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デカルト and self

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。 デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。 i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes). 蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

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  • fladnug
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回答No.3

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。  デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。しかし、自然界が数学的に観測可能なものであるためには、それが生き物のように不規則な変化をしない、という前提を要求します。すなわち、後の時代に「ラプラスの魔」と評されるように、自然界は、(人間の肉体をも含めて)数学的必然性と原因性とに支配されていなければならなかったのです。  ところが、当時の自然界についての考えの正当な流れは中世以来のスコラ哲学であり、その考えに従えば、自然界は神の意志に充たされたものであり神の意志によって息づいていました。福音書の言葉で言えば、神の許しがなければ一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)、ということになるのです。そのため、デカルトは自然の諸現象の説明原理から、物体に内在する意志とか魂のようなものを払拭する必要があったのです(また、デカルトよりも少し前の、ルネサンス期は、自然界を汎神論的に捉える神秘主義的傾向を強く有していたという問題もあります)。  そのため、デカルトの、cogito ergo sum はデカルト自身の身体(物体)と思惟とを媒体にして物体と精神との分離を試みる考察をなしています。デカルトは、自分自身の身体が無かろうと疑っているかぎり思惟する精神は存在するのであるから、精神は物体とは独立に存在するとし、精神が物体とは別物であるならば、物体(身体)には何の精神的属性も、例えば、意志だとか欲求だとか思惟だとかいったものは属さない、とすることによって物体から精神的性質のすべてを除去することができると考えたのです。このような証明が果たして妥当なものかは、大きな疑問を残しますが、物体から精神的なもの全てを取り除くことによって、数学的要素、デカルトが重きを置くものとしては、特に幾何学的性質、すなわち、幅とか長さとか奥行きなどによって、自然界を精密に観測することが可能になると考えられていたのです。  ですから、デカルトは、self と world とを、より厳密には、mental なものと corporeal なものとを分けて考えていましたし、少なくともそれらを分けて見せようとしていました。  それゆえ、また、肉眼によって何かを見てそれが心の中に入ってくる、という立場は、基本的には、デカルトの存在論に反するものです(とはいえ、デカルトの研究には視神経がどのように脳に情報を伝えるのかを扱ったものなど、『省察』とは異なった性格の著作物もあります。私は、これらが、一体どのような企図からなされた研究なのかちょっと分かりません)。デカルトの認識論は、心の中に散在する様々な観念のうち、正しい観念とは何か、宇宙を忠実に再現(represent)している観念はどれなのか、を見出すことに終始しておりそれは一貫して心の中でのみ展開されます。  示して下さったテクストのラテン語原文が手もとに無いのでちょっと自信がありませんが、英文テクストで指摘させていただくと、 what i believe i saw with my eyes となっており what i saw with my eyes とはなっていないことがポイントです。つまり肉眼で何を見ていようとそれはどうでもよく、私が肉眼で見ていると「信じている」もの、心の中のものが認識の直接的な対象なのです。デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです。デカルトは、このような立場を支持する例として幻影肢すなわちケガや手術などで失った手足の感覚を持つという奇妙な現象を挙げていたと思います。すなわち、身体は感覚を持っていないのにもかかわらず、心はその感覚があるという観念を抱くのです。  したがって、デカルトの理論によれば、自然界には魂を抜かれたパペット人形のようなものが練り歩いているのであって、その心はどこか別のところで自然界とは関係ない観念をあれこれと抱いているのです。このような結論は、あまりにも非常識で、デカルトという一人の人間が全面的にこれを支持していたとは少々考えにくいところがありますが、自然界を数学的に観測可能なものとして捉え直すというデカルトの哲学の動機に基づくかぎり、理屈上、物体(身体)の中に精神の諸属性を溶け込ませるわけにはいかなかったのです。  そしてまた、この理論には、重大な欠陥がありました。それは、心の中において正しい観念を捉えたとして、それは、自然界とどう関わっているのか、それが自然界についての数学的な認識である以上、何らかの仕方で自然界と関わっているはずなのに、心と自然界とが完全に切り離されているとしたら、数学的な自然科学の基礎付けはやはり不可能になってしまうのではないか、という問題です。デカルトは、この問題を意識していた著作を残していなかったようです。それゆえ、これらの問題は、マールブランシュ(「すべての事物を神において見る」)、スピノザ(神という一個の実体の中での精神と物体という二つの属性)、そしてライプニッツ(予定調和説)といったいわゆる大陸合理論の大家に引き継がれていきます。なお、subject という哲学用語を今日のように「主観」「主体」の意味へと転換したのはライプニッツの業績です。それ以前は、subjective というと主観的なものではなく人間の思惟とは独立にある実体に関するものを指していたのに対し、objective というと客観的なものではなく人間の思惟に現れてくるものを指していました。

ken-deleuz
質問者

お礼

お礼遅くなりました。丁寧な回答ありがとうございました。 ちょっと今、時間がないので後で補足欄に、お礼と補足を入れたいと思います。ありがとうございました。

ken-deleuz
質問者

補足

回答ありがとうございました。今、大学の後期が始まり忙しくなり始めたところなんです。それはさておき、fladnugさんの回答は分りやすく、とても参考になりました。 理性そしてself (conscious being)について少し質問があるんですけど、まずnick m. の引用から。 in Descartes, therefore, we found together two principles that enlightenment thought has both emphasised and adored: firstly, the image of the self as the ground of all knowledge and experience of the world (before i am anything, i am i) and secondly, the self as defined by the rational faculties it can use to order the world (i make sense) (nick, 2000, p.15) nickによれば、デカルトにとっては、self のイメージ(観念/表象)は経験(英語ではawareness と訳される場合があります) と全ての知識の基盤であると述べ、自分が何者かである前に、自分とは自分なのだとしています。デカルトはrationalist として見られていると思いますが、直感(intuition)とdeduction により理性で判断し、そしてデカルトは懐疑的に考え感覚的な経験は真実ではないとしていると思います。そこでfladnugさんが示唆して下さった”デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです”なんですが、この感覚の観念、またself のイメージ(観念/表象)はデカルトにとって、真実ではなく、外的に受ける感覚的経験、そして知識の表象(これが世の中を道理として見る)にしかすぎないと述べているのでしょうか? そしてselfの表象の下に本当の(I/conscious being--"before i am anything, i am i")があると述べているのでしょうか? またデカルトにとってsubjectivity(主観性?)とはどういった物になるのでしょうか?それはgodとIについての関係に繋がるんでしょうか?

その他の回答 (2)

noname#36053
noname#36053
回答No.2

第二省察の蜜蝋の話でしょうか。 私の持っている解説書には、形が変わっても同じ蝋燭として知覚されるのは悟性によるものであり、感覚ではない。というのも感覚はただ所与を感受するだけであって、所与相互のつながりには関係しないからである。 この悟性がコギトである。 といった風なことが書いてあります。 そして、 自我は、感覚以前に、蜜蝋の同一性へ向けて開かれている。この解放態そのものが、純粋自我である、と。 このあと詳しい方が回答してくださると思いますが、参考になれば幸いです。

ken-deleuz
質問者

お礼

お礼遅くなりました。回答ありがとうございました。 どんな些細なことでも参考にさせてもらっているので、この回答も参考になりました。僕は普段第二文献を最初に読まずに直接、第一文献から読んでしまう、悪い癖があるので(予備知識はつけていますが)原本の理解がおかしくなることがしばしあります。ありがとうございました。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

デカルトに聞いてみるべきなのでしょうが、彼は主体としての自分はその存在はわかるがその正体は不明であるというようなことを考えていたのではないかと思います。その意味で汝自身を知れという西洋の格言も今流行の「自分探し」という言葉もデカルトには不可解だったかもしれないと思います。

ken-deleuz
質問者

お礼

お礼遅くなりました。回答ありがとうございました。 たしかにデカルトに本人に聞けたら、どんなに良いことか... それはできないので、残っている彼の書物で彼と会話するしかないんですけど、それが難しいんですよね、『汝自身を知れ』、a loaded word ですね。ありがとうございました。