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デカルトとは無関係で

デカルトの哲学を歴史的に理解することではありません。 1)「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」 2)「ワレ在り、故ニワレ惟ウ」 この違いに、どのような意味があるのでしょう。 どちらかが「真」で一方が「偽」でしょうか。 本当は、結構困っています。

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  • nana-4649
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回答No.2

 デカルトの哲学を歴史的に理解することではない…ということですが、デカルトの言うことを現代に当てはめて考えてみると結構面白いと思ったので、少し考えてみました  「全てを疑ってみたときに、それでも疑いきれないこと…それこそが真理だ。すなわち、それは疑っている自分がそこに存在しているということ…。」 これが、デカルトのいう「我思う、故にわれあり」ですよね。 これの私の現代風解釈はこうです。  この世界は本当に存在すると言い切れるのだろうか…?本当はこの世界なんて存在しないのかもしれない。自分でさえも誰かの見ている夢の中の登場人物の一人にすぎないのかもしれない…。もしかしたら、この世で起こっている全てのことは精密にプログラムされたコンピューターの中の出来事にすぎないかもしれない。  そんな風に、全てのものを疑っていったときに、ふと気が付く。 …でも、もし、すべてが夢や、プログラムされたものであるとしたら…今、こうして色々な事を疑っているこの「思考」は何なのだろう。自由に考え、自由に感じ、自由に思う。幻や、単なるプログラムにこんなことが出来るだろうか…。いや、そんなことはないはずだ。  こうして考えていることこそが「私」が夢や幻ではなく、ここに存在しているという何よりもの証拠なのではないだろうか!!?思っている私は間違いなくここに存在しているのだ!! …(笑)  確かに、そういわれて考えてみると、まるでSF映画のような話ではありますが、本当にこの世界は存在していると、言い切ることは出来ないような気もします。そうなると、全ては幻かもしれないわけですから、本当に確実といえるのはこの「思考」だけであるといえます。つまり2ではなく1が真ということになります。  しかし、科学的にいうならば、思考があるから人がいるのではなく、「人」という器があり、脳があり様々な神経伝達物質が様々な感情を引き起こすから、「思考」というものはうまれるのです…。思考だけがとびぬけて存在するわけがありません。科学にいわせると幽霊なんでものは存在しえない極めてナンセンスな代物です。  今は存在している人も、死ねば、思考もとまり、ただの土くれにかえる…科学にとっては、これが絶対の真実なわけです。つまり、1ではなく2が真ということになるのでしょう。  どちらが真でどちらが偽かはどこに視点をおくかによるのではないか…と私は思います…。  哲学っておもしろいんですけど、ずっと考えていると頭がごちゃごちゃしてきますね…。(苦笑)  文章の中でわかりにくい等ありましたら、補足しますので、そのときは遠慮せずおっしゃってください。ながながと失礼いたしました。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 私の質問の主旨を、わかりやすく丁寧に、また私以上に明快に解説していただき感激しています。 私はもともとマルクス経済学を通して世界を見てきましたが、最初から労働価値説には同意することが出来ずにいました、近年、マルクス経済学の中にも「労働価値説不要論」や、共産主義を目指さない共産党が出現するなど、私自身のずさんな哲学を再確認する必要があると感じています。 デカルトの言葉を借りれば「新しい家」を建てる必要があるのです。 デカルトはこの有名な「ワレ惟ウ」と言う文句の次のページで「考えるためには存在しなければならない」て仰るのですが、彼には神の加護が有ります、神に見放された私は、自分の理性だけがたよりです。 「新しい家」を建てる為の土地選びです。 一元論・二元論・多元論、観念論に唯物論。どこの土地も高そうで、私の住む場所はなさそうです(涙。

その他の回答 (2)

  • nana-4649
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回答No.3

 こんな回答で、お礼を言われていいのかどうか、かなり疑問です。(苦笑)  fishbowl66さんは私なんかより、ずっと哲学に詳しい方なんですね。恐縮です。「ワレ惟ウ」の次のページの言葉など、私は知りませんでした。(笑)  私は一時期哲学にはまっていて、その頃、倫理の教科書を読みながら様々な事を考えていました。 先の回答で、「どちらが真でどちらが偽かはどこに視点をおくかによるのではないかと思う…。」といいましたが、私自身は、1も2も真だと考えているかもしれません。肉体があり、様々な機能があるからこそ、私には様々な思考が働く。つまり、肉体としての「我」があるからこそ私は思うことができる。これは間違いないこと。  しかし、肉体的「我」があっても、本当に「自分」としての思考をしているとは限らない。ただ、流されているだけならば本当の意味で「我」ありとはいえない気がする。そういう意味では、思うからこそ我がある…というのが真なのではないかと。 …でもこの考え、1のときと2のときと「我」の意味を変えちゃってますよね…。(笑)  ああ、やっぱり哲学は難しい。。。

noname#15238
質問者

お礼

折角のご回答を、解説などと表現した私の不明を反省しています。私は、哲学には詳しくないから質問しているんいですが、誤解を与えて申し訳ありません。 難しいから面白いのではないでしょうか。 「我」は、存在から派生したものなのか、派生した時点で「我」となるのか、最初のご回答以来色々考えていました,尤も、今だから言えますが、視点によって異なっては困りますね(笑 結局,私の肉体が私のものかどうかですね、日々再生産される細胞は循環の中に有って,私のものかどうかさっぱり分りません。本当に難しいですね。

  • wolv
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回答No.1

たとえば、石がそこに存在したとしても石が何かを思うかどうかは定かではありません。したがって、2番目の例は偽であるように思います。 「この違いの意味」は、「逆は必ずしも真ならず」という意味だと思います。

noname#15238
質問者

お礼

早速のご回答有難うございます。 質問が安易でご迷惑をおかけしたようで。 確かに「石」の「意志」は認識不可能ですが、そうなると、石の存在は夢か幻になってしまいそうです。 1)が真なら、なぜ「ワレ惟ウ」ことが出来るのかという問い掛けが私の内側から出てきてしまうのです。 1)と2)違い、本当にどちらが先なのかが判らないと言ったところでしょうか。