デカルト and self
今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。
デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。
i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).
蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?
お礼
ご回答有難うございます。 私の質問の主旨を、わかりやすく丁寧に、また私以上に明快に解説していただき感激しています。 私はもともとマルクス経済学を通して世界を見てきましたが、最初から労働価値説には同意することが出来ずにいました、近年、マルクス経済学の中にも「労働価値説不要論」や、共産主義を目指さない共産党が出現するなど、私自身のずさんな哲学を再確認する必要があると感じています。 デカルトの言葉を借りれば「新しい家」を建てる必要があるのです。 デカルトはこの有名な「ワレ惟ウ」と言う文句の次のページで「考えるためには存在しなければならない」て仰るのですが、彼には神の加護が有ります、神に見放された私は、自分の理性だけがたよりです。 「新しい家」を建てる為の土地選びです。 一元論・二元論・多元論、観念論に唯物論。どこの土地も高そうで、私の住む場所はなさそうです(涙。