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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:遊郭は幕府公認なのに、陰間茶屋は禁止されたのは何故?)

遊郭と陰間茶屋の関係:なぜ遊郭は幕府公認で陰間茶屋は禁止されたのか

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代に遊郭が幕府公認であったのに対して、陰間茶屋が禁止された理由は何か疑問に思っています。遊郭は風紀取締りのための管理された場所で、陰間も呼べるという記述がありますが、なぜ遊郭には陰間茶屋が存在しなかったのでしょうか。
  • 陰間茶屋は非公認ながら高級で格式のある場所で、公家や武家、僧侶などの富裕層に人気があったということです。ならば、遊郭の中に陰間茶屋を公認しても良いのではないかと考えますが、なぜ禁止されたのでしょうか。
  • 明治維新時に活躍した薩摩出身の役人達によって男色がはやり、それを禁じた政府の役人が男色を行っていることに矛盾を感じます。男性の売春は低俗とされる一方、男性同士の恋愛や絆は高尚とされるのでしょうか。なぜ陰間茶屋は禁止されたのか、その理由について考えています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kurisogeno
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回答No.1

自分が知っている箇所を書きますと。 遊郭には時間制限が付いており、その時間外に出入りは禁止されています。 特定の職業に就く者以外の営業外の出入りは、厳しく制限されており、 泊まりをすると、遊郭地区を出るには決まった刻限以外の出入りができなくなります。 (泊まりをすると、お帰りが時刻が相当に早かったと言われております。) それに、出入りが許されぬ職業も幾つか有り、僧侶や幕府の高官や番人などの 出入りはできなった聞いております。 茶屋の場合には、色々と使われ方があったそうで、売春目的と言う事が大前提ではなく、 逢引茶屋とか出会い茶屋とかと呼ばれる事もあり、一概に違法と言う事でもなかった。 時として、幕府の高官や僧侶などを相手とした男色系の売春行為をする場所と、 指摘も受けていましたが、先にも述べた様に、庶民には逢引(あいびき)茶屋と言う方が 馴染まれれいたそうで、時には「出会い茶屋」と言う結婚相手の相談所としての場所と 認識されていたそうです。 格式ある、茶屋の後継は今の料亭と言われており、宴会の座敷として茶屋を使って、 売春行為を黙認して営業をしていたという記述もあります。

raizu1984
質問者

お礼

遊郭は公認の場所だからこそ幕府高官などが行くにはいささか俗っぽい、ってかんじでしょうか。覆面して身分を隠して遊郭に行く人もいたそうですが。 陰間茶屋が売春業より他の茶屋(料亭)などに近い感覚なら遊郭に入るわけないですよね・・・ちょっと単純に考えすぎてました それでも遊郭は高級料亭のような座敷遊びもできる…改めて考えると遊郭って不思議な世界ですね。 有難うございました

その他の回答 (1)

  • chomicat
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回答No.2

陰間茶屋の禁止は天保の改革時、水野越前守の命により天保13年3月からと言われています。(ある大名家での宴席で美少女・・陰間・・を見たのがきっかけとか) 陰間は江戸のそれは無骨なので、殆ど上方大坂から口入で江戸へ送られていたようです。 岡場所にしろ、歌舞伎役者にしろすべてが取り締まりあるいは取り潰しにあったとか。 この辺りの世相と出来事を詳しく述べた矢田挿雲の「江戸から東京へ」(中央文庫)の第七巻をご一読下さい。 出来ますれば第一巻から第九巻まで熟読される事をお勧めします。

raizu1984
質問者

お礼

早い反応有難うございます。 陰間茶屋に関しては開国の影響ではなく風紀粛清の波をじわじわ受けていたって事ですかね。娼婦と陰間を同じ売春業だと見ないほうがよさそうですね。

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