃から紀元前2000年頃まででしょう。 有史以降の感覚とは違いますので、いつ頃だと特定できるものでもありませんが、この1500年の間に縄文人の生活・文化はゆっくりと進歩していったはずです。 有史以降の歴史をみると、勃興期~最盛期~衰退期と変化していくのが一般的なので、三内丸山遺跡でも恐らく同様に推移したものと思われます。 そうすると、最盛期から衰退期の間のどこかだと考えられるのではないでしょうか。 1500年から推定すると、1000年くらい経った時点が一応の目安のような気がします。 すなわち、紀元前2500年ごろの遺跡の復元ではないかと、私は勝手に想像しています。 〔参考文献〕講談社・日本の歴史01『縄文の生活誌 改訂版』(著者:岡村道雄)
お礼
ご回答ありがとうございます。 >最盛期から衰退期の間のどこかだと考えられるのではないでしょうか。 そうですね、同感です。 すると「紀元前2500年ごろの遺跡の復元ではないかと」いうことになりますね。 ただ、大型掘立柱建物のクリは焦げているので、放射性炭素年代測定法ですでに年代測定が終わっていると思っていたのですが、素人考えなのでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >楔を使えば大概の大木は倒せます。 なるほど! そうでした。 岩でも楔で割っていますね。 それに、確かに“生木はちょっとやそっとで燃えない”です。よく解りました。 >腐敗防止処置は表面を炙るだけです。 こんなことを知っていた縄文人はすごい! 現代でも杉板の表面を焼いて板壁にしていますから。 小さな竪穴住居はそっくりそのまま出土している例があるのですね。 早速調べてみます。 ご教示に感謝します。