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三内丸山遺跡の交易品
三内丸山遺跡のサイトには、 「遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきました。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになりました」 と説明されています。 これらの品々は物々交換されたと思うのですが、三内丸山が提供したモノは何でしょうか。 いわば、三内丸山の名産品だと思うのですが…。 よろしくお願いします。 三内丸山遺跡公式HP「縄文時代の扉を開く 交流・交易」 http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/jomon/index.html
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●技術の供与・交換を考えられないでしょうか。 ○考えにくいですね。 土器の製作はすでに一般的になっていますし、技術の供与では1度渡してしまえば相手方のものになってしまうので、2度目以降の交易が不成立になってしまいます。
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- oska
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>これらの品々は物々交換されたと思うのですが、三内丸山が提供したモノは何でしょうか。 偽書とされる「東日流外三郡誌」に、詳しく乗っています。 偽書か否かは別として、三内丸山遺跡発掘前に既に東日流外三郡誌に記述がありましたからね。 発掘されるまで、当時の学会・常識では「東北に、古代文化は無い」のが常識でした。 質問者さまも、この「東日流外三郡誌」を購入して読めば理解できると思います。 徳間書店版が、サイズ・値段的にも良いかも? 余談ですが・・・。 日本書紀も、一種の「偽書」と考えている学者もいます。 意図的に、7世紀前半までの歴史を抹殺していますよね。 何故? この説では、百済の王子である「中臣鎌足=藤原鎌足」を祖とする「藤原一族の正当性を記載した書物」に過ぎないからです。 物部・占部・蘇我などは、徹底的に悪者扱いですよね。 全方位外交を行なっていた蘇我一族を滅ぼし、百済救済の軍を派遣。(白村江の戦い) 負け戦を覚悟で、天智天皇は何故か出兵を決断しましたよね。 日本書紀では、この期間「藤原鎌足は、行方不明」なんです。 百済の歴史書では、何故か突然(行方不明だった)王子が先頭に立って戦っています。 実際は、百済援軍への派兵に反対した蘇我一族が邪魔になったのでしようね。 が、日本書紀では「天皇の意向に逆らった逆臣」となっています。 まぁ、歴史は「勝者の歴史」に過ぎません。 南朝鮮(韓国)の国定教科書も自国に都合の良い内容だけしか記述がありません。 UCLAでは、偽書扱いとする博士もいます。(爆笑)
お礼
ご回答ありがとうございます。 徳間書店は「超古代史」が得意分野ですね。 「東日流外三郡誌」が、一時、ブームになったことは覚えています。 >まぁ、歴史は「勝者の歴史」に過ぎません。 同感です。
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
●本当に、物々交換したのだろうか、疑問はつきません。 ○ヒスイにしても黒曜石にしても採取に労力を要しますからタダで渡すとは考えにくく、対価があったと考えるのが自然かと思います。 何を対価で渡したか、を考察するのが考古学、わかっていないことの方が多いのですよ。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 以下、私の独り言ですから、無視してください。 素人の私の想像ですが、物々交換の範囲を広げてみますと、技術の供与・交換を考えられないでしょうか。 土器を製作するには、土、火力の知識を必要としますから。 ヒスイも原石を拾っても穿孔や磨きの技術を必要としますから。 「わかっていないことの方が多い」ことを承知のうえで、想像しています。
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
常識的に考えれば青森でしか採れない海産物などでしょうね。遺物として残らないのでわかりませんが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、そうでしょうね。 日持ちする加工品ということでしょうね。 文字の記録もなければ、遺物として残ることもない。 本当に、物々交換したのだろうか、疑問はつきません。
お礼
私の取り留めのない空想に、度々答えていただいてありがとうございます。 >技術の供与では1度渡してしまえば相手方のものになってしまう…。 確かにそうですよね。 やっぱり、元に戻って、特産品と物々交換したと思います。