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院政

問題集の解説ではよくわからないので教えてください。 「院政では法や慣例の遵守により、天皇家が摂関家から政治の実験を取り戻し 国政を主導した」 この選択肢が誤りである理由が「摂関家の勢力は強く、実権を取り戻したわけではない。 院政後に摂関政治の全盛期が現れたことからもわかる」 とあるのですが。摂関政治って院政の前だったような・・?この解説間違ってるとすれば 本当はどういう理由ですか?

みんなの回答

  • fumkum
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回答No.4

NO3です。脱文をしてしまいました。申し訳ありません。 脱文は、次の()の部分です。 「院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところから始まったものであるが、法や慣例にこだわらずに上皇が政治の実権を専制的に行使するようになり、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余りも(続いた)。そのため摂関家は、勢力の衰退を院と結びつくことで盛り返そうとつとめた」

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

おはようございます。 問題集の解説は誤りです。これほど頓珍漢な解説も珍しいと思います。 お考えのように摂関政治の全盛期は藤原道長及びその息子の頼道の頃(11世紀前半)とされていますから、1086年から開始された院政より前になります。 では、選択肢の内容で誤りの部分はどこになるのかと言うと、「法や慣例の遵守により」の部分が誤りです。この部分に関しては教科書には次のように記述しています。 「院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところから始まったものであるが、法や慣例にこだわらずに上皇が政治の実権を専制的に行使するようになり、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余りも。そのため摂関家は、勢力の衰退を院と結びつくことで盛り返そうとつとめた」 上記の、「法や慣例の遵守により」の部分が、「法や慣例にこだわらずに」と相反するので、誤りとなります。 これに関連して、史料集には中御門の右大臣藤原宗忠の日記である「中右記」の文をあげて、慣例を破る院政の姿を示しています(史料集の小題は「院政の腐敗」)。 「(白河)法皇の御時初めて出来せし事 受領功万石疋進上の事 十余歳の人受領となる事 三十余国定任の事 我身から始めてこ三四人に至り、同時に受領と成る事……」 付記になりますが、院政に関して重要な点は次のようなものです。 荘園整理令を歓迎する受領層を支持勢力として取り込んだ。また、武士を院の御所の「北面の武士」として組織して取り込んだ。 上皇は「院庁」をひらいて院政を行う役所とし、ここに事務処理の役人としての「別当」などの「院司」を置き、「院宣」「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」などの文書により、国政を動かした。 「院の近臣」と呼ばれる上皇・天皇の「乳母(めのと)」の血縁者や受領層が、院の側近として権勢をふるった。 他にもありますが、長くなりますのでこの辺で。 以上、参考まで。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

その選択肢は明らかに間違い。院政の意味は、自分の眼の黒い内に次代の皇位継承を確定させるってだけです。というのは院政そのものには摂関家の権力を弱める仕組みも上皇に権力を集中させる仕組みも全く備わっていないのです。院政の意味は、上皇という名目で若い後継者に天皇の位を譲った後でも、実質的に天皇の立場を継続できるってことです。名目的な継承、名目的な譲位、名目的な天皇。 一口にいえば、院政の前も後も天皇家と摂関家の関係は何も変わらないってことです。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.1

ru-rusakebitaiさん、こんにちわ。 これはたぶん有名な白河院政や鳥羽院政の時代を指しているのではなく、嵯峨天皇や宇多天皇、円融天皇の時代の院政前史を言っているのだと思います。この時は上皇自身の健康や能力的な問題や、政治組織的に未分化なため、上皇の死後に天皇の外戚である藤原氏に政治の実権を奪われました。 もし、この問題が私の予想通りだとすれば、かなり実力のいる問題です。もともと高校の教科書に載っているかどうか難しいところだからです。うまく載っていたとして宇多上皇の頃かな。 詳細なことはこのURLを参照してください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF

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