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慶喜公と容保公は名君?迷君?
歴史を語る時、どうしても後方視的に観ることになります。 そうすると、とにもかくにも「内戦」を避けた「慶喜公」は名君に思え、 会津戦争で多くの犠牲を出した「容保公」は迷君にも思えます。 どちらの殿様も普通以上に頭脳明晰でいらっしゃったように感じておりますが、、 歩まれた道は全く別のものでした。将軍と一藩主など、お立場の違いはあるでしょうが。 みなさまはどう感じておられますか?是非ご意見をお聞かせください。
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- yy1122
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後世の人は「誰々は名君だった」などとよく言いますが、私はいつも違和感を覚えます。 慶喜公と容保公は頭脳明晰だとも思いません。 慶喜公は、いったん自分が不利になるとただ右往左往して、頭が良かったからか(?)必死になってそこから逃げたまでのことです。 大勢の部下を見殺しにしてでも、自分の身の安全しか考えなかった慶喜公は、私の一番嫌いな人物です。知れば知るほど嫌いになります。 明治になってしばらくしてからそれらのことを問われて、慶喜公は「あの時は誰がやってもあのようにするしかなかった」、などと他人事のように話しております。 幕末には有能な人物を斬首や切腹という形で大勢失っております。 容保公も慶喜公ほどではないかもしれませんが、似たようなものと思います。 江戸時代はその人の能力よりも門閥(家柄)を重んじていたので容保公が京都守護職を請われました。 しかし、会津の西郷頼母は「殿はそのような器でないから断るように」、と必死になって再三進言したそうです。 容保公は門閥上、断れなかったのか、あるいは権力に惹かれたのか分かりません。 学校では幕末の歴史について詳しく教わっていなかったので、私は40代後半から10年以上独学で勉強してやっと自分なりにいろいろな謎が解けました。 坂本竜馬や西郷隆盛にしても他人が考えたことをまるで自分の考えであるかのように行動しており、ただの目立ちたがり屋だったのかもしれません。 歴史上の人物評価は実際以上にもの凄く高い評価になりますから、鵜呑みにせずにいろいろと自分で調べた方が宜しいかと思います。
- kurikuricyan
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松平容保は、ただ、一途に、藩祖保科正之の家訓を守った、、、ということでは、 名君なのでは、ないでしょうか? また、多くの家臣を殺された、、とありますが、あの時代は、お家の為に死ぬことは 「誉れ」でもあったのですから、平成の現代の「死ぬ」と言う見方で見ると正しく見ることが 出来なくなります。 徳川慶喜公は、ど~でしょうねー。 徳川幕府を崩壊させる運命にあった、、、ということでは、こちらも、名君なのでは? 30歳(くらい)で、静岡に下った慶喜公は、その後、徳川幕臣の人間とは、一切、会わなかったそうです。 元幕府関係者で面会したのは、勝海舟だけだった、、、そうです。 これは余談ですが、慶喜公は、かなり晩年になる頃まで、薩摩を恨んでいたそうです。 「長州は、最初から反幕だったからなんとも思わない。が、薩摩は、最初は、味方であったのに、 掌を返すように裏切った。だから、私は、薩摩は、許せない」と家人に話していたそうです。 明治天皇が、慶喜公に参内(お茶を飲みに来なさい)するように、度々、声をかけられたそうですが 慶喜公は、何やかやと理由をつけて断っていたそうです。 最後は、断る理由がなくなったので、「着て行く服が無い」とまでいわれたとか。 明治天皇は、服などなんでも良い、、と言われ、そこまで言われたら断ることも出来なくなり 参内したそうです。 そのときの慶喜公の身なりは、徳川の紋の入った紋付き羽織袴だったそうです。 慶喜公が薩摩に対して、快く思って無いことを察した天皇は 「もう、あの物たち(大久保利通、西郷隆盛)が亡くなって20年も経った。 もう、許してあげてもいいのではないか?」と言われて、ようやく、維新後30年を過ぎた頃に、 訪ねて来た元幕臣の方達にも会う様になったそうです。
おはようございます。 推測ですが、おそらく108109さんは胸に答えをお持ちなのでしょう。 後世の我々が評価なり批判するのは慎重であるべきと思います。 彼らは反論が出来ませんから・・・。 その上でお話しさせていただけば、 確かに慶喜公は頭脳明晰な方のようです。 ただ、私には優柔不断、決断の出来ない人のように見えます。 私は別に迷君、暗君とも思いません。 残念に思うことは決断の出来た人でしたら、戊辰戦争に始まる内乱、 これもあるいは防げたろうかと思うと残念です。 どなたかが、容保公が自分の保身を考えたと仰る・・・。 私はそうは思わないのです。 容保公は幕府の度重なる懇願にやむにやまれず京都の守りにつきます。 家臣の反対も随分あったようです・・・。 本来、京都の守りは京都所司代の仕事です。 一門が就くべき仕事でもありません! その為に幕府は京都守護職と言う職名を用意します。 長くなりました・・・手短に! 容保公と言う方は勤皇の志の厚いかたです。 孝明天皇にも親しく声を掛けられて随分信頼もされておられたようです。 以降の時代の流れは108109さんは良くご存知です。 鉄砲水に似ています・・・ 誰かが棹さして止まるものではもうなくなっております。 会津戦争は必然なのでしょう。 容保公は宮司として余生を終わられたようです。 家臣の死を自分の心の十字架にされたのかなと思います・・・。 名君かは知りません・・・少なくも迷君ではありませんでしょう。 義のためと言う決断が出来たのですから。
- tanuki4u
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江戸時代スタンダードで言えば、明君ではない。 理由 お家存続第一 ふたりとも失敗している 慶喜 700万石 → 70万石 容保 23万石 → 3.5万石 子孫繁栄 慶喜も容保も在職中に後継者を作っていないという意味で、失敗 徳川実紀的には、歴代将軍の中で偉大なのは、初代家康を除けば11代家斉なんだそうだ。 ※ 徳川実紀を書かせてのは家斉で、自分の偉さを歴史的に証明するために、それまでの十代の将軍の歴史を書かせたんだそうだ。
- jkpawapuro
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>内乱を防いで外国の植民地化を招かなかったという意味で日本にとって名君と言えるかもしれません。 名君の君は君主の君です。 そういう意味で名君ではない、名臣ではあったかもしれないと私は評しました。
- eroero1919
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両君とも、「頭はいいけど、腹が据わっていない。典型的お坊ちゃん」というところですね。「インテリはドカタに勝てない」を地でいった気がします。 奇しくも両君とも、維新後に天寿を全うしたのですよね。というか、明治維新て旧体制側で殺された人ってほとんどいないんですよ。むしろ、木戸孝允(桂小五郎)も大久保利通も西郷隆盛も「維新三英傑」が明治10年か11年で全員死んでいます。勝利の立役者より、敗北側のリーダーのほうが長生きしたってのが面白いですよね。 リーダーが責任を取らないで天寿を全うし、その身代わりをしもじもの者たちが被るというのは今も昔も変わらないんだなあって思います。
お礼
お二人とも比較的長生きして、安らかに人生を終えられていますね。 だた命さえ永らえれば幸せというものでもないかもしれませんが・・・。 ご回答ありがとうございました。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
立派な日本人ではあったのでしょうが、名君と言われると??です。 人の評価として一番大事なのは、何を目的として行動したかであって、頭脳や能力はそのための効率や成功率をよくするだけだと思っています。 慶喜公の場合は家臣のために行動したとは言えないでしょう。今後日本が国際社会の中で生き残っていくために最善の行動を取ったのでしょうが、そのために幕府を惜しげもなく犠牲にしています。 そう言った意味ではむしろ(朝廷の)いい家臣と言えるのでしょうが、あるいはいい日本人と言えるのでしょうが、旗本たちから見ていい君主かと言えば逆でしょう。 容保公に至っては、自己の名誉、保身、基盤の確保のために行動はしていても、何一つ会津に貢献していません。 どれだけ頭脳明晰でもやってる事が最悪じゃ何一つ名君とは言えないと思います。 また官僚的な意味で頭脳明晰でも、時代を読むと言う意味では最悪でしょう。 藩主として、リーダーとして最も必要な能力を欠いていたと言えると思います。
お礼
「名君どうか」は、視点によって異なりますね。 慶喜公は幕府存続を望む家臣からみればもちろん名君ではないし、 内乱を防いで外国の植民地化を招かなかったという意味で日本にとって名君と言えるかもしれません。 容保公は養子とのお立場もあって、いろいろ難しかったのでしょうか? ご回答ありがとうございました。
お礼
わかりました。ありがとうございました。