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デカルトの疑いについて
済みません、発作的質問です。 デカルトの「我思うゆえに我有り」と言う言葉は、徹底的に疑うことによって、到達した言葉だと聞きましたが、 疑っている人はだれですか?
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> あれれ、冗談だと思っているのですか? 失礼しました。 ではこれはどうでしょう。 > 疑っている人はだれですか? 疑っている人はfishbowl66さん、あなたです。 デカルトも疑い、私の回答も疑い、何もかも疑い、 そこから始まる何かが、あなたの求めている回答では?
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- ghostbuster
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わー、ごめんなさい。 質問者さんがそう書いていらっしゃったから使ったんですけど、私の方が「発作的」なんて書いたら失礼でしたね。 そんなつもりじゃなくて、私の方は、質問の要点から離れて、言葉の使い方みたいなところに突っ込んで、揚げ足取りみたいだなー、止めようかなー、と思いながら書いてたので、つい、あんな表現になってしまいました。 やっぱりユークリッド幾何学を例に取ったのは不適切でしたね。 そうです。 質問者さんがおっしゃるように、デカルトは数学を「真の学問」としつつも、それにも懐疑を及ぼしています。 なぜならば、数学においてもわれわれは誤ることがある。 われわれが確実だと思っていても、神が常に誤らせていないとは断言できないからです。 で、あらゆるものを疑い尽くしたときに、ただひとつ確実なもの、それが疑っている「われ」なんですね。 ただ、以前、私自身が理解していくとき、デカルトが目指そうとしたものは、ユークリッド公理のようなもので、点や線にあたるもの=コギト、という理解の仕方をしたんです。それで、そんなふうな書き方をしたのですが、確かに誤解を生む表現だったので、訂正しておきます。 時間については私自身、ちょっとよくわからないので(延長という性質を持つ物体とは別個に定義づけていたかよく覚えていません)、また別の機会があれば、ということにしておいてください。
お礼
わっはっはっははは~(笑って誤魔化しましょう。 今朝起きたら、すっかり熱も下がり、正常になりました。 皆様のお薬が効いたようです。 それでは有難うございました、では、あまりにも無責任です、症状の顛末についてご報告させてもらいます、馬鹿なやつとお笑いください。 他で書いたように、少々混乱していました、最初は、すべてを疑った後、疑えない「我」にたどり着くより、始めに疑ったときに「疑っている我」に気が付けば良いのに、と言うばかげた考え、すぐ気がついたのですが、その後、「我」「存在」が同時に疑えないとするとき、「疑っている我」と疑えない我」同時に存在しては矛盾しているのではと、思い込んでしまいましたのです。 「思う、あり」を「思う内容、あり」と、取り違えてしまった、恥ずかしい質問でした。以上お騒わせしました。
- ghostbuster
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発作的に出された質問、ということなので、厳密なお考えがあって書かれた文章ではないかと思います。 ただ誤解があるように思え、気になって仕方がないので、非常に申し訳ないのですが、指摘させてください。 >デカルトの「我思うゆえに我有り」と言う言葉は、徹底的に疑うことによって、到達した言葉だと聞きましたが これは非常によく陥りがちな誤りです。 デカルトの第一原理は、デカルト個人が思索を経た後に、「たどりついた到達点」ではありません。 数学の世界では、古典幾何学は「ユークリッド公理」に基づいていることはご存じですね。 ユークリッドは、まず点や線を定義し、5つの公理を示しています。 公理とは、「証明する必要のない、明らかに自明な法則」ですから、ここから出発して、それらを組み合わせることにより、いろいろな定理を証明していきます。公理が正しければ、そこから導かれた定理に疑問の余地はありません。 デカルトは数学的方法をもって、唯一の真実の学問的方法であると考えました。 すべての認識は、数学的方法にのっとって、初めて確実な知識に到達する、と考えたんです。 こうした観点から、哲学も、数学を規範として打ち立てようとした。 まず、誰にとってもあきらかな直観的真理を求めて(点と線のように)、これを公理として、確実な真理を演繹し、展開していこうとしたんです。 この点と線にあたるのが、「我思うゆえに我有り」という哲学の第一原理なのです。 到達点ではなく、ここを確実な足場として、一切の論理を組み立てていこうとしたのです。 デカルトは考えます。 従来学問といわれたものは、ばらばらの知識の寄せ集めに過ぎない。 したがって、一般的に真理と言われているものすべてを疑い、まったく新たに真理を見出していかなければならない。 『省察』を読んでいただければわかるかと思うのですが、この第一原理を導き出していく徹底した懐疑、という部分、「われわれが一切のものを疑いつくしたときにおいて」…と、一貫して主語が「われわれ」になっていることに注目してください。 われわれは、一切を疑うことができる。 けれども、この自分が疑っているという事実、自分が思惟しつつ存在するということのみは決してこれを疑うことができない。 こうしてデカルトは哲学の出発点となるべき確実な真理に到達したのですが、これは、公理が誰にとっても真理であるように、誰にとっても確実なことです。 しかも、これは推論によってえられたもの、「すべて思惟するものは存在する」「われは思惟する」「ゆえにわれは存在する」という、三段論法によって得られたものではなく(詳しくは書きませんが、デカルトの時代は未だスコラ哲学の影響の強い時代で、デカルト自身もスコラ哲学を学んでいます。スコラ哲学は、厳密に概念措定をおこない、三段論法を用います)、直接的・直観的な認識なのです。 したがって、疑っている人は、あまねく真理を求めようとする人、と理解できるのではないでしょうか。 ※なお、文中に「ユークリッド公理」を喩えとして用いているのは、あくまでも私の比喩としてご理解ください。 ユークリッド幾何学と、デカルトが体系化した解析幾何学の関係を見ていく能力は私にはありません。
お礼
あらら、デカルトは幾何学も否定したのではなかったのですか。 おっと、又発作的に御礼をしてしまった。 確かに、「ゆえに」のせいで、誤解していた点も有るのですが、デカルトって確か時間についても何か言ってましたよね、方法序説は以前読んだまま何処かへ行ってしまいましたし「省察」まで手が廻らないんでデカルトをよく理解していないのでしょうね。 ただ、この質問をした私と、お礼する私は同じでしょうか? カントの時はいろいろお世話になりました、助かりました。 発作的に質問してラッキーでした。
その問題は、以下のように置き換えることが 出来るのではないでしょうか。(きっとジョーク半分ですよね(^^;) 「鶏が先か、卵が先か」 これは難問ですね。一生考えれそうです。。。
お礼
あれれ、冗談だと思っているのですか? 「卵が先か、卵が先か」です。 4月2日の質問の「仮説」(と皆さんが仰る)の証明について、あれこれ悩んでいたとき、デカルト的に考えると確かに仮説かなと思えてきたのですが、「存在」が疑えない「我」と「存在」が疑わしい「我」違うものが二つ有るのか、最初の「我」は存在しないのか、なにやらこんがらがってしまったのです。 病気見舞い感謝いたします(笑
- aminouchi
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fishbowl66さんにとっては既知のことと思い答えを省略したのですが、改めて書きましょう。 >最初に疑った人はどこからきてるのか デカルトは「確実に存在するもの/こと」を求めてあらゆることの存在を疑います。 自分の外の世界を疑い、自分の肉体を疑い、自分の感覚を疑い・・そうして懐疑を突き詰めていく時、どうしてもその疑っている「我」は存在するということに気がついたのです。 と、このような流れから考えますと「最初に疑った人」というものは必要になるのでしょうか。 改めて書くことは不必要であるかもしれませんが、哲学で大事なことは「問い」の立て方であり、新たな問いによって世界観が変化するわけです。その意味で私はfishbowl66さんの質問を興味深く見ているわけですが・・なかなかその問いの方向が見えて来ないというのが実感です。
お礼
aminouchiさん、かいかぶりです、本当に私はアホですから 最後にたどり着いた「我」が疑いえない「我」で、最初に現実を夢かもしれないと疑がった「我」は、疑いえたのでしょうか。 証明するために誰かが通らなければならない過程は理解できるのですが、微妙に変なんです(笑 お約束のものは確かに受け取りました、わざわざお手間を取らせこちらこそ感謝しています。
- aminouchi
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fishbowl66さんの他の質問にもお答えしようと思っているのですが・・とりあえず、この質問は端的に答えられますので。 疑っているのは「我」(この場合はデカルト)です。 我思う、とした時に主体としてあるいは客体として「我」が存在しているという言明です。 「方法序説」あるいは「省察」の冒頭に出ています。
お礼
その通りなんですが、いろんなものを疑った最後に、我に気がつくのですが、最初に疑った人はどこからきてるのかな~ 素朴な疑問でした。いつもお世話になります。
お礼
SimpleThree様、病気見舞いに続き、全快祝い、ありがたく頂戴いたしました。 おつと、全快祝いは、私のほうからお届けするべきでした。 ほほ~、私が疑っているのですか、自分の事には、なか々気が付かないものですね。 健やかなときも、病めるときも、宜しくご指導お願いします(笑って許して。