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吉田松陰は獄中から高杉晋作へ手紙を。

松陰は、牢役人に目こぼしをしてもらうための賄賂が要るので金を工面してくれ、と伝馬町牢屋敷から晋作に手紙を出しています。 幕府は、藩に命じて松陰を萩から江戸へ護送させてまでして、投獄したのですが、それにしては監視が雑な気がします。 安政6年といえば、まだ井伊大老が健在のころです。 質問ですが、伝馬町の牢屋敷の監視や手紙の検閲はこの程度のものですか。 松陰以外(例えば橋本左内や頼三樹三郎)で、獄中から手紙を出した人はいますか。 よろしくお願いします。

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  • nogul2n
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回答No.2

 関連情報なのですが。  牢役人もですが、牢では牢名主(ろうなぬし)という人にも賄賂(寸志・心付け)をあげないと手紙を出したり手紙を受け取ったり、差し入れをもらったりが出来ませんでしたので、松陰は牢名主にも賄賂を渡していました。  牢名主というのは役人ではありません。牢屋に入れられている同じ罪人なのですが、長く牢屋にいるのでいばってて、牢屋の主(ぬし)のように後輩罪人にあれこれ指図して力を振りかざしていた人だそうです。牢名主ににらまれると、些細なことから意地悪されまくりだったので意地悪されないように、気に入られて少しでもマシな牢屋ライフが送れるように、みんなせっせとワイロを渡したそうです。  松陰は牢名主に渡すため、「福神漬けを2樽送ってくれ」と実家のお父さん(杉家)に手紙を書いています。なんで、福神漬け? と思いますが、牢名主の好物だったか? それにしても2樽とは、江戸時代の流通が発達していない時に、運賃がすごい高かったでしょうに。  清廉潔白な松陰がワイロだなんて、似合いませんが。今の時代の価値観で判断してはいけないのかもしれません。  しかし、牢名主にワイロ渡していたお陰で、松陰の遺書『留魂録』は残りました。牢名主が明治に入ってから松陰の門下生に遺書を届けてくれなかったら、遺書は歴史の中に消えていたところでした。その最後に記された辞世の句、 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 も牢名主のお陰で残りました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 『留魂録』がそのようないきさつで伝えられたとは知りませんでした。 将にドラマチックな話で感動しました。 また、牢名主は一般の雑居牢に居るものだと思っていましたので、思想犯?の松陰は独居房に隔離されているもの、と思い込んでいました。 すっきりしました。感謝します。

その他の回答 (1)

  • mekuriya
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回答No.1

だから牢役人が目こぼしをしている訳です。自分が受け取る賄賂の金策の手紙なんだから、喜んで協力している訳です。いくら井伊大老といっても、そんな下っ端の役人まで直接コントロールなどできません。井伊大老から牢役人の間にもたくさん役人がいます。世の中万事金次第。上から下まで賄賂合戦で少しでもおいしい役職にありつくのに必死なんですから。そもそも井伊直弼だって賄賂で大老にのし上がった政治家です。牢役人の目こぼしごとき些細な事に過ぎません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 賄賂に使う金の差し入れを頼む手紙の例をあげたのは拙かったです。 取り調べに対する苦情などを書き連ねた手紙も残されています。 同志に尊王を呼び掛ける内容のものは、おそらく握りつぶされたのでしょう。 しかし、「世の中万事金次第」ということで、納得です。