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三内丸山遺跡の栗林は何故農耕とされないのか?

 青森県にある縄文期の遺跡である三内丸山遺跡では、遺跡の周囲に広大な栗林が存在していた事が判明しており、この栗林は意図的に植林されたものと考えられている様です。  ところが三内丸山遺跡に関して調べてみた処、「NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第4集 縄文 奇跡の大集落」等を始めとして、三内丸山遺跡では農耕が行なわれていたと見做していない情報が幾つもありました。  土地を管理し、植林等によって食用に供する目的で植物を増やして栽培していたのであれば、それは農耕だと思うのですが、何故、三内丸山遺跡の栗林は農耕と見做されないのでしょうか?  後それから、三内丸山遺跡の事を狩猟採集社会と見做す考えがあるという事は、その栗林で収穫される栗の実の量は、人口を支えるのに必要な食料の半分にも満たないものだったと考えられているのでしょうか?  もしそうではなく、人口を支えるのに必要な食料の半分以上を栗林等を始めとする栽培した植物からの収穫物で賄っていたという事であれば、その場合は農耕社会と呼んだ方が良いのではないでしょうか?(尚、食料の過半を農作物で賄っていたとしても、全てを農作物で賄っていない事をもって狩猟採集社会と見做すのであれば、現代社会もまた漁業等の農耕以外の手段によって得た食料も利用している事に変わりはありませんから、現代社会も狩猟採集社会と見做さねばならない事になってしまいます)

みんなの回答

  • suiran2
  • ベストアンサー率55% (1516/2748)
回答No.7

自然科学,特に生態学では,樹木の栽培は農耕となり得ません。農耕とは,その土地から得られる純生産量を何十倍にも引き上げることを農耕と呼びます。何十倍にも引き上げた結果,何十倍の人口を養えるようになるのです。クリの栽培で,数百人の人口が数万人に増えたのでしたら,それは立派な農耕です。 樹木は,現存量を維持するために総生産量のほとんどを呼吸等で消費しますから純生産量はわずかにしかなりません。ですから農耕とは,純生産量が多くなる草本を栽培することです。特に効率の良いものはイネ科草本ですから,コムギ,イネ,トウモロコシ等を栽培することです。 縄文時代は,ウルシ,クリだけで無く麻も栽培していました。麻は生産性が高いですから原始農耕と呼んでも良いのではと思いますが,クリだけでは無理と思います。

回答No.6

 歴史の括り方は人それぞれの考えがありますので、その点で質問者さんの意見には理由が通っていると思います。栗を植林して食用にしていたのなら「農耕社会」の中に入れてもいいと思います。 しかし、  「農耕」には「耕す」という文字が含まれていい、田畑を耕し米や野菜などを繰り返し苗から育成する場合をいいます。  リンゴや梨、みかんなどは果肉を食べる「果樹」であり、「栽培」という言葉を使いますが、栗は種を食べますので「木の実」となり「栽培」にという言葉が使い難くなるようです。  厳密な定義はないかも知れませんが、言葉のニュアンスです。「農業」と言えるかも知れませんが、「農耕」という言葉が使い難いです。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。  済みません。質問の仕方が悪かったようです。  私が疑問に思っているのは、三内丸山遺跡が「農耕社会」とされていないという事だけではなく、「狩猟採取社会」とされているという事もなのです。  三内丸山遺跡で栽培された栗の実が重要な食料源となっている事を認めながら、耕していない事を以て「狩猟採取社会」とされているという事は、牧畜が食料を得るための主な手段となっている場合や、現在アメリカ合衆国や南米などで広く採用される様になっている不耕起栽培による穀類の栽培なども、「狩猟採取」と見做した方が良いという事なのでしょうか?

回答No.5

それまでの”教科書”では、縄文時代は狩猟採集社会であるというのが定説だったわけで、三内丸山遺跡の衝撃というのはそのあたりにもあります、いわゆる”教科書”を書き換えなければならなくなったってやつです。今ちょこっと見たら栗林以外にも豆やヒョウタンなども栽培されていたらしいですね。 三内丸山遺跡では農耕が行われていたと見て良いと思います。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。  はい、縄文時代は狩猟採集社会であるというのが定説だった事は存じております。  只、三内丸山遺跡において意図的に栗の木の栽培がおこなわれていたという事が明らかになったのは十何年も前の事であり、質問文で触れている >「NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第4集 縄文 奇跡の大集落」等を始めとして、三内丸山遺跡では農耕が行なわれていたと見做していない情報 でも、それらの殆どは三内丸山遺跡で栗の栽培がおこなわれていたという事に関しては概ね事実であると認めている内容でした。  私が知りたいと思っているのは、栗等の食用となる植物の栽培が行なわれていた事を認めていながら、それでもなお、三内丸山遺跡で農耕が行なわれていたと見做してはおらず、狩猟採取社会であると見做している理由なのです。

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.4

 No.3 teppou です。  >人にとって必要のない植物は人の手で撤去されていた事は確実です。  確実とまでは言えないにしても、十分あり得ることでしょうし、調査研究で判明するかもしれませんね。  >三内丸山遺跡の周囲に生えていた栗の木の遺伝情報は極めて均一であった事も判明していますから、木に成る実の量や質等で育てる木を選別して接ぎ木や挿し木等で増やすとともに、質の劣る木は排除していたものと考えられます。  接ぎ木や挿し木については、根拠のない推測ですね。  よく実がなる遺伝子を持った木があったとして、その実は当然たくさん収穫できますので、その実を植えたとすれば、均質な遺伝子の栗林ができることは特別な状況とは言えないでしょう。  >これは立派に管理されていたと言える様な気が致しますが、違うのでしょうか?  気がするだけでは、学問研究のモチベーションにはなるでしょうが、学問的仮説とは認められません。何かの出土物の発見が必要です。  >もし言えないとしますと、農地として管理されていると言うためには、どの様な条件を満たしている必要があるのでしょうか?  農耕の定義はないようですが、特定の区画の地面を耕して(農耕と言うくらいですから)、一年生か二年生の作物を栽培することを農耕とみなすようです。このことは、人口の増加に速やかに対応できるということに大きな意味があると考えられるからです。また、種を持って移動し、移動先ですぐに農耕を始めることができると言うことも大きな意味があると思います。  三内丸山の場合、人口の増加に対応したというより、収穫量が増えたので人口が増えたと考えられます。  樹木の栽培は農耕とは言えないということはないと思いますが、三内丸山で農耕がおこなわれたというのは、現在の研究状況では無理があるのではないでしょうか。  文字ができる前の時代の考古学は、出土物が全てです。  考古学については、アイデア的な仮説はたくさんあるのですが、仮説を証明するような出土物がないものがほとんどです。また、出土物を自分の仮説の証拠だとして研究発表をしても、なかなか認めてもらえないということもたくさんあります。  今後の研究を待つか、あなた自身がその研究をするかしかないと思います。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。 >>人にとって必要のない植物は人の手で撤去されていた事は確実です。 >  確実とまでは言えないにしても、  確実とは言えないという事は、管理をしていなくても自然に栗以外の樹木が排除されて、栗の純林が形成される可能性があるという事を意味しているのでしょうが、ちょっと信じられません。  一体どの様な現象によって、集落の周囲にのみ自然に栗だけが生えて、栗以外の植物が生えないようになるのでしょうか? >気がするだけでは、学問研究のモチベーションにはなるでしょうが、学問的仮説とは認められません。何かの出土物の発見が必要です。  いえ、気がするというのは、あくまで「管理している事に該当する」かどうかという点に関してのみであり、遺伝的差異が殆ど無い株の栗の木のみからなる純林が遺跡の集落の周囲にのみ存在しているという事に関しては既に出土物の発見によって明らかとなっている事実です。  これを人の管理によるものではないとするためには、その様な異常な状況が自然に発生し得るという事を示さねばなりませんが、そのような事が起きた可能性があるとする仮説があるのでしょうか? >農耕の定義はないようですが、特定の区画の地面を耕して(農耕と言うくらいですから)、一年生か二年生の作物を栽培することを農耕とみなすようです。  そうしますと、現在アメリカ合衆国や南米などで広く採用される様になっている不耕起栽培も農耕とは言えないという事になりますが、それも採取社会と見做した方が良いという御意見なのでしょうか?

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.3

 鋭い御指摘と思います。  農耕の定義と言うものは特にないようですが、農地が管理されているかどうかで判断が分かれるようです。  もっとも原始的な農耕は、焼畑ですが、これは畑の収量が下がれば、場所を変えて焼畑を行い、元の土地は自然の回復力により、また農耕ができるまで放置すると言うものです。  もう少し進むと、灌漑をおこない、河川水に含まれる栄養分を農地に吸わせて収量の低下を防ぐようになります。  これに対して、食用になる実を取りに山野に出かけるかわりに、実のなる樹木を身近に植えると言うだけで、農耕と言うのは少し無理があるように思います。  現在でも狩猟採集民族はいますが、そういう人々は山野の食用になる実のなる樹木を手入れしていることが知られていますが、むろんこれを農耕とは言いません。  また、農耕に適していない地域では、わずかに開けた場所に少しずつ種をまいて、一応の栽培をして食料調達をしている民族もいますが、これも農耕とは言わないようです。  三内丸山の場合も、特段の管理がなされていたわけではないようですので、農耕とは言えないのでしょう。  しかし、もう少し研究が進み、栗園と言えるような状況であった場合には、「前期農耕状態」などと言う言葉ができるかもしれませんね。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。  三内丸山遺跡の周囲の土地の多くは栗の純林に被われていた事が判っています。  ただ単に栗の木を植えるだけで後は放置していたのでは、栗以外の植物も繁茂してしまいますから、栗の純林が形成される事は考えられません。  ですから、人にとって必要のない植物は人の手で撤去されていた事は確実です。  又、三内丸山遺跡の周囲に生えていた栗の木の遺伝情報は極めて均一であった事も判明していますから、木に成る実の量や質等で育てる木を選別して接ぎ木や挿し木等で増やすとともに、質の劣る木は排除していたものと考えられます。  これは立派に管理されていたと言える様な気が致しますが、違うのでしょうか?  もし言えないとしますと、農地として管理されていると言うためには、どの様な条件を満たしている必要があるのでしょうか?

回答No.2

植林が農耕に含まれない という考えだからでは? ちなみに三内丸山の人たちは1日に必要なカルシウムの40%を この栗から摂取していた事が骨の分析で明らかになっています ちなみに 最近の研究では縄文人は海人集団だったことが分かっています 船を作って遠洋に漕ぎ出し マグロやタラをとっていました もしかすると農耕より 漁の方がメインだったのかも?

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。 >植林が農耕に含まれない という考えだからでは?  つまり、現代のリンゴやミカン、オリーブ等の農園や、北アフリカや中東で主要な食品の1つでもあるナツメヤシの農園などでの果樹の栽培も農耕ではないという事ですね。  では、何処までが農耕に含まれるのでしょうか? >もしかすると農耕より 漁の方がメインだったのかも?  仰る事がちょっと矛盾しているのではないでしょうか?  魚はカルシウムを多く含んでいる食品なのですから、漁がメインで魚が主な食糧源になっていたのなら、主なカルシウム源も魚という事になりますから、 >三内丸山の人たちは1日に必要なカルシウムの40%を この栗から摂取していた事が骨の分析で明らかになっています という事にはならない筈です。

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>土地を管理し、植林等によって食用に供する目的で植物を増やして栽培していたのであれば、それは農耕だと思うのですが、何故、三内丸山遺跡の栗林は農耕と見做されないのでしょうか? 農耕という言葉の定義の範囲の違いだけです。 質問者さんがより広く解釈し、TV番組の制作者が狭く解釈していただけの話です。 >人口を支えるのに必要な食料の半分以上を栗林等を始めとする栽培した植物からの収穫物で賄っていたという事であれば、その場合は農耕社会と呼んだ方が良いのではないでしょうか? 農耕社会とか狩猟採取社会とかを区分けするのに半分だからどうのこうのという数値を元にした考えは方は含まれていません。 >全てを農作物で賄っていない事をもって狩猟採集社会と見做すのであれば、現代社会もまた漁業等の農耕以外の手段によって得た食料も利用している事に変わりはありませんから、現代社会も狩猟採集社会と見做さねばならない事になってしまいます。 言葉を使う際になんでもかんでも数値を基準にされると、ご指摘のような議論が生じてきます。 自然科学といいますか技術用語と人文科学での用語の取り扱い自体が違っていますので、一方的な論拠を持ち出されても不毛な議論となってしまいます。 一つの分野での定義思考に合致しないから否定するようなことは誰もやっていません。 半分だのなんだのと数値絶対主義は、単なる科学教であって科学ではありません。 従いましてご質問に対しての回答は不能ということになります。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。 >農耕という言葉の定義の範囲の違いだけです。 >質問者さんがより広く解釈し、TV番組の制作者が狭く解釈していただけの話です。  失礼ながら、それだけでは何の答にもなっていません。  それは単にTV番組の制作者が三内丸山遺跡の栗の木の栽培を農耕と見做していないという、私が既に確認済みの事を言葉を変えて述べているだけで、 >何故、三内丸山遺跡の栗林は農耕と見做されないのでしょうか? という疑問に対する答えにはなっておりません。  それだけでは、何をもって農耕と見做しているのかという事が不明なままですから、栗の木の栽培が回答者様の仰る「狭く解釈していた」場合の「農耕という言葉の定義」から外れていると見做す根拠がありません。  回答者様の仰る「狭く解釈していた」場合の「農耕という言葉の定義」とはどの様なものなのですか?  例えば「農耕とは稲作のみを指すものであって、それ以外のものは農耕ではない」という様な類のものなのでしょうか?(その場合、ジャガイモが主な食糧だったインカ文明等も狩猟採取社会と見做さねばなりません) >農耕社会とか狩猟採取社会とかを区分けするのに半分だからどうのこうのという数値を元にした考えは方は含まれていません。  三内丸山遺跡では栽培した栗の実が重要な食糧となっていたのですから、数値を基にした考え方をしないのであればなおの事、三内丸山遺跡を狩猟採取社会と見做しているのはおかしいという事になります。

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