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デカルトの例の一句についてホントのところ、どうなんでしょう?

かねてからの素朴な?疑問なんですが少しでもヒマがあるうちに尋ねておこうと思います。 デカルトの例の有名過ぎる一句 『我思う故に我あり』 なんですが、この『故に』というのは付け足しではないのでしょうか? 原語に即すれば 『我思う我あり』 だそうですね。これだと意味が違ってくるようにも思います。 聞くところによればデカルト氏は本当は 『我思う故に我ありと我思う』 と言いたかったらしいそうですが。 何しろドイツ語もなんも分からんので、お詳しいかたの御教示お待ちしております。宜しく願い上げます。

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noname#122289
noname#122289
回答No.4

Cogito, ergo sum. 17世紀、ヨーロッパでは各国語による著作が盛んになってデカルト自身もフランス語で書いていたのにどうしてここだけラテン語で世間に流布しているのか考えてみました。 「思う」と訳されていますがラテン語のcogitoは「思う」「考える」「熟考する」「瞑想する」から「気になる」「意図する」「知覚する」「認知する」「想像する」までかなり意味の幅が広い動詞です。 フランス語のpenseとも英語のthinkとも一対一で対応はしません。もちろん日本語の「思う」とも。 意味の幅の広いcogitoを使いたかったから使っているのではないかいうのが私の意見です。 いまひとつ指摘したい点があります。 日本語の「と」という助詞は便利で「我思う故に我あり」ということを「と、我思う」と続けることができます。いくらでもつなげられます。我思う故に我ありと我思うと我思うと我思うと我思うと… 英語もI think that I think that I think that I think … I think therefore I am. でもラテン語だと"*Cogito cogito ergo sum." は破格(非文法的)です。「~は○○だと思う」といった間接話法の文の『~は○○だ』の部分では動詞の語形が単純な文中のときとは異なります。無限に続けることも(たぶん)できません。 むしろ「我思う故に我ありと我思うと我思うと…」と連鎖することを禁じるのにラテン語は何かと都合の良い言語です。だから Cogito, ergo sum.なのかとも想像できます。 言語は思考を規定するという別の命題を持ち出すつもりはありません。しかし、言語の枠組みによる規定を良い意味でも悪い意味でも利用しつくすこともまたヨーロッパ哲学の伝統の一部です。

goosuka003
質問者

お礼

Cogito…思惟活動の全てを含む単語なんですね。 だから「疑う」と言い換えることもあるんですね。 ラテン語が、いまに教養の証としてヨーロッパの人々の間で重視され続けていると聞いたことがあります。 今回、ハムレットの例の一句 『to be or not to be ~』を連想してしまいました。 真の翻訳とは、どうあるべきか? 結局、原語で読んだほうがいい、となるわけですねえ。しかし今さらラテン語なんて…シクシク。日本語に取りすがって生きて行かねばならない我が身の哀しさ…!! ただ言語に使われるのではなく使いまわすのだという姿勢がデカルトの、この一句の本当の解明へと繋がっているのかどうかという疑問は残ります。 深い御示唆をいただき、通り一遍の返事をさし上げてはならないと、しばし時間を要しました。 本当にあり難く感謝申し上げます。

goosuka003
質問者

補足

無学な当方には及びもつかぬ専門的な御見解を分かり易く御教示いただき感激しております。 日本語の「と」という助詞に対応するものがない言語体系があるということ思いもしませんでした。 『いくらでもつなげられます。我思う故に我ありと我思うと我思うと我思うと我思うと… 英語もI think that I think that I think that I think … I think therefore I am』 なるほど!!これでは二重鏡の世界ですね… わざわざ、よりツカエル外国語のほうを選択して乗り換えることができるのも自国の言語の限界を知っているということに他ならず哲学関係の人が何ヵ国語も学ぶ理由が分かりました。 日本人は、ことばに対する姿勢が甘い、ということを言っている人がおりましたが、ことばに対しても能動的か受動的かという選択があり得るんですね…! これはコピーライティングの世界にも思い当たる部分はあります。 『言語の枠組みによる規定を良い意味でも悪い意味でも利用しつくすこともまたヨーロッパ哲学の伝統の一部』 言語技術、ということでしょうか「レトリック」の問題とあわせて実に興味深いです。 やはり「やり手」ですねデカルト氏は。

その他の回答 (7)

  • netcatme
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回答No.8

要するに、目に見えるものが本当に存在するかとかを疑っていくと、いま考えている自分だけは存在するという結論に達するということですね。  そこから、目に映るものも映像として存在するとかなんとか展開していくわけです。  前の回答にもありますが、考えているから考えている自分だけは存在するということの証明が抜けています。いわゆる唯我論の濫觴というところですね。ここから経験学派とか現象学とか展開が現在まで存在についてなされるわけです。

goosuka003
質問者

お礼

御回答いただき有難うございます。 しかし、自分が考えていることの源は周囲の(目に見える)事どもから生じていることなのに何故、存在しているのは自分だけ、なんでしょうか?(笑) 『ここから経験学派とか現象学とか展開が現在まで存在についてなされるわけです。』 なるほど!当方、全くお勉強しておりませんので個別の学派についてはサッパリ分かりませんが、それだけ、いろんな学派の立場で展開せねばならないほどにデカルト氏畢生のこの一句は尽きせぬ魅力があるということでしょうか!

  • chironero
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回答No.7

自己の存在を、自身に認識させる為に落とせるだけ、削ぎ落とした言葉です。自己の存在を自己のみで証明しようとした結果でしょう。これと同じように「知即愛」も名言だと思います。

goosuka003
質問者

お礼

『自己の存在を自己のみで証明しようとした結果』 だから「狭い」印象があるのでしょうか。 むしろ人間の限界を突きつける一句ですよね。 こっちのほうが真意かも?? しかし「思う(疑う)」ということ自体が外界の存在をも示唆していますよね。 疑問していること自体が無意味なことだとするとコワイですもんね。 私は自分が存在しているかどうかよりも、なぜ「これが自分」と思うのかということのほうが、よっぽど不思議です。 「知即愛」 深いことばですね。 アドバイス有難うございます。

回答No.6

No.5です 訂正します。 定義を行う(誤)→定理を見つける(正)

goosuka003
質問者

お礼

了解しました。 わざわざ有難うございます。

回答No.5

No.3です。 数学者でもあったデカルトにとって『我思う故に我あり』は、数学での公理にあたるものだと思います。 彼は公理から演繹により複雑な定義を行うという方法論を哲学においても用いていると考えます。 『我思う故に我あり』という公理は真であるか?と問われると、私の意見は『否』です。 哲学も歴史的に捉える必要があります。 大哲学者と言えども歴史的な限界があり、その限界を乗り越えた哲学者が、次の大哲学者として歴史に名を残すのだと思います。 「デカルトの命題を否定する私は何者だ。」などどと考えている私は、私にとっては確かな存在ですが、他者にとっては????です。 一方、妻によると、何も考えずにゴロゴロしている私は、粗大ゴミ的存在だそうです。

goosuka003
質問者

お礼

再度の御投稿、恐れ入ります。 『数学での公理にあたるものだと思います。』 公理、ですか私は「どんでん返し」としか思えなかったのですが…! 『『我思う故に我あり』という公理は真であるか?と問われると、私の意見は『否』です。』 それはそうでしょうね、デカルト氏の御弟子さんが指摘なさったというとおりだと思います。 『限界を乗り越えた哲学者が、次の大哲学者として歴史に名を残すのだと思います』 何百年も前の人の発言がガラスケースに納められることなく、いまだに現代を闊歩している… この一句こそが人類最後のでかいカベを端的に言い表しているのであり、このカベを破った者が次代の大哲学者なのですね。でもヒトの歴史に名を残す前に、破った途端、消滅するかも…という気もします。 出でよ、デカルトのカベを破る者!! それまではデカルト先生、引退できそうにないですね。 思惟が手につかめないものである以上、奥様にとって『粗大ゴミ』のほうが実在感があるのは自然なことですね?? お幸せに。 有難うございました。

回答No.3

存在(実在)についてのデカルト哲学の原点です。 事物の実在を疑うと、どれもこれも不確かになる。 不確かな事象を否定し、否定できないことひとつあった。 それは、事物の実在について考えている自分の実在であった。 上記のことが、『我思う故に我あり』にそのことが集約されているわけです。 ドイツ語訳では、Ich denke,also bin Ichとなっているそうです。 Ich(私は) denke(考える), also (それ故) bin(存在する) Ich(私は)。 となります。

goosuka003
質問者

お礼

せっかくですから回答者様御自身の御見解も教えていただきたかったですね。 「自分の実在は否定できないこと」と御考えになりますか? 論理的に証明できるかできないかって、ここ哲学カテにおいても実は大したことじゃないみたいですね、どうやら。 ドイツ語訳を教えてくださり有難うございました。 これも「故に」アリですね。

回答No.2

デカルトが『我思う故に...』を言った時、彼の弟子の一人に 「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので、論理的に真であるとは認められないのではないか」 と問われて、 「これは霊的直感によって生まれた真理なのであり、霊的直感に哲学的証明はいらない」と答えてすましていたそうです。

goosuka003
質問者

お礼

クッククク… デカルトの弟子に!一票。 『霊的直観』そうきましたか。ずっるいなあ。 結局、哲学の行き着く最後は宗教なんですかね。 すると件の『我思う…』を信じる人はデカルト教の信者ってわけなんですね。 まあカント先生が仰ったらしい『人間は手段ではなく…』とやらも最後は信じるかどうかなんでしょう。 ここのカテゴリ、以前は宗教と分かれてたそうですが、こんにち一緒くたにされたって事は私内心ここの運営者を軽蔑してる部分がありましたが案外と炯眼なのかなあ。見直さなきゃいけないなあ。 いやあ、いい話(?)聞きました。 教えていただいて本当に有難うございます。

goosuka003
質問者

補足

いま気がつきましたが なるほど『霊的直観』というのがデカルト先生の本意であるなら『我思う我あり』という言い方は原語ではなくて原意に即した言い方、なわけですね。むしろ、こちらが正しい。或いは『我思う故に我ありと我思う』のほうが。 しかし、このあたりの話、知ってる人どれくらいいるんでしょう???

  • puni2
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回答No.1

私の記憶では,原語はラテン語でCogito ergo sum.だったと思います。 cogito=「私は考える(英訳するとI think)」 ergo=「従って,ゆえに」 sum=「私は存在する,私は~である(I am)」 ですので,付け足しではないと思いますよ。 …とここまで書いて,念のためと思って調べてみたら,最初に彼がこのフレーズを使ったのは『方法序説』(Discours de la methode, 1637)なんだそうですね。 そうすると,本当の原文はフランス語だったといえるかもしれません。 Je pense, donc je suis. しかし,こちらも接続詞のdoncが入っているので,つけたしということはないと思います。 『哲学原理』(Principia Philosophiae, 1644)ではラテン語になっています。 それ以前の草稿の段階ではもしかしたらまた違った言い回しがあるのかも知れませんし,「彼が本当に言いたかったのは何か」というレベルになると,哲学的な議論になりますので,何とも判断は付きかねますが,少なくとも印刷された書物の上では,「ゆえに」という接続詞は,フランス語でもラテン語でも最初から書かれていたと行って良いのではないでしょうか。 たぶん,もっと哲学そのものに詳しい方からきちんとした回答があるかも知れませんが,とりあえずこんなところで。

goosuka003
質問者

お礼

早速の御回答、有難うございます。 そうですか付け足しでない、ということが確かであるなら、また別の観点から疑問がムクムクと… この質問の動機というのが『こぎと えるご すむ』これを訳して『我思う我あり』とする人を、これまで何度か見かけまして哲学者や哲学徒がコトバのテイギとやらに命かけているらしいわりにはイイカゲンじゃないか、どっちかにしろ!と思ったわけです。 いずれにせよ「彼が本当に言いたかったのは何か」これを突き止めれば場合によっては「過去の人」としてガラスの陳列棚のなかに納まっていただかねばならない恐れも出てきそうですね。 よく分かりました。横着者のために調べていただき感謝申し上げます。

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