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江戸幕府公文書の配布
幕府が武家諸法度のような指示・命令を出すとき、藩にはどのようにして伝達したのですか。 江戸藩邸の役人が、幕府の右筆が書写した「写」を江戸城?あるいは大目付の屋敷?で受け取って、そして国元の藩へ伝達したのですか。 ざっと270ほどの藩がありましたから、右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 江戸藩邸から国元へは主に飛脚を利用したのですか。 その際、近隣の藩と協力して、費用節減のために複数の藩が一人の飛脚に依頼するような こともあったのでしょうか。 そのような事例はありますか。 よろしくお願いします。
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幕府から大名への指示・命令を出すときの方法については、時代、指示・命令の内容などによりいろいろな方法があったようですが、大きく分けると、江戸時代の初期は、老中奉書により、それ以降、享保の改革までは幕府から各大名に文書(触書)を交付し、享保の改革以降は大名(の家臣)に文書を書き写させて、伝達するのが主な傾向でした。そこから内容にもよりますが、町奉行・代官から町役人・村役人、そして町民・村民などに至るまで伝達されるようになっていました。そのためもあり、大名は、江戸藩邸と国元の間に、七里飛脚などの各藩独自の伝達方法(一般に大名飛脚と言います。)を持つようにしていましたし、内容により、藩により、一般の飛脚運送業者に委託してもいます。 >「江戸家老から御用状が伝馬役所に届けられ、伝馬役所は江戸の口宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)に届け、そこから先は各街道の宿駅によって継ぎ送り」されるというシステムが整備されていたのですね。 上記の内容は誤りで、「ていぱ~く」にも書いてありますが、継飛脚・伝馬役所を使った伝達方式は幕府専用のもので、大名は使うことはできませんでした。(「ていぱ~く」の「~大名飛脚~」の冒頭に、「継飛脚を利用出来るのは幕府のみであったため、全国の大名はそれぞれ独自に通信を確保しようとしました。」と、はっきり書かれています。) ですから、御三家の紀州・尾張でも、七里飛脚という独自の飛脚制度を持っていました。この七里飛脚の中継場所が七里役所と呼ばれています。このように、継飛脚・伝馬役所を使った伝達方式は幕府専用のものであったため、「江戸家老から御用状が伝馬役所に届けられ」るというようなことは絵空事で、ありえない事でした。 ていぱ~く http://www.teipark.jp/display/museum_shozou/museum_shozou_13.html 七里役所 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%B7%CE%A4%CC%F2%BD%EA http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%83%E9%87%8C%E5%BD%B9%E6%89%80 飛脚(江戸時代の項目) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E8%84%9A さて、深井雅海著「日本近代の歴史3 綱吉と吉宗」(吉川弘文館)の、「五 江戸城御殿の構造と殿中儀礼」の「I-江戸城御殿の構造」の中に、「法令の伝達」という小項目をおいて、次のように記述しています。 幕府において決定された法令=触書は、どのような経路で全国各地の住民のもとへ伝達されていたのか。一般に、決定された法令は、行政機構の長官・副長官である老中若年寄から、文書で大名・旗本・諸役人へ伝達されたのち、幕府直轄領・大名領・旗本領などの住民へ伝達される仕組みがとられていた。こうした仕組みが形成されたのは、一六三〇年代から七〇年代、とくに武断政治から文治政治への転換が行われた寛文・延宝期(一六六一~八〇)頃といわれる。つまりこの頃、主として「老中奉書による政治」から、「触書による政治」へ、変化したとみることができよう。 ここでは、全国法令が大名・旗本・諸役人などに伝達される仕組みについてみてみよう。全国法令は、主に奥右筆が中心になって起案し、その法令を記した書付数百通は、書記官である表右筆所において作成された。まず、五代将軍綱吉時代の元禄一五年(一七〇二)五月に発令された、馬に重荷を負わすことを禁じた法令の伝達経路についてみよう(図21参照*とあって、図を掲載。*図21では「月番老中→大名・交代寄合(270通)」となっています。))。法令の伝達の際にも、本丸御殿の表・奥・大奥それぞれの場所に勤務、もしくは出仕する大名・諸役人ごとに区別して伝達されていた。 大名と交代寄合(参勤交代をする旗本)に対しては、月番老中の役宅にそれぞれの家来を呼び、一通ずつ書付を渡している。その数二七〇通。この法令の場合、写しが四六〇通作成されているので、これだけで約60%を占めることになる。大名のうち、将軍綱吉の甥にあたる徳川綱豊家(甲斐甲府三五万石、のちの六代将軍家宣)と尾張・紀伊・水戸の御三家は、幕府と連絡のため、「城付」という職名の家臣を本丸御殿に常駐させており、この城付に同朋頭を通じて伝達される。-*以下、表・奥・大奥の諸役人及び将軍家族に関する伝達関係なので中略- つぎに、八代将軍吉宗時代に発令された法令の伝達掲示し、元禄期と比較してみよう。図22は、享保三年(一七一八)六月に発令された、唐船抜荷取り締まりについての法令の伝達経路を示す。まず注意されるのは、伝達担当者の老中が、月番から御用掛に変わっていることである。これは、将軍吉宗自身が主導権を握っていることを示すためか、主な法令ごとに老中の専管者を決めていたことによる。伝達のあり方を比較すると、大名・老中支配の役人、若年寄支配の役人、御三家、女中方用人については、元禄期の伝達担当者が踏襲されている。(*図22では「御用掛老中→大名(270通)」となっています。)-*以下、表・奥・大奥の諸役人及び将軍家族に関する伝達関係なので中略- かくして、全国法令を発令する場合、元禄期には予備も含め四六〇通の書付を必要としたが、享保初期には四〇〇通程度に減らしている。将軍吉宗は、さらに省力化を進め、享保五年五月に出された法令では、大名の家来や役人に書付を写し取らせたため、五〇通未満に減らし、三五〇通もの書付の減少につながったのである。(*以上) 享保五年五月の件については、御三家用を除き10通が作成され、大名の家臣に書き写させたと記述した書籍を見たのですが、しばらく探したのですが、どうしたわけか見つかりません。しかし、上記の記述にも、「享保五年五月に出された法令では、大名の家来や役人に書付を写し取らせた」とある通り、文書交付による幕府老中から大名への伝達方法が変化し、文書を大名(家臣)が書き写す変わったことがわかります。 戻ることになりますが、江戸幕府初期は幕府の体制が未整備の時期には、老中(年寄)が将軍の意を受けて、「将軍は○○のように考えている・命じているのでお知らせします」の形の、老中奉書という形式で、将軍・幕府の命令・意向・法令を大名に伝えることが多くありました。中には公文書というより、私信に近いものもあります。この時期、大名が幕府に嘆願するなどの場合、取次の老中と呼ばれる特定の老中に相談し、指示を仰いでいます。大名と取次の老中との関係は、私的関係ではありますが、請願内容の将軍への披露は取次の老中が行うなど、公的ものでもありました。逆に幕府の意向も取次の老中を通じて大名に伝達されることも多々ありました。また、昵懇の旗本(心安き旗本)衆も存在し、大名と幕府・老中の橋渡しをしています。これらの取次の老中や昵懇の旗本は一面で、大名の監視・統制のための存在である反面、大名を擁護・指導する存在でもありました。このような公的性格を帯びた私的関係から、幕府機構が整備され、家光時代には老中の月番制が施行され、老中奉書から触書による伝達へと移行する訳です。しかし、重要度は下がりますが、老中奉書も、老中と大名との私的交流(御対客日などを含む)はその後も残っていきます。 老中奉書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E4%B8%AD%E5%A5%89%E6%9B%B8 以上、まとまらなかったり、根拠となる書籍が見つからない部分もありますが、参考まで。
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- fumkum
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NO5です。引用ばかりで申し訳ありませんが、笠谷和比古著『江戸留守居役-近世の外交官(歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館発行)に、概要、次のような内容がありました。 1、江戸時代初期は重要項目については老中奉書ですが、評定所に諸藩の留守居役を集め、場合により口頭で命令等を伝達することもあったということです。(評定所の設置時期との関連性については「辰ノ口」としていますが、直接的な言及はありません。) 2、享保以前の公文書の手交については、老中役宅であったとされています。 3、享保以降公文書の伝達に老中の直接的な関与は少なくなり、大目付から回状の形で文書を留守居役間に回し、書き写される形式が多かったということです。 1~3については公文書の受領・回覧等について、各藩の江戸留守居役が直接的に受領等をしていることが多いということです。 以上、参考まで。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 幕府の意向を誰が、どこで、誰に、どのような形で(書面を手交、口頭)伝達したのか、 具体的に知りたかったのですが、お陰さまでよく解りました。 「享保の改革」が、文書行政の分野にまで及んでいることも知ることができました。 また、留守居役の重要性も認識しました。 中学生の孫の質問が発端でしたが、こんなに深く知ることができ、十分満足しています。 ご教示に感謝しています。
- dayone
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No.3投稿の続きに過ぎませんが、再度、失礼致しますm(_"_)m 『近世武家文書の研究/笠谷和比古/法政大学出版局/1998』によれば、 「大目付廻状」の最初期は元禄十年二月(114頁)、 この形式は享保から宝暦期にかけて次第に一般化(107頁)、 触書写の作成通数を十分の一ほどに減少=簡略化・迅速化(110頁)。 などの記述があるようです。 ではまた^^
- dayone
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>右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 幕府側は触等の伝達の負担(表右筆の書写等)軽減のため 諸藩留守居に負担が転嫁されるに至った様子が伺え、 伝達経路のうち(老中→)「大目付→各藩(留守居)」間については、 いわゆる「大目付廻状」形式などが多く散見されます。 (下記参考URLでは江戸後期の事例に過ぎませんが、 …網羅的に調べたわけではありませんが… 遅くとも江戸中期(延享・寛延等)頃までは遡れそうです。) 例えば下記URLでは以下のように解説されています。 <国文学研究資料館>史料館所蔵史料目録 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku.html 第37集(1983年3月)/信濃国松代真田家文書(その2)/解題 133~148 「信濃国松代 真田家文書目録(その二)解題」 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/37-k1.pdf 史料の表題について 「大目付廻状」 <5・6/16>(137・138頁) 幕府の「触」の伝達を媒介する中心文書である。… …右の触書の通達手続きは、老中が触書を大目付に渡し、 大目付は廻達の便に従って区分けされた大名群ごとに (その留守居を宛所にして)右触書の写しを添えた廻状を発する。 廻状を伝達された各大名の留守居はこれを写し留め、 廻状宛所の大名の名の下に承付を記し(通常は「奉」の一字を記す) 順達していくものである。 「同席触廻状」<6~8/16>(138~140頁) これも幕府の触を媒介伝達するもので、… …さて「同席触廻状」の伝達手続きは老中より触文が大目付に交付され、 大目付は諸大名の殿席(江戸城中の控間)の区分に従って、 各殿席ごとに二家(二家以上の場合もある)の留守居に対して触文の書付の写しを伝達する。 受けとった二家の留守居は連名の廻状を作成し、これを同じ殿席の大名諸家の留守居を宛所 にして廻達していくものである。 右事例の廻状は帝鑑間席に廻達されたものである (廻状宛所に見えない帝鑑間席大名家に対しては同様の廻状が 別途に数通作成されて送付されたものと思われる)。 同様の行為が帝鑑間以外の諸殿席においても行われ、 こうして幕府の触が全大名に通達されるという仕組みを採る。 「同席触廻状」において伝達される幕命は一般に小事であり 『御触書集成』にも収載されないようなものばかりである。 そしてまたそれ故に、その発布手続きも随意的、便宜的であり、 「大目付廻状」のような発布手続き上の安定性を得ていないことを付言しておこう。 以上 御質問の一部に過ぎませんが、疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
ご回答ありがとうございます。 「触」という名の文書が大量に発行され、それらは「大目付廻状」として全大名に通達されるしくみがよく解りました。 「廻状」は幕府から見れば合理的で、やはり中央省庁の発想ですね。 大名屋敷は、だいたい「殿席」ごとにかたまっていたようですので、近くの屋敷まで誰が持参して、誰が受け取ったのでしょう。想像が膨らみます。 今の自治会の回覧板のようです。 中にはのんびりした人もいて、なかなか回してくれませんが。 参考URLは大変参考になりました。 読みだすと止まりません。 “付き合い”ってものは大変だな、と思いました。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 お城では、右筆が書き写しますが、右筆は1人ではなく、2~3人の組頭の下に約30名いました。 従って、その人たちが300近い諸藩の分を全て書写しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E5%8F%B3%E7%AD%86 受け渡しは、 老中から大目付に手渡され、諸藩の江戸家老が大目付に呼び出され手渡されました。 江戸家老からは、隔年に大名は江戸にいましたので、江戸に在府中は直接城主に手渡されました。 また、城主が江戸にいないの場合は、江戸家老から御用状が伝馬役所に届けられ、伝馬役所は江戸の口宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)に届け、そこから先は各街道の宿駅によって継ぎ送りされました。 http://www.teipark.jp/display/museum_shozou/museum_shozou_13.html 各藩には1枚ずつが配られましたし、大切な御用状ですので、近隣の藩が共同して送付するようなことはありませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 江戸家老が大目付に呼び出され、手渡されたのですね。 そして、大名が国元にいる場合は、 「江戸家老から御用状が伝馬役所に届けられ、伝馬役所は江戸の口宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)に届け、そこから先は各街道の宿駅によって継ぎ送り」されるというシステムが整備されていたのですね。 よく解りました。 「ていぱーく」のサイトは大変解り易かったです。 いつも的確なご回答に感謝しています。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6 慶長20年(1615年)7月に2代将軍の徳川秀忠が伏見城で武家に発布した(通称「元和令」)。 以上引用 亨保令が最後なので、そのあとはないようです。 具体的な引渡し例は分かりませんが、秀忠の方式に準拠したかと。 寛政11年1月16日 1 蝦夷地の警衛並びに撫順につき布達し、松前若狭守「松前章廣」へ代料を下附する 日本財政経済史料 などを見ると、老中連署で書面が引き渡されているようです。 幕府が日本国全体に対して○○せよというのは、武家諸法度を例外として、基本的にはなかったかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >幕府が日本国全体に対して○○せよというのは、武家諸法度を例外として、基本的にはなかったかと思います。 なるほど、そうですね。 270年間も幕府は続いたにも関わらず、「生類憐みの令」や吉宗の「新規御法度」くらいしか私は思いつきません。
お礼
詳しいご回答誠にありがとうございます。 深井雅海著「日本近代の歴史3 綱吉と吉宗」(吉川弘文館)を引用して下さったので、 大変よく解りました。 特に重要な法令は江戸時代を通じて「老中奉書」という名で発給されていたと思っていたのですが、寛文・延宝期(1661~80)頃からは「触書による政治」へ変化したのですね。 綱吉の時代、大名と交代寄合に対しては、月番老中の役宅にそれぞれの家来を呼び、一通ずつ書付を渡している。その数270通。この法令の場合、写しが460通作成されているのですね。 具体的で分かりやすいです。 国元への伝達については、内容により、藩により、一般の飛脚運送業者に委託しているのも藩の財政事情から考えれば、当然と思います。